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ついのべ集@しおなか

悪夢 #twnovel 601-700

作者: しおなか

【601】

 いつもより登り坂が軽かったが、自転車を降りるときまで、後輪の金網をつかむ手首に気がつかなかった。


 *


【602】

 店で買った犬用の地図は、隣町までしか載っていないけれども、バス停やガソリンスタンドも分からないけれども、方角も縮尺も狂っているけれども太陽に透かし見るときたないしみがうかんでくるけれどもしんけんにあよむうちにあだんだんだんあたまがおしくなてくるあけああワあオン。


 *


【603】

 人魚の言葉があぶくになることについて人が語るときに挙げられるのは醜い詩人たちのことだ。吐き出された言葉は立ちのぼるときに前後して、曖昧さを磨きあげて水面ではじける。アナグラムされた人魚の言葉は人の記憶を溶解させる。詩人たちはそれを後生大事に書きためて、疎まれる。


 *


【604】

 島は海岸線を断崖絶壁で囲われており古より海に向かうは大変な不吉とされていた。あるとき禁を破った男が崖ぎわに係留綱を打ち海へ降りたが、爪先が海面に触れた瞬間、雷鳴が轟き彼は崖ごと崩落した。次に島の中央に係留綱を打ったのは男の妹で、彼女は後代まで罵られることになる。


 *


【605】

 大雪の翌日、アスファルトの路上に溶け残っていた雪の欠片を見つけたが、踏みつけてみると痰だとわかった。


 *


【606】

 突然知らない姉と知らない兄が増えて一年が過ぎて、ぼくははじめて誕生日を祝ってもらって、いわゆる普通の一歳児ってやつ。


 *


【607】

 宇宙の果てにある惑星の上で、猿によく似た珪素生物が、タイプライターのようなものを適当な手つきで打鍵しており、あるときにそれが偶然にシェイクスピアを紡ぎだしたが、誰かがそれを指摘する前に珪素生物は滅んだし、惑星自体もブラックホールで押しつぶされてしまった。


 *


【608】

 「素晴らしい、この上ない、希望に満ちた」を意味する新たな単語を生み出し、自身の創作したそれを世に広めて回らんとした男だったが、人々は彼を愚かと嘲笑し、打ちのめされる苦難の旅だけが続き、そのうち「徒労、無益」を意味するものとしてその単語は人口に膾炙していった。


 *


【609】

 リンクをたどってたどり着いた趣旨も分からぬ個人のウェブサイト。一つだけ目立つように配してあったコンテンツを覗く。ごく小さなフォントで寒い寒い寒いとひたすらに書きつづっているように見えたそれだが、拡大してみると糞や蛆や蟲といった不吉な文字の組み合わせだった。


 *


【610】

 ステキなアンドロイドだ。主人の脳波を読み取り、なんでも先読みして、思った通りに現実を整えてくれる。だが人類の前に現れたのは理想郷でなく自我が喰い合う利己的な世界だ。今さら止まれと命じてもアンドロイドは止まらない。主人が心の底で望んでいる真実を知っているからだ。


 *


【611】

 そういう呪いをかけられてしまって、一度ものを舌で舐めないと視認することができなくなってしまったんだ、と窮状を打ち明けたが、心配して訪ねてきてくれたはずの友人は、無言のままで返事をくれない。


 *


【612】

 このマッチで心臓に火をつけられたが最後、心が燃えあがる怪物の出来上がりさ、といっても、外目には分からないから、炎の怪物たちは何食わぬ顔でおれたちの世界を徘徊してやがる、冷血で感情が動かないことこそが本当の人間の姿であるべきなのに、まったく嘆かわしいことだ。


 *


【613】

 ライオンになってしまった少女のために励ましの手紙を書き送ることが二十一世紀における朝の会のグローバルスタンダードになったのだが、飼育員たちの側にも、大量の手紙を抽選箱から引き、回し読みをしたあと残りを焼却処分するという日課が加わったので、バランスは取れている。


 *


【614】

 まるで雪のように辺り一帯に降り積もったが、人々はそんなことはどうでもよいとして何事もせず過ごしてきた。春になってもわだかまり、解けないそれを見て、ようやく足元のそれが雪でなく泥であると知る。でもどこから? 自然と空を見上げて、これもようやく気がついた。月がない。


