episode.43 蒼い夜
地面に伏したトリスタンの背を、リュビエは躊躇いなく踏みにじる。彼女は楽しんでいるようにさえ見えた。トリスタンを倒したという満足感に満ちているのかもしれない。
「マレイちゃ……ん、逃げて」
地面に押さえつけられたまま、トリスタンは言った。
絞り出すような声は、聞くだけで胸が痛む。それと同時に、無力さを改めて突きつけられた気がして、心の中にある「情けない」という気持ちが、どんどん膨らんでいく。
「優しいのね。騎士さんは」
リュビエは片手を口元へ添え、くすくすと控えめに笑った。
上品な笑い方ではあるが、その顔には、嘲りの色が濃く浮かんでいる。
それから彼女は、トリスタンの背を踏む足に、再び力を加える。トリスタンの白い背は、徐々に茶色く汚れてきていた。リュビエのブーツの裏についていた土が、トリスタンの衣装にも付着したものと思われる。
「でも、他人より自分の心配をするべきだと思うわよ」
冷ややかに言い放った後、リュビエは、トリスタンの髪の房を掴み、彼の体を持ち上げる。
「……髪を引っ張らないでくれるかな」
「あら、生意気」
「……こんなくらいじゃ、生意気とは思えないんだけどね」
トリスタンの、先ほど杖で殴られた額には、切り傷ができていた。さほど深そうではないものの、傷からは多少血が流れ出ている。痛そうに見える。
「黙ってちょうだい」
リュビエは声を強めた。
それから彼女は、トリスタンの首元に、小さな蛇を這わせる。
「止めて!」
小さな蛇を目にした瞬間、私は叫んだ。
前のことを思い出したからだ。
あの時の小さな蛇は赤かった。しかし、今トリスタンの首元を這っている蛇は、赤ではなく、暗い緑色をしている。色の気味悪さから言えば前の赤の方が上だが、今回のものも油断はできない。
「……何なの? マレイ・チャーム・カトレア」
彼女はゆっくりとこちらへ顔を向ける。
純粋に鬱陶しいと思われていそうな感じだ。
「トリスタンに何をする気ですか!」
「そんなこと、お前には関係ないでしょ。黙っていてちょうだい」
「関係はあります!」
前にも誰かに、こういうことを言ったことがある気がするが、それがいつだったか今は思い出せない。
いや、思い出す必要もないだろう。そんなに大事なことではない。
「リュビエさんの狙いは私なのですよね? だったら、どうしていつもトリスタンに手を出すんですか。私を直接狙えばいいでしょう!」
「お前、案外愚か者ね。邪魔者を放っておけるわけがないじゃない」
——愚か者、か。
確かにそうかもしれない。私は愚か、それは一つの真実だ。
口では頑張る頑張ると言っておきながら、ろくに戦えず、周囲に迷惑をかけるだけ。フランシスカやトリスタンを巻き込み、痛い目に遭わせて、そのくせ自分だけは無傷でいる。
「お前が大人しくあたしに従えば、誰も巻き込まれずに済んだのよ。全部お前のせいよ、こんなことになったのは」
リュビエはトリスタンは担ぎ上げる。
トリスタンは、意識はあるものの、抵抗するほどの力はないらしい。浅い呼吸をしながら、私の方を見つめている。
「トリスタン! 待ってて、今助けるわ!」
私はすぐに、指を腕時計の文字盤へ当て、右腕をリュビエの方へ向けた。
そして、赤い光球を放つ。
しかしリュビエには当たらなかった。
彼女が素早く生み出した大蛇が光球を防いだからだ。
ダリアで巨大蜘蛛の化け物を倒した時のような、光線。あれが出せたなら、大蛇を貫き、リュビエにまでダメージを与えられたかもしれない。だが、リュビエが私に攻撃の意思を抱いていないせいか、あれほどの力は出せなかった。
巨大蜘蛛の化け物の時みたいな力を発揮するには、もっと、私自身が危険な状態に陥らなくてはならないのだろう。
私は何とかトリスタンを取り戻そうと、大蛇に向けて赤い光球を何度も放った。数回の内に大蛇は倒せ、塵にすることができたが——時既に遅し。
リュビエとトリスタンは消えていた。
「……そんな」
場に一人残された私は、誰もいないその空間を、信じられない思いで見つめることしかできなかった。
トリスタンがいなくなった。
その事実を理解できず、ただひたすらに、呆然として立ち尽くす。
「どうして」
ダリアで初めて出会ったあの日から、ずっと変わらず優しくしてくれたトリスタン。彼は私を、新しい世界へ連れ出してくれた。それからも、護ってくれて、傍にいてくれて、いつだって私を理解しようとしてくれて。
彼は良い人だった。
なのに、そんな善人の彼が、私のためにリュビエに連れていかれてしまうなんて。
『お前が大人しくあたしに従えば、誰も巻き込まれずに済んだのよ』
真っ白になった頭に、リュビエの冷ややかな言葉がこだました。
なぜ彼が。
そんな思いが、胸の内に、少しずつ広がっていく。
ちょうどその時。
耳に飛び込んできた声に、私は正気を取り戻す。
「マレイちゃん! どうなったの!?」
「フラン……さん」
「え? え? トリスタンは?」
フランシスカはトリスタンの姿がないことに戸惑い、きょとんとした顔で辺りを見回している。
リュビエに蹴り飛ばされたわりには元気そうだった。
「あの女もいないし。これ、どうなってるのっ?」
フランシスカは、睫毛のついた愛らしい目をパチパチさせながら、尋ねてくる。まだ状況が飲み込めていない様子だ。
「トリスタンは……リュビエに」
私は説明しようと言葉を紡ぐ。
だが、その唇さえ震え、言いたいことが上手く言えない。
「えっ? マレイちゃん、今何て言ったの?」
「リュビエに……」
その先が言えない。
一部始終を見ていた私がフランシスカに状況を説明するのは、当然のことだ。仲間なのだから、分かっていることはすべて話すべきだと思う。
けれども、口が動かなかった。
私の情けなさを明らかにするかのように思えて。
「マレイちゃん?」
フランシスカの柔らかな髪から漂う甘い香りさえ、今は悲しい気持ちを掻き立てる。
「どうしたの。そんなにぼんやりしてたら、かっこ悪いよ?」
「ごめん……なさい」
半ば無意識に、私は地面にへたり込む。
脚が震えて、真っ直ぐ立っていられなくなったのである。
「ごめんなさい」
傍にいることが当たり前。いつでも話せることが普通。
心のどこかで、そう思っていたのかもしれない。だから、今私は、こんなにもショックを受けているのだろう。
失って初めて大事さに気づく、とは、こういうことを言うに違いない。
記念すべき初陣の日。
初めての夜は、大切な人と引き離される痛みを思い出す、悲しい夜となった。




