episode.10 私の決意
あの後、宿屋へ戻ると、やはりアニタに叱られた。しかし、いつもの憂さ晴らし的な叱りではなく、真に私の身を案じるゆえの叱りだったため、私は我慢することにした。そして、トリスタンが懸命に説明してくれたのもあり、最終的に、アニタの説教はいつもより短くて済んだ。
トリスタンには、本当に、感謝しかない。こんなに色々してもらって、申し訳ないくらいだ。
……いつかお返しができればいいな。
そして、翌朝。
一階でトリスタンと遭遇した時、私は私の心を述べた。
「トリスタン。私、行くわ」
いきなりの発言に、寝起きの彼は戸惑った顔をする。
妥当な反応だろう。何の前触れもなくそんなことを言われれば、戸惑わない者の方が少数派に違いない。
「えーと、何だったっけ?」
「帝国軍へ行くかどうかって話よ!」
寝ぼけたことを言うトリスタンに、私はハッキリと返す。すると彼は、さらに戸惑いの色を深め、二三回まばたきを繰り返した。
「本当にいいの?」
「えぇ、心は決まったわ。貴方が望むなら、私は帝国軍へ行く」
昨夜の時点で既に心は決まっていたけれど、一夜明けると、迷いなどもはや一片も残ってはいなかった。新たな場所へ行く不安がないわけではないが、今は不安よりワクワク感の方が大きい。
「本当にいいんだね?」
「もちろんよ。役に立てる保証はないけれど、私にできることは何でもするわ」
トリスタンは椅子に座ると、アニタに、二人分の朝食を注文した。それから、座るように促してくる。アニタの様子を気にしつつ、私は彼の向かいに座った。
「ありがとう、マレイちゃん。君はきっと国の宝になるよ」
「トリスタン。貴方って、少し大袈裟よね」
「そうかな? 普通だと思うけど……」
お互いの顔を見合わせて、笑みをこぼす。その時私は、細やかな幸福を感じる。
こんなことになるなんて、考えてもみなかったけれど。
でも、悪い気はしない。
「帝国軍へ行く、だって?」
宿屋の一階、奥の部屋。
アニタの訝しむような声以外に音はない。
「マレイ、アンタ……何を言っているのか分かっているのかい?」
「はい」
「帝国軍なんて、女の行くところじゃないよ」
止めにかかってくることは想定内だ。
アニタの性格を思えば、止めようとしないはずがない。さすがの私も、それを想定しないほどの馬鹿者ではないのだ。
「分かっています。けれど、必要とされているんです。必要とされるなら、私は行きたい」
私の力が求められることなんて、今まで一度もなかった。だから想像してもみなかったけれど、必要とされることは嬉しい。それもトリスタンのような好青年に必要とされているのだから、なおさらである。
しかしアニタはなかなか納得してくれない。
「行きたいと思うのは自由だけどね、アンタ、宿屋の仕事はどうするつもりなんだい?」
「それは……」
この展開も予想はしていたのだが、いざとなると上手く答えられなかった。思わず言葉を詰まらせてしまう。
こんな調子では駄目だ。しっかりしなくては。
そう自身を奮い立たせ、ハッキリとした調子で返す。
「辞めさせていただく方向で考えています」
突然辞めるなど無責任の極み。それは分かっている。アニタに迷惑をかけてしまうということも、十分理解しているつもりだ。
だが、それでも私は帝国軍へ行く。必要とされる場所にいる方がいい、と思うからである。
「マレイ……それは無責任だよ」
「分かっています。すみません」
「今までの恩を忘れたのかい!?」
アニタは圧を強めてくる。
しかし、そのくらいで自分を曲げる私ではない。
「忘れるわけがありません。アニタさんには感謝しています。ただ、挑戦してみたいのです。私にどこまでできるかを」
平静を保ち、落ち着いた真剣な声で返す。
刺激しないように本気さを伝えるのは、なかなか難しい。だが、この程度で挫けそうになっているようでは、先が思いやられる。もっと強くならなくては。
「迷惑をおかけするのは分かっていますが、どうか、許して下さい」
私は頭を下げた。
アニタに雇ってもらってから、これまで、幾度も頭を下げてきた。、ミスした時、遅かった時、失礼があった時……その回数といったら数えきれない。
しかし、自らの意思で頭を下げるのは初めてだ。
そして沈黙が訪れた。
ほんの数秒が、永遠かと思うような長さに感じられる。アニタと二人きりの沈黙は、信じられないくらい重苦しい。
そんな重苦しい沈黙の果て。アニタはゆっくりと口を開いた。
「……分かったよ」
落ち着いた、穏やかな声色だ。
「本気なんだね、マレイ」
「はい」
「分かった。なら頑張りな」
その言葉に、私は初めてアニタの顔を直視することができた。視線の先のアニタは明るく笑っていた。
「その代わり、逃げて帰ってくるんじゃないよ!」
さっぱりとした声で放たれる言葉に、私は強く頷き、「ありがとうございます!」と返す。心の底からの言葉だった。
「本当にありがとうございます!」
私は、この時初めて、純粋に笑みを浮かべることができた。最後にもう一度礼を述べ、深く頭を下げてから、部屋を出る。
心は快晴だ。
部屋から出ると、そこにはトリスタンが立っていた。白い衣装に身を包んだ、長い金の髪が印象的なトリスタンである。
その、神から貰い受けたような均整のとれた顔には、心配の色が浮かんでいる。
「……どうだった?」
「頑張りな、って言ってもらえたわ」
シンプルに答えると、彼は安堵の色を浮かべ、ようやく頬を緩めた。
「そっか。それなら良かった」
微笑むトリスタンも悪くない……って、あれ? 私は一体何を考えているのだろう。……まぁ、いいや。
「それで、今日中に出るの?」
「どっちでもいいよ。マレイちゃんが行けるなら今日でもいいし、無理そうなら明日でもいいよ」
「なら今日にしましょう!」
トリスタンは私の意思を尊重する立場をとってくれていたので、私はハッキリと答えた。
善は急げと言うものね。
「すぐに出発の用意をするわ」
若干気が早すぎる気もするが、特に問題はないだろう。
こうして私は、出発の準備をすることになった。
ここから先は、まだ見たことのない場所。何が起こるか分からない。
だが、大丈夫だ。
私にはトリスタンという道標がある。だから、歩いてゆける。