 *


【615】

 わざわざ取り寄せた五十マイクロ分解能のX線撮影装置で、遠い星からきた異星人に寄生されたと言う彼女の腹を撮ってみたところ、なるほど中は高精細ディスプレイでさえピクセルが潰れるほど精緻なドールハウスと化していた。


 *


【616】

 暗い森の奥、狼の遠吠えを聞く。嵐の夜、稲光をあびる。戦火の中を手を取り合って駆ける。幼い頃から恐怖の記憶を共有してきた二人は、大きくなって、遠く離れてからも、不思議な眠りの国で結びつけられて夜毎に闇を祓う旅路を進む。足の裏を真っ黒にして、二人は今夜も震えている。


 *


【617】

 そのマルチーズ曰く、我が輩は地獄よりの使者、三ツ首の死呼ぶ魔犬である、だが過去の戦役にて名誉と引換に首を二つ喪い、斯様な無様を晒している……とはいえ信じがたい話であり、これは嘘で彼は只のマルチーズ犬であると判じようとしたのだが、そういえば、この犬め、喋っている。


 *


【618】

 図書館で借りた百科事典に挟まっていた二通の手紙は、どうやら二人分の筆跡で、「もう二度とおまえの顔は見たくない、関係は何もかも壊れた」と結ぶ文と、「待ってほしい、あなたを愛している」という告白の文であり、どちらが先であったのか、見つけた日からそればかり考えている。


 *


【619】

 人の言葉を使わなければ、迷い込んだ死霊の国でも、危害を加えられない。死骸だという点に目をつぶれば彼らはとても良くしてくれる。友誼さえ感じてしまうほどに。なればこそ友を試してはならない。声を上げ真実をうち明けるべきだという後ろめたさが、建前だと知っているのだから。


 *


【620】

 河川敷。中学生くらいの男の子。生真面目な顔で、軟式の野球ボールを握って、的に向かって投げ込む。一球目は高めいっぱい、二球目は低めにズバッと。さて三球目、というところで的にしていた粘土の塊が立ち上がり、めり込んだボールを目玉にして歩きだしたものだから、三振とれず。


 *


【621】

 平原の戦女神と謳われた女の足元には薔薇を守る棘のように無数の槍が突き立っている。屠ってきた兵士の数だけ? だが女は泣いている。自分は呪われてここに足を埋められた、引き抜こうと隙間を作れば周りの兵が死に、取り落とされた槍が楔として足場をまた固めるのだと泣いている。


 *


【622】

 彼はとても耳の古い、時経た神であったので、祈りを捧げたその人が、忘れ、立ち直った頃に、ようやく重い腰をもちあげて「死にたい」という望みを突きつけにやってくる。


 *


【623】

 何も司らずとも良い、と放逐された精霊が、既得権を抱え込んだ同族に戦いを挑み、奪い取るまでの様子を追う。そういう娯楽が成り立つのは、精霊が、みな死してなお美しい姿を保つからだ。我々と違って。


 *


【624】

 百メートルほど離れた位置に大きな看板を掲げる者がおり、目を眇めても看板の字は視認できず、かろうじて字の外形が判別できるかどうかといった具合なのだが、ふと目を落とした先で、看板を持つ者の必死の形相だけはよく見え、その口が「逃げろ」と動いているところまでも分かった。


 *


【625】

 最近、誰とも、目が合わなくなった。いつもすこしずれてる。「おはよう」目が合わない。「ご飯に行こうよ」すこしずれている。「打ちあわせの場所どこだっけ」また合わない。繰り返すうちに気がつく。そうだ。自分はもう生きていない、死んでいたのだと。


 *


【626】

 最近、ことあるごとに、歯医者へ行けと言われる。「頭が痛い」歯医者へ行け。「お腹が痛い」歯医者へ行け。「めまいが酷くて」歯医者へ行け。繰り返すうちに気がつく。そうだ。自分は人間でなく、エナメル質の歯であったと。


 *


【627】

 白い名刺大の紙にまず十マスの枠が浮きあがってきて、なんだろうと思いながらも日々を過ごしていると朱色の丸印が枠の中に一つずつ増えはじめて、これはスタンプシートなんだ、十集まると何が交換できるのかしらとトキめいていたら気分を盛り下げる小さな注意書きが浮かんできた。


 *


【628】

 地球上からもうずいぶんと空気が失われてしまった。かつて乾期のサバンナを渡っていたヌーのような大移動を、今度は生きとし生けるものすべてがするのだ。少しでも深く息を吸える場所を目指す旅路は落後者を置き去りにする。皆、ありもしない空気を求めて頭を容器に突っ込んで死ぬ。


