episode.129 この剣のひと振りで
地面へ座り込んだまま痛みに震えていると、ボスが歩み寄ってきた。山のような巨体が近づくにつれ、尋常でない殺気が私の肌を粟立てる。一刻も早くこの場から離れなくては、という危機感を覚えた。
「……っ!」
気づくと、ボスの片足が私を睨んでいた。
私は腕の力を利用して立ち上がり、踏みつけられそうになるのを何とか回避する。しかし、またそこから転倒という、笑い話のようなことになってしまった。着なれないドレスなこともあり、すぐには体勢を立て直せない。
まずい、心が折れそうだ……。
それが今の私の本心だった。
胸に剣を突き刺すという奇跡的な成功を収めはしたものの、ボスを倒すには至らず。結局またこんな風に追い回されて。
もはやどうしようもない状況である。
「逃がすものか!」
「止めてっ……」
「我にこのようなことをして、ただで済むと思うなよ!」
ボスの胸元の傷からは、とくとくと脈打つように血液が流れ出している。にもかかわらず、ボスはまだ動きを止める気配がない。血が出続ければ人はいずれ動けなくなるはずなのだが。
——と、そこへさらにボスの足が迫る。
「止めてっ!」
私は咄嗟に、剣を振った。
剣先がボスの足を薙ぎ、赤い飛沫が飛び散り、頬を濡らす。
「うぐっ!?」
「お願い、ボス! もう止めて!」
「何を……馬鹿なことを……」
このまま放っておいても、ボスはいずれ息絶えるだろう。胸を刺され、あれだけ出血すれば、息絶えるのも時間の問題だ。だが、放置しておくこともできない。というのも、放置していたら、ボスが息絶える前に私がやられてしまうのである。
私がやられないためには、早く止めを刺さなくてはならない。それに——早く楽にしてあげた方が良いだろう。
「もう終わりにしましょう! こんなこと!」
「ほざくな! 小娘が!」
憤ったボスが突っ込んでくる。
狙うなら、今。
剣の柄を握る指に力を込めた。
すべてを終わらせる。
この剣のひと振りで。
「……な」
刃はボスの首を掻き切った。
私の力では、首と頭を離すことはできなかったが、それでも深く斬ることはできたようだ。
「馬鹿……な……」
赤いものが噴き出すのを、私は、見ることができなかった。私はそんなに度胸のある人間ではないから。
背後でどしゃりと、大きなものが崩れる音がした。
足が震える。肌は粟立ち、寒気すら感じた。これまで一度も体験したことのないような悪寒が、背筋を駆け抜けていく。
やがて、そんな私の耳に、グレイブの声が飛び込んでくる。
「終わったのか、マレイ」
聞き慣れた声が聞こえたことで正気を取り戻した私は、初めて体を後ろへ向けることができた。
「グレイブさん!」
「マレイが倒すとは、夢にも思わなかった」
苦笑いしながら、彼女が歩み寄ってくる。
私は、その時初めて、すぐそこに転がるボスの姿を目にした。既に息絶えたボスの骸は、まるで捨てられた人形のよう。
「おかげで、こちら側の隊員はほぼ全員無事だ。最後の最後に協力してやれなくてすまなかったな、マレイ」
「い、いえ……」
「私はまだ後始末が残っているが、マレイは、これで後は撤退するのみだ」
グレイブの漆黒の瞳は私をじっと見つめている。
「動けるか? 引き上げる準備をしよう」
彼女は相変わらず淡白だ。大きな戦いが終わった直後だというのに、嬉しそうな顔すらしていない。
そんな彼女に、私は尋ねる。
「あ、あの、ゼーレは……?」
すると、ちょうどそのタイミングで、大きな声が聞こえてきた。
「ゼーレさんはぁぁぁーっ! 生きてますよぉぉぉーっ!」
この騒がしさ、間違いない。シンだ。
そう思いながら、声がした方へ目を向ける。すると、シンと、ゼーレを乗せた蜘蛛型化け物の姿が見えた。先ほどの大声を発したのは、やはりシンだったようだ。
シンに対し、グレイブはほんの少し口角を持ち上げつつ、問う。
「おぉ、シン。ゼーレの様子はどうだ」
「ちゃんと意識戻りましたよぉぉぉーっ!」
意識が戻った——その言葉を耳にした瞬間、胸の奥から明るい光のようなものが込み上げてきた。
「そうか。それなら良かった」
「でもでもぉぉー! 蜘蛛怖いですよぉぉーっ!」
「よし、もう離れていいぞ」
「いいんですかぁー!? わぁぁーいっ!!」
グレイブに許可を得たシンは、その場から走り去る。どうやら、蜘蛛型化け物が怖かったようだ。
シンが離れていくや否や、蜘蛛型化け物の上にいたゼーレがむくりと起き上がる。
「……騒がしい……です、ねぇ……」
「ゼーレ!」
私はすぐに彼へ駆け寄ろうとしたのだが、途中で足が絡まり、頭から転がってしまった。こんな何もないところで転んでしまったのは、疲れのせいだろうか。
「……何を、して……いるのですかねぇ……」
転んで情けない格好になってしまっている私の頭上から、ゼーレの掠れた声が降ってくる。顔を上げると、彼の顔が私を見下ろしていることが分かった。
「ゼーレ! 動けるのね!?」
「えぇ……今さら、気がつきました……」
そう話すゼーレは、顔色こそあまり良くないものの、意識自体ははっきりしている様子。私は内心安堵の溜め息をついた。
私はその場で立ち上がると、彼の体を抱き締める。
「良かった!」
彼の体を抱き締めると、ようやく「終わったのだ」という実感が湧いてきた。言葉にならない不思議な感情が込み上げてくる。
「生きてて……良かった」
私のせいで誰かが命を落とすなんて、もうごめんだ。
そんな経験は二度としたくない。
「……何です、カトレア。そんなことを言うとは……らしくありませんよ……」
「そうかもしれないわ。でも、でも、嬉しいの。貴方が生きていてくれて、本当に良かった」
するとゼーレは黙ってしまった。
彼は口を閉ざし、それから十秒ほどして、ようやく言葉を発する。
「……ありがとうございます」
ゼーレの頬が、熱を取り戻したように、ほんのり紅潮するのが見えた。
可愛らしい、なんて思ってしまったが、それは黙っておいた。そんなことを言うと、彼の機嫌を損ねてしまうような気がしたからである。
だが、戦いは終わった。
今はそれだけで十分。私はそう思う。




