episode.30 レヴィアススカッシュ
明らかに眠れそうにない私は、トリスタンと二人で食堂へ行くことにした。
まだ早朝なので、人はあまりいない。しかし、地下牢へ続く階段の付近でグレイブの姿を見かけた。彼女は一人で、険しい顔をしていた。その映像が、妙に、脳裏に刻まれている。
「さすがにまだ誰もいないね」
「えぇ。少し寂しいわ」
「そうかな? 僕は静かな方が好きだけど」
「トリスタンらしいと思うわ」
そんなたわいない会話をしつつ、私とトリスタンは食堂の椅子にそれぞれ腰を掛ける。位置は向かい合わせだ。
「マレイちゃん、何か飲む?」
「そうね……」
いきなり尋ねられたため、私は回答に困る。
急に「何か飲む?」などと聞かれ、パッと答えられるほど、私は器用な人間ではない。
「何があるの?」
食堂についてはまだよく知らないため、一応質問してみた。
するとトリスタンは笑顔で答えてくれる。
「コーヒー、紅茶、あとは……レヴィアススカッシュとか?」
「最後のは何?」
レヴィアススカッシュなんて飲み物、聞いたことがない。
私が十歳まで育ったあの村も、アニタの宿屋があるダリアも、どちらもレヴィアス帝国内ではあった。けれども、そんな飲み物の名称は耳にしたことがないし、恐らく飲んだこともない。
ただ、レヴィアススカッシュとは、妙に美味しそうに感じる名称だ。
「飲み物よね?」
「うん。虹色の炭酸ジュースなんだ」
「え。にっ、虹色っ!?」
驚きのあまり、深い意味もなく目をパチパチさせてしまった。虹色の飲み物なんて、見たことがない。
その時の私は、きっと、かなり情けない顔をしていたのだろう。
こちらを見ていたトリスタンが、ふふっ、と笑みをこぼした。
「マレイちゃんって、純粋だよね」
彼は笑いながら、楽しげな声でそんなことを呟く。
「純粋?」
「うん。君といると凄く癒やされるよ」
言ってから、彼はまた、くすくすと笑う。
心なしか馬鹿にされている感が否めない。しかしトリスタンのことだ、馬鹿にしての発言ではないだろう。
彼がそんな男でないことは分かっている。にもかかわらずそんな風に感じるのは、私の心が荒んでいるからに違いない。原因は私。これはフランシスカの時もそうだった。
「で、飲み物は何にする?」
「えっと、じゃあ……。その何とかスカッシュで!」
「オッケー」
彼は親指を立て、ウインクした。
トリスタンに任せ、待つことしばらく。
二つのグラスを持った彼が、ゆっくりとこちらへ戻ってきた。
「お待たせ」
「大丈夫よ。そんなに待っていないわ」
私は、そう答えながら、彼の顔からグラスへと視線を移す。グラスの中身は、本当に虹色をしていた。
テーブルへ二つのグラスを置き、席に着くトリスタン。
「はい、どうぞ」
高めのグラスの中に広がる虹は、揺れる水や動く泡と合わさり、幻想的な世界を創造している。たった一つのグラスにすぎないというのに、それは、広大な海のようにも、果てしない空のようにも見える。
「凄く綺麗ね! トリスタン!」
私は思わず声をあげた。
早朝のため、まだ人があまりいない。だからまだ良かった。もしこれが、多くの人がいる時間帯だったら、恥をかくことになってしまっていたことだろう。
「気に入ってくれた?」
「えぇ! 海みたいな、空みたいな、素敵な感じ!」
美しいものは心を輝かせる。鮮やかな色は心を弾ませる。
だから好きだ。
いつ身の危険にさらされるか分からない危険な世界に暮らしているからこそ、このような明るい気持ちにしてくれるものは必要だと思う。
「少し、飲むのがもったいないわね」
「そういうもの?」
よく見ると、トリスタンは既に飲み始めていた。
せっかく美しいジュースなのに、彼は眺めることもしていない。
「美味しいよ。マレイちゃんも早く飲むといいよ」
「え、えぇ。そうね、そうするわ」
私は、その時になって初めて、ストローに口をつけた。
本心を言うなれば、もう少し眺め続けていたかったのだが——トリスタンが飲むように促してくるので、仕方ない。今日だけの特別メニューなわけではないので、いずれまた見られることだろう。
そう思い、自身を納得させながら、ジュースを飲んだ。
虹色に輝くレヴィアススカッシュは美味しかった。
その色鮮やかさに負け劣らない、爽やかで飲みやすい味をしている。時に酸味、時に甘味。そして、鼻を抜けるミントのような香り。
「美味しい……!」
頬が赤く染まってしまいそうな美味だ。
ただ甘いだけではない、色々なものが複雑に混じり合ったような味は、見事なものである。
「気に入ってくれた?」
「えぇ! 美味しいわ!」
トリスタンの問いに、私ははっきりと答えることができた。
こんな幸福、いつ以来だろうか。
私たちがレヴィアススカッシュを飲み終えた、ちょうどその頃だ。
ドシン、という震動が私たち二人を襲った。
「な、何!?」
突然のことに慌てそうになる私に、トリスタンは「落ち着いて!」と言い放つ。彼は席から立ち上がると、私のすぐ横へ来て、手を握ってくれる。
「マレイちゃん、落ち着いてね。大丈夫だから」
「え、えぇ……」
一人の時よりかは心細くはない。
けれど、またトリスタンに何かあったらどうしよう、と考えてしまう。
起こってもいない心配をしても無駄だ。そういう心配は、大概が杞憂に終わるものである。そう分かってはいて、けれども、胸を包む不安は一向に消えてはくれない。
——その時。
ふと、グレイブの姿が思い浮かんだ。
ここへ来る前、一瞬すれ違った彼女。確か、地下牢へと行っていた。
「そうだ、トリスタン!」
「え。何?」
「ゼーレは地下牢にいるの!?」
戸惑ったようにまばたきを繰り返すトリスタン。
「いきなりどうしたの、マレイちゃん」
「捕まったゼーレは今どこ? 地下じゃないの?」
「よく分からないけど、捕虜とか罪人は大体地下牢に入れられるものだよ」
「やっぱり……!」
なぜだろう、胸騒ぎがする。
捕獲され地下牢にいるであろうゼーレと、地下牢へ続く階段の付近を歩いていたグレイブ。
きっと——偶然ではない。
「トリスタン、今から地下牢へ行くわ!」
「え? ちょ、待って……」
私はすぐに腰を上げ、椅子をしまって走り出した。
何者かに、導かれるように。