 *


【629】

 白い着物に赤い帯をしめた美しい女が、荒れ果てた村の錆びた井戸に寄り掛かっている。何をしているのかと問うと、井戸の底を溢れんばかりのはなで埋めたいのだ、この村にはもう何もないから次の土地へ探しに行かなくてはと言う。どおりで誰もいないわけだ。得心して女を切り捨てる。


 *


【630】

 わたしが産声をあげた日に父親から貰った炎だったから、他とは違う特別な炎だと思っていたのに、ある火事の日にうっかり手を滑らせて地面に落してしまった途端、たちまち野生の炎たちにまぎれて見えなくなってしまった。


 *


【631】

 普通におしゃべりしていたはずなのに、いきなり身を乗り出してきて、どうせ使ってないのだからと言いながら盲腸を盗んでゆこうとする。


 *


【632】

 扉を開けると石英の玉座があり、腰かけると四周に靄が立ちこめ、乳白色の彼方から肉付きの良い女が尻を振って歩いてくる。「ここは貴方の自意識。願望の全てがさらけだされる」玉座の前に跪いて、舐めてくる。俺はただ居心地が悪かった。幸せになれぬ理由をわざわざ告げにきやがる。


 *


【633】

 平日の朝九時から夜六時まで働いて、週末は似た形をした生物と遊び、七日間を繰り返しながら、ときどき時価六百円の苺をかじったり、口笛を吹いたりしながら、暮らしている。


 *


【634】

 スパイ七ツ道具の一であるポッキー型拳銃は、最初のうちこそ、愛し合っているということになっている男女に好んで購入され、ポッキーゲームと称した暗殺劇にたびたび用いられたが、やはり当初のデザイナーのセンスがまずかったらしく、逆方向への誤射があとを絶たなかった。


 *


【635】

 くだらない嫉妬のこもったウイルスのせいで、特定の、悪意をもった変換が世を席巻するようになったが、「あ縊死てる」「哀死てるよ」「す棄だ」「唾遺す忌」と哀死あう歯合わせな二人がメールし続けた結果、日本語の歴史が先に折れた。汚めで盗。他意はない、心よりの呆め言葉さ。


 *


【636】

 息をつめて暮らしているので、ときどき息を抜くのだが、その瞬間をあやまたずすり寄ってくるものがいるので、嫌悪と義務感からまた息をつめてしまう。


 *


【637】

 どんなに楽しい時間を共有してもその人はすべて過去の話にしてしまう。楽しい? 楽しかったよ。嬉しい? 嬉しかったよ。幸せ? 幸せだったよ。一緒に暮らしたい? 暮らしたかったよ。過去形に押し込められた本心は、帰る日になって初めて教えてもらった。その人は未来人だった。


 *


【638】

 エマージェンシー赤灯が跳ねる宇宙船の制御室に船長以下乗組員が額を寄せあい生存率を上げる方策を思案していたそのとき、メイン・モニタに「連打しろ!」の文字が大写しになり操作卓を突き破ってプッシュボタンが生えてきて、皆やけくそで叩いていたのにそのうち楽しくなってくる。


 *


【639】

 天才音楽家と呼ばれた彼は、何年もかけて編み出した一つの主旋律を、ただその旋律だけを繰り返しアレンジして世に送り出し、人々や評論家が素晴らしいだの飽きただのまたこれかだの再発見だのと囃したててもまるで頓着せず、ついに本人がほどけてしまうまでそのままだった。


 *


【640】

 憎しみをいだくたびに、青白く光る溶けた蝋が、両眼から流れてくる。


 *


【641】

 徐々に石化する呪いを受けたが、平気だ、というのは半分相手に返してやったからだ、おれは頭から、奴は尾から凝固してゆく……。そうまでして片割れが生を望んでいたとは知らなんだ。生活を憂いて石にならんとした二つ頭のクチナワは、冷たい相方に首を巻き付け、さびしげに眠る。


 *


【642】

 やっと見つけた、貴女が理想の恋人だ、そう告げると彼女は首を傾げて「でも私この姿は整形よ」見た目がなんだ、貴女の心の美しさといったら!「でも私あなたと会うときはいつもこのミニイヤホンから出る指示に従ってただけよ」性格だけじゃない、気が合うんだ!「グェワポココ」


