episode.117 レアものの時間稼ぎ
時は少し遡り——まだフランシスカとゼーレがリュビエと戦っていた頃。
「帝国を手に入れるために……貴方は化け物を使って私たちを襲うの?」
すぼめた手のひらですくい上げた水は、はらはらとこぼれ落ち、水面に当たってぱしゃんと切なげな音を立てる。
「そうだ」
「……どうして、そんな方法を選んだの。死者が出るような乱暴な手段で帝国を手に入れたって……何の意味もないじゃない」
「いいや。意味がないことはない。どんな手段を使おうが、帝国を我が手の内に入れることができればそれでいい」
「そんな!」
心無いボスの言葉に、私は思わず声を荒らげてしまった。
願いを叶えるためなら何人犠牲になっても構わない、というような言い方に賛同するような真似はできない。作戦中だろうが何だろうが、それだけは絶対だ。
「酷いわ! どうしてそんな風に思えるの!」
「騒ぐな」
注意されたため、私は声の大きさを小さめに調整する。
ここはボスのテリトリー内だ。それゆえ、彼を刺激しすぎてはいけない。うっかり怒らせてしまえば、倒すどころの話ではなくなってしまう。場合によっては、私の命さえ危ない。
「……そうね、ごめんなさい。でも……本当に、なぜそんなことを簡単に言えるの? 誰かが死んだり、それによって悲しむ人がいたりするのよ。なぜ、それを問題だと思わないの?」
私はボスの顔色を窺いつつ口を動かす。
それに対してボスは、地鳴りのような低音で返してくる。
「そんなことは、お主と我が話すべきことではない」
「いいえ。話すべきことよ」
私もボスも無関係、というわけではないのだから、話したって問題はないはずだ。
「話すつもりは毛頭ない」
「そう……教えてくれないのね」
「お主はその力の研究材料となれば、それでいいのだ」
随分失礼な物言いである。
私だって人間だ、生活もあるし友人もいる。他の人間と同じように、毎日普通に生活しているのだ。
にもかかわらず、研究材料だなんて。失礼にもほどがある。
「貴女は私のことを道具としか考えていないのね」
今すぐ飛びかかりたい苛立ちぶりだ。しかし、今ここでボスに飛びかかっても何の意味もない。だから私は、ちょっとした嫌みを言うだけで済ませた。
「そうだ。だが、お主のような力の持ち主はなかなかおらん。そういう意味では、かなりレアものと言えるやもしれんな」
ボスは両手を腰に当てたまま、低い声でそんなことを言った。
重厚感のある声が空気を引き締める。だが、その程度で怯む私ではない。
「レアものですって?」
グレイブらが現れるまで、ボスをここに引き止める。それが、今私が、一番しなくてはならないことだ。そして、今回の作戦においての最重要部分でもある。
「失礼ね。他人を物扱いするなんて」
「お主の感覚からすれば、そうなのやもしれんな」
完全否定ではないところが、微妙に腹立たしい。他人事のように言うのは止めていただきたいものだ。
「——で、時間稼ぎはもう満足か?」
会話の途中、ボスが唐突に言った。
直後、私の首に刃が突きつけられた。銀色の、ぎらりと煌めく、よく斬れそうな刃だ。
ボス本人が突きつけているのではないが、恐らく、彼の手の者の仕業なのだろう。背後から伸びてきている。
「時間稼ぎ? どういうこと?」
「とぼけるなよ、マレイ・チャーム・カトレア」
恐る恐る、背後へと視線を向ける。すると視界に、銀色のロボットのようなものが入った。私の首に突きつけられている刃は、そのロボットのようなものが持つ剣の先のようだ。
「付近に刺客がいることは分かっているぞ。視線と気配でまるばれだ」
「……何のことだか分からないわ」
「あくまでとぼけ続ける気か」
ボスの視線からは、凄まじい迫力が感じられる。見る者が生命の危機を感じるほどの威圧感だ。
「ならば!」
口調を強めるボス。それとほぼ同時に、私の首もとに当てがわれていた刃が首に食い込む。ギリギリ斬れてはいないものの、ほんの少しでも動けば皮膚が斬れそうである。
「……っ!」
「容赦はしない。覚悟しろ、マレイ・チャーム・カトレア」
ボスは言い放ち、その後、中庭内のあらゆるところへ視線を向けた。ぐるりと一周見渡して、それから低い声で告げる。
「刺客よ、出てこい。出てこぬならば、この小娘を殺す」
グレイブらは本当に既に来ているのだろうか。ボスは視線や気配で分かると言うが、私にはちっとも分からない。今はただ、彼女らが来てくれていることを願うのみだ。
「今日は特別だ、十秒だけ待ってやろう。その間に出てくれば、この小娘の命を助けてやってもいい」
リュビエと同じく、ボスもかなりの上から目線である。
「十、九、八……」
ボスのカウントダウンが始まった。
カウントダウンもするのか……、という突っ込みはさておき。
「七、六、五……」
あっという間に半分。
これはそろそろ出てきてくれないとまずい。
ボスの言葉が本気かどうかは不明だが、カウントダウンが終われば私の首が飛ぶ可能性だってあるのだ。
「四、三、二……」
そこまでボスが数えた瞬間。
白い光が私に向かって飛んできた。
まるで、夜空を駆ける流れ星のように。
「お待たせ、マレイちゃん」
——気がつくと、私の前には、白銀の剣を構えたトリスタンが立っていた。
「トリスタン!」
「大丈夫だった?」
私が思わず名前を呼ぶと、トリスタンは首から上だけ振り返って尋ねてきた。私はすぐに頷く。
「えぇ、もちろん! もちろんよ!」
さらりと揺れる金の髪が、なぜか凄く懐かしい。前に見た時から時間はそんなに経っていないはずなのに、まるで旧友に会ったかのような気分だ。
「マレイちゃん、これを」
トリスタンが投げてきたのは腕時計。没収されていることを想定して、持ってきてくれていたのだろう。
「ありがとう!」
速やかに右手首に装着する。
「後は僕たちに任せて」
「できることがあるなら、私も手伝うわ」
トリスタンが来てくれたことで心に余裕ができたからだろうか、今は上手くいきそうな気がする。




