episode.52 敵地へ乗り込む
ゼーレが開いた穴を通り、私は見知らぬ場所へと飛び込んだ。
そこは無機質な場所だった。
金属製と思われる真っ黒な床に立つと、靴を履いていても、足の裏まで冷たさが伝わってくる。そこに温かみなんてものは、ほんのひと欠片も存在していない。
「なるべく騒がないで下さいね」
「騒がないわよ!」
「ほら。すぐにそうやって大きな声を出すじゃないですか。止めていただきたいものですねぇ」
「……ごめんなさい」
私の心は不安に揺れていた。
まったく知らない敵地、というだけでも不安だ。それなのに、傍にゼーレしかいないのだから、なおさらである。
「ま、分かればいいでしょう。とっとと行きますよ」
ゼーレは歩き出す。妙に早足だ。私は慌てて彼の背を負う。
「待って」
「待ちません。面倒なことになりたくありませんから」
淡々と足を進めるゼーレ。その足取りに迷いはない。
そんな彼の背中は、なぜか、妙に逞しく見えた。
本来憎むべき相手のはずだったのに。
それからしばらく、私はゼーレの後ろについて歩いた。
黒いマントをなびかせて歩く彼は、私を待ってはくれない。しかし、一応速度は調節してくれているようで、ゼーレと私の距離は常に一定だった。
「ねぇ、ゼーレ。本当にこっちで間違いないの?」
「間違いありませんよ。疑い深いですねぇ」
ゼーレは、煩わしい、と言いたげに顔をしかめる。
「トリスタンに会える?」
「会えます」
「トリスタン……。怪我していないといいけど」
するとゼーレは吐き捨てるように言う。
「さすがに、無傷ということはないでしょう」
こちらが切なくなるほどに、冷ややかな声だった。
同情など、彼が一番嫌うことだ。それは分かっている。しかし、それでも私は、こんな風になってしまった彼を可哀想だと思った。
「どうしてそんなことを言うの!」
「だから騒ぐなと言っているでしょう」
「トリスタンが傷つくことを望むなんて、酷いわ!」
つい感情的になってしまった。無意識のうちに声が大きくなる。
おかげでゼーレに睨まれた。
「……勘違いしないで下さい」
低い声を出されると、自然と体が強張る。
「私は貴女への恩を返すだけ。レヴィアス人の味方になるというわけではありません」
なぜ平気でそんなことを言うのだろう。突き放すようなことばかり言って、自分を独りにして、寂しいとは思わないのだろうか。
少しくらい、寄り添うように努めればいいのに。
「じゃあゼーレは、これが終わったらもう、喋ってくれないの?」
数歩先を行く彼に尋ねてみた。
「ボスやリュビエのところへ帰ってしまうの?」
私の二度の問いかけに、ゼーレは答えなかった。
彼は進行方向だけをじっと見据え、歩き、沈黙を貫く。グレイブにやられた傷はまだ治癒しきっていないはず。それなのに背筋がぴんと伸びているから、不思議だ。
——そんなこんなで、彼からその答えを聞くことはできずじまいだった。
さらに歩くこと数分。
ゼーレと私は、扉の前へたどり着いた。
無知な私でも「鉄製だろうな」と想像のつくような、いかにも分厚そうな扉だ。全体的には灰色で、ところどころ赤茶色になっている。お世辞にも綺麗とは言い難い外観である。
威圧的な空気をまとった扉にゼーレは触れた。
ピコン、と可愛らしい音が鳴る。
「カトレア、心の準備をしておきなさい。トリスタンは恐らく、この先です」
「分かったわ」
私は心の準備をしながら、一度だけ深く頷いた。
その間も、ゼーレは手を扉に当てている。
「何をしているの?」
「ロック解除です。どうしても……少し時間がかかりますねぇ」
扉を開けるために、なぜ手なのか。
私は純粋に疑問に思った。
「扉を開けるなら、鍵じゃないの?」
「帝国ではそうなのでしょうねぇ。しかし、ここでは違うのです」
「そう。謎ね」
待つこと数十秒。
突然ガチャリと音がした。
これは私にでも分かる。鍵が開いた音だろう。
「もう開いた?」
「せっかちですねぇ……」
「何よ、悪い!?」
「いちいち怒らないで下さい。で、貴女が仰る通り、扉は開きました」
ゼーレは淡白に言うと、鉄製の扉を開ける。
キィィィ、と軋むような音が鳴り、私は一瞬耳を塞いだ。単純に耳が痛かったからである。すぐに元の体勢に戻る。
「ここは……部屋? 凄く広いのね」
私は思わず感心の声を漏らした。
分厚い扉の向こう側に広がっていたのは、狭い牢屋などではなかったからだ。個人的にはゼーレが入れられていたような薄汚い部屋をイメージしていたのだが、扉が開かれた今、この目に映るのは、想像とは真逆の空間だった。
だが、こんなことに驚いて時間を潰している場合ではない。
一刻も早くトリスタンのもとへ行かねばならないのだ。一分一秒も無駄にはできない。
なので私は、ゼーレとともに、部屋の中へと足を進めた。
だが、そう簡単にはいかなかった。
「……化け物っ!?」
私たち二人の行く手を遮るように、化け物の群れが現れたのだ。
今回は狼型ではない。蜘蛛でも蛇でもない。
昔何かの本で見た悪魔のように鋭い羽を持ったこれは——コウモリ。洞窟なんかの天井にぶら下がると言われている、コウモリの形をしている。
「やはり罠がありましたか……」
ゼーレは、一人納得したように呟いている。
「罠がありましたか、じゃないわよ! 可能性があるなら、先に教えておいてちょうだい!」
「細かいですねぇ、貴女は」
「べつに細かくなんてないわ! 普通よ!」
「はぁ」
面倒臭そうな顔をされてしまった。
当たり前のことを言っただけなのに面倒臭そうな顔をされるというのは、少々悔しいものがある。文句を言ってやりたい気分だ。
けれど、そんなことをしている暇はない。
今はただ、目の前のコウモリ型化け物を殲滅することだけを考えなくては。
「ゼーレ! この群れはどうするの!?」
考えにずれがあっては後ほど困る。だから一応確認しておいたのだ。
すると彼は、落ち着きのある声で返してくる。
「一気に片付けます。貴女も協力なさい」
そんなことを言いながら、ゼーレは、高さ一メートルほどの蜘蛛の化け物を、四五体作り出した。
「えっ。私も!?」
「まったく馬鹿らしい。当然でしょう」
「わ、分かったわ!」
私は速やかに、赤い光球を放つ準備をする。
そのうちに、コウモリ型化け物の群れが、私たちをめがけて飛んでくる。予想外の速度だ。
だがゼーレは怯まない。蜘蛛の化け物たちへ素早く指示を出す。
そして指示を受けた蜘蛛の化け物たちは、炎を吹き出し応戦する。コウモリ型化け物もさすがに近寄れない、かなり強力な炎だ。
それを目にした瞬間、あの夜の禍々しい記憶が蘇った。
村が燃える。人々は泣き叫び、逃げ惑う。そして私の母は、この赤に飲み込まれて塵と化した。
すべてが失われたあの夜の、消し去ってしまいたいものが、次から次へと脳裏に浮かんでくる。そしてそれらの記憶は、ゼーレは憎むべき相手なのだと、繰り返し語りかけてきた。
分かっているのだ、そんなことは。嫌というほど分かっている。
それでも今は——トリスタンを助けるために、ゼーレを信じる外ない。