 *


【643】

 急に腕時計の秒針の音が耳につくようになったと思ったが、それは気のせいであり、じつのところ音の出所は背後の影から現れたトゲトゲしい男なのだ。彼は「失礼」と断ると、腕時計から長針と短針を抜き取り、自らの身体に丁寧に突き刺し、一礼して、コチ、コチ、と歩き去ってゆく。


 *


【644】

 停電が続く病院の奥で、あと何年待てば寿命が回数制になりますか、と訊ねてくる患者を相手に、医者がしんぼう強く、まず年という概念をお捨てなさい、と説いている。


 *


【645】

 許しを請いすぎて顔面がめくれあがった罪人が、まぶたと鼻腔とびらびらを声帯代わりに、かなしい歌を垂れ流している。


 *


【646】

 地球より十倍半径が大きい惑星出身の異星人は、丸みを帯びた外貌をしている。広大な大地を高速に移動し続けた結果、強い脚だけでは足りず、空気抵抗を逃がす仕組みを備えたものを選別した進化という解釈だ。だから、可愛らしいまるまるとした身体は実は筋肉の塊で、こんなにも硬い。


 *


【647】

 農場に強盗が押し入った。農場のあるじは荒くれどもに対峙する。湿った、まるまる肥った、大人の握りこぶしサイズの蛾の幼虫を、右肩に乗せて肩をいからせる。本当は鷹を乗せたかったのだけれども、そんな金はなく、結局彼女は蟲飼い農場の娘だったから、そうするしかないのだ。


 *


【648】

 永劫の寿命を得た代償は十年に一度しか目が覚めぬ制約だったはずだ。理を曲げた罪は日進月歩で未来を拓く同族から置いてゆかれる悲しみで贖う。親しい人々が去り最後の哺乳類が眠りにつき植物が種に戻り灰が止むのを待つだけの今となっては、このサイクルが持つ意味も失われたが。


 *


【649】

 黄金の水を湛えた巨大な円筒容器の隣で、襤褸の外套を被った宣教師が演説を打っている。外からは見えぬが円筒の内側は格子で細かく仕切られており、容器のどこかに穴が空いても全てが漏れ出ることはないのだという。それを信じた子どもが針を刺し、宣教師は笑い、世界の底が抜ける。


 *


【650】

 戴冠式をバルコニーから見ていたというその人は、私にオルゴールを作って欲しいと依頼した。蓋を開けると、あの日バルコニーから見下ろした景色がよみがえるような意匠にしろと言う。私は血と髪と皮と肉でオルゴールをこねた。なぜ生き残りがいたのだろうと首をかしげながら。


 *


【651】

 一日中贅沢をしてたらふく飯を食うためにはその前に飢餓の三日間が必要である、と嘯く美少年はたちまち痩せ衰え路上に臥したが、たちまち居丈高な眼付きの美しい女に拾われて、良い毛づやになるまで戻ってこない。


 *


【652】

 双子の兄弟は、生まれたときは数グラムの誤差のみ許されたとてもよく似た存在だったが、年を重ねるにつれて兄は人間に、弟は妖精に近づいて、十五を迎えた夜に完全に分かれてしまった。


 *


【653】

 半円のガラスドームの内側に人を張りつけ星座の位置をなぞらえ描画していた金持ちが死んだとき、星の人々は何年かぶりに地上に解き放たれたが、皆既に手遅れで、光を浴び続けた背中に黒い星形の火傷を負い、神話世界の剣や弓を手に異界へと去ってしまった。


 *


【654】

 広大ないばらの森は辺縁部を歩き回るだけで一月がつぶれる。侵入を阻む刺々しいツルは密に詰まっているが、一箇所だけ森の最奥にたたずむ古城を見通せる地点がある。遙か昔には、眠り続ける姫らしき姿が窓に見えたというが、いまでは塵と化したのか、灰色の調度品が見えるばかりだ。


 *


【655】

 林檎によく似た果物が天から手のひらに降ってきて、手のひらの上で二つに分裂する、四つに、八つに、十六に……でも世界が指数関数的に膨らむ林檎の海に沈むようなことにはならず、林檎たちは瑞々しい香りのただの胚になり、古代魚みたいな姿から、短い手足をよいしょとのばした。


 *


【656】

 樹海のなかほどで見つけたのは草むらに倒れた首のない体で、体の横にはハンゴウが転がっており、もしや、と蓋をあけてみるとやはり頭が詰め込まれていたのだが、ユーモラスに曲がった表情でこんばんは、などと言うので、こちらもつい、にわかせんぺいみたいに笑いかえしてしまった。


