episode.29 痛みを知れ
マレイとトリスタンがグレイブについて話していた、その頃。
グレイブは、昨夜拘束したゼーレと、地下牢にて顔を合わせていた。
「捕虜になった気分はどうだ、人型」
グレイブは座った体勢で固定されたゼーレを見下し、冷ややかに言う。
「その人型という呼び方、不愉快です」
ゼーレは静かに、しかし棘のある返し方をした。
彼は今、囚われの身である。
人のものでない両腕は体の後ろで固められ、全身を鎖で締めつけられ、両足には重り付き拘束具が装着されている。
どう頑張っても動くことはできそうにない状態だ。
だが、それでも彼は冷静さを欠いてはいない。
「ふざけるな、化け物め」
「失礼ですねぇ」
「調子に乗るなよ! 人型!」
グレイブは咄嗟に長槍を取り出し、その先端を、ゼーレの喉元へ突きつける。
しかし、ゼーレが顔色を変えることはなかった。
「そんなことで私が動揺すると、そう思いましたか?」
彼は愉快そうな声色で言い放つ。ほぼ動けぬ状態にあっても尚、彼は強気な姿勢を貫いていた。
所詮強がりに過ぎないのだろう。しかし、弱音を吐くことなど、彼にできるわけがない。どんな状況へ身を置いていたとしても、だ。
「馬鹿らしい。力で押さえつけようなど、野蛮としか言い様がありませんねぇ」
「黙れ。それ以上言うなら、首を掻き切ってやる」
「大事な情報源を殺してしまって良いのですかねぇ」
仮面の隙間からじろりと睨まれ、グレイブは言葉を詰まらせる。
「……っ」
すると、それを待っていたかのように、ゼーレは言う。
「勢いがあるのは良いことです。しかし、すぐに動揺するというのは、問題ですねぇ」
「どういう意味だ」
「あまり感情的になっていると、いつか足下をすくわれますよ。そう忠告して差し上げているのです」
直後、グレイブはゼーレの前へしゃがむ。そして、長槍の先を、彼の太ももへ突き刺す。
「それ以上余計なことを言うなよ」
低い声で威圧的に述べるグレイブ。
彼女の漆黒の瞳は、憎しみと怒りの混じった複雑な色を湛えている。燃える炎のようにも、深い闇のようにも見える、そんな色だ。
「分かったか」
するとゼーレは、何事もなかったかのような顔で返す。
「他人の脚を突き刺すとは、相変わらず乱暴ですねぇ」
黒い装束のおかげで目立たないが、槍を刺されたゼーレの太ももは赤く滲んでいた。
「貴様らのせいで多くの者が命を落としてきた。無論、その中には私の知人も多くいる」
「だったら何だと言うのです?」
「ふざけるな!!」
飄々とした態度を取り続けるゼーレに腹を立てたグレイブは、一言、鋭く叫んだ。
「ふざけてなどいませんが?」
「その態度がふざけていると言っているんだ! ……私たちレヴィアス人がこれまでどれだけ傷つき苦しんできたか、今ここで教えてやる」
グレイブは、長槍を握る手に力を加える。
この時になってゼーレは初めて表情を揺らした。掠れた苦痛の声を漏らす。
「痛いか、ふふっ、そうだろうな。心の痛みは分からずとも、肉体的な痛みなら分かるはずだ」
「……陰湿な女ですねぇ」
「何とでも言えばいい。これは死んでいった者たちによる復讐だ」
化け物が手の届く距離にいる。そして、好きなように扱える。その事実が、彼女の復讐心の目を覚まさせたのだろう。これまでどうしようもなかった化け物たちへの憎しみを、彼女はただ、意味もなく、目の前のゼーレへと向けている。
「復讐、ですか……。馬鹿らしい。貴女の言う死んでいった者たちを殺したのは私、という証拠はあるのですかねぇ?」
「証拠も何も、皆を殺害したのは化け物だ! それはつまり、貴様の仲間に殺されたということ。貴様に殺されたも同然だ!」
グレイブが荒々しく言い放つと、ゼーレは半ば呆れたように、首を左右に振った。
「それは違いますねぇ」
目を見開くグレイブ。
「化け物への復讐心と私への復讐心は別物です。混ぜないでいただきたい」
「何を今さら!」
「貴女の憎しみは本来、私へ向けるべきものではないはずです」
ゼーレの冷静な言葉に、グレイブは眉を寄せて黙る。
彼女とて馬鹿ではない。だから、本当は分かっているのだ。自身が抱く憎しみや復讐心は、ゼーレを傷つけることでは消えない、と。
それは分かっていて、それでも彼女は止められなかった。目の前にいる、化け物との繋がりを持つ男を傷つけることを。
彼女の心はそれだけ荒んでいる、ということなのだろう。
「私をどうしようが貴女の自由です。ただ、どれだけ殴ろうが蹴ろうが、貴女の中の傷が癒えることは決してない。それもまた真実。……そうでしょう?」
ゼーレは不気味なほどに落ち着いている。
既に槍を刺され、これからさらにどんな目に遭うかも分からないというのに。
「これ以上痛い目に遭いたくないから、そんなことを言うのだろう? 素直に『止めてくれ』と言えばいいものを」
そう言って、グレイブは槍を振るう。
二度三度、ゼーレの腹部を柄が強打した。
彼はさすがに痛かったらしく、上半身を折り曲げる。一筋の汗が、首筋を伝い、地面へ落ちた。
「痛みを知れ。傷つく痛みを、理不尽な目に遭う痛みを」
地下牢という暗闇の中、グレイブの漆黒の瞳は、気味が悪いほどに爛々と輝いている。
長年溜め込まれていた負の感情が、一気に溢れ出したからだろうか。彼女はもはや、その負の感情——心の闇に、完全に飲み込まれていた。
暗闇の中でさえ目立つほどの黒。それが今の彼女、グレイブだった。
「……痛み、ねぇ」
上半身を折り曲げたまま、地面を見つめて呟くゼーレ。
「そんなもの、知っていますよ……嫌というくらい」
けれども彼の小さな呟きは、グレイブには聞こえていなかった。