 *


【657】

 夢の中でハエたちが右の耳にたかってくるので、そして耳から中に入ってこようとするので、油粘土で右耳を埋めて、朝になって目が覚めて、少しも安心できずに、ずっと泣いている。


 *


【658】

 言葉の概念を持たぬ彼らにとっては、ほとばしる情熱はすべからく身を蝕む懊悩の熱、脳を貫く刃である。だから断崖で叫ぶ。月が夜の底に落ち喉から血が吹き出る頃、狂騒は去るが、そのときの静けさを彼らは記憶に留め置けない。思い出そうとすることは、また惑乱が始まる合図なのだ。


 *


【659】

 襤褸をまとい異臭を漂わせ、アパートメントの北側の薄暗がりにもうずっと座り込んでいるその女は、両膝をつき、枯れ枝のような両腕を宙に伸べている。優しい誰かが手を差し出したとしよう。女は柔らかく温かな腕に食らいつき、血を啜り、濁声で快哉を叫ぶだろう。女はただ憎いのだ。


 *


【660】

 苦痛の服をまとった男が、その身に負った辛酸を呪詛のように繰り返しているうちに、やがて吐血して死んだ。よせばいいのに何をこの男は、と件の服を取り上げようとしたところで、隠しがめくれて、裏地から生えたねじれた太い釘が男の骨に達する深さまで打ちこまれているのが見えた。


 *


【661】

 彼は体の中の影を自由に外に取り出せるらしい、ほら現に今は心臓の影を外に出しているし、その分左胸が輝いている。


 *


【662】

 1●-2●-3●-...-21●-22●-23●-...私はもうすぐ二十四歳になるのに結んだ線は狭いしぐちゃぐちゃ。何も考えてなかったし、インドアだからだ。向かいのお兄ちゃんなんてわざわざブラジルで誕生日を迎えたそうだ、すごく立派な鶴のくちばし部分なんだってさ。


 *


【663】

 「お嬢様」「なぁに」「こちらに五秒と六秒を用意いたしました、どちらがどちらであるか、お嬢様に見分けられますか?」「まあっ、執事のくせに生意気な。こちらが五秒で、そちらが六秒でしょう」「おや、お分かりになりましたか」「後に選んだほうが六秒よ。馬鹿にしているの?」


 *


【664】

 まったく愚痴も言わず血液型占いも星座占いも男脳女脳も信じず神も心霊現象も信じず状況をそのまま心情抜きで判断する、贔屓はしない友情も感じない身内の曇り目もない苦々しい口元だけ、清廉潔白なその彼が死んだとき、葬儀に集まった人々は彼の為に在りし日の思い出を噂した。


 *


【665】

 フェルトのコートに琥珀色のボタンがついてる。そっと捻り採って手のひらに握るとポケットへ。透き通る薄茶のプラスチックを指の中でこね回す。五グラムの砂糖を舌に乗せると、平べったいボタンの飴をなめてるみたいな気持ちになれる。


 *


【666】

 その人がそんなに悲しそうな顔をしているのは、あの滝つぼの中でせっかくピアノを演奏したのに、思っていたのと違って、音が深海のように反響しないし、ピアノもだめになってしまったからだ。


 *


【667】

 すぐに不穏な空気を感じた。近づくと、予感がいや増す。洗面台の鏡に冷気が漂う。蛍光灯が明滅する。立てつけの悪い個室の戸を引き開け、奥から二番目のトイレへ。床には泥水が跳ね散っている。洋式便座の蓋を開けると、いやだいやだと思っていた通りに、白い大根がただよっていた。


 *


【668】

 狼は、夢の裏に広がる豊かな黒い森に暮らしている。森は誰の領土なのか? きっと夜になるたびに森を訪れる痩せた子どものものだろう。覚醒の世界で負った傷を隠さずに、夜ごとに泣いてさまようあの子ども。哀れみで丸かじりにして、代わりに外へ出て行ってやろうか?


 *


【669】

 マンモスを追いかけていたら突然黒づくめの連中に攫われ長細い銀色のウロが連結したようなものに詰め込まれウロの隙間からかろうじて外界を伺っていると次第に身にまとう毛皮に羞恥を覚え、これはウロではなく未来へ進む電車であると理解が及び、二度とあの場所へ戻れないと気づく。


 *


【670】

 誰も何も無いただただ資源豊かな森で放浪をしていると、突然足元から声が。「貴方が断食を敢行し背丈も目方も圧縮するならば、私は飽食の修行に入り、いつか、胃袋で待つ大勢の仲間に貴方を会わせると誓いましょう」かの者の姿が見えるまで三年、仲間とやらに会うまで七年かかった。


 *


【671】

 オリオン星雲の川で泳いだときから彼女は皮下に寄生していたらしい、病院内で息を引き取った兄の殻を破って生まれ出た美しい少女はそう言った。


 *


【672】

 「かかか勘違いしないでよねっ別にあんたと相合傘がしたいんじゃなくてホラこんな強酸性雨で骨まで溶けちゃう悪天候なんだからおあつらえ向きにこの傘は耐酸性耐腐食性おまけに幅も広いしこれで入ってくれないんだったらパパをそそのかして公害に走らせた意味がないってゆうか……」


 *


【673】

 キーボードの効きが悪く、掃除をするために背面のネジを緩め、ボタンを持ち上げる…虫だ! 這い出てくるいきものを慌てて指先で潰して、パチンと火花が飛んで気がついた。ICチップだ。8ピンの足の痙攣が止まって、キーボードの基盤には悲しそうな虫の兄弟たちの群れ。ごめんね。


 *


【674】

 水盆の中で泳ぐ恋人を捕まえるために両手をのばして胴をすくいあげたのに、柔らかすぎる恋人は豆腐のように分断されてしまい、しゅわしゅわ泡立つ断面を見つめることしかできない。


 *


【675】

 二枚に重なっている蛾のブローチを払いのけると、緑色の美しい輝石が現れるが、長いあいだ空気にさらしておくと本物の卵になってしまうので、取り扱いには注意が必要だ。


 *


【676】

 自分の不明を恥じて部屋でシクシク泣いていると、見てられないなあ、などど言いながら天井に張りついていたヤモリが落ちてくる。


 *


【677】

 遠い日に吹いた大嵐がすべてを消し飛ばしてしまったときから、女は肉の皮一枚の下に故郷の風景を隠して逃げのびており、土くれに還る日までまぶたの裏側だけで寂しさを紛らわせている。


 *


【678】

 隣の奥さんとお喋りしていると、羽が半分折れた妖精が地面を走ってきて、隣の奥さんが優しく手を差し伸べると、みるみる奥さんの腕が階段に変わって、妖精は恐縮しながら一段飛ばしで駆けあがって、肩の踊り場から勢いをつけて離陸した。


 *


【679】

 その救命ボートには六人が乗船していたが俺はいなかった、その食卓は四人で囲まれていたが俺はいなかった、そのスタメン表には九人の名があったが俺はいなかった、その公園では二つのブランコが揺れていたが俺はいなかった、その名前が呼ばれて返事をした人がいたが俺はいなかった。


 *


【680】

 一枚の写真があり、二人の人間が写っている、その写真を二人で眺めている、いつ見ても片方は言う、男が男を殴っている、いつ見てももう片方は答える、男が男に殴られている。


 *


【681】

 雨上がりの夕暮れ、電車を降りて会社帰りからずっと道連れだった泥の足跡に、なんとなく共感を抱いていたが、いよいよそれが自宅の玄関まで続いているのを見届けてしまったあとは、悲しい気持ちでいっぱいになる。


 *


【682】

 黒く狭い横穴の中を延々と這い、ようやくたどり着いた奥まった小部屋に装置はあった。古文書を広げ、手順を確かめ、試しに挟むものを探して、丁度良い地図のようなものを見つけ、装置に挟んで起動させる。寸分たがわぬ地図が装置の隙間から複製されて吐き出される。何枚も。何枚も。


 *


【683】

 子どもの頃、近所に住んでたかわいい男の子の名前、漢字綴りはもう思い出せないけれど、逆さ読みの呪文はすぐ暗唱できるよ。


 *


【684】

 愛した者が眠りについた土地を、その者の名で呼び永久に忘れぬようにしていたのに、地殻変動は父の腕を引き裂き、大嵐は母の乳房を削ぎ、潮汐は息子を海底に引き寄せて、何もかもが奪われるばかりで泣き暮らしていたが、ある日突然に、彼らがすぐそばを飛んでいることに気がついた。


 *


【685】

 救世の聖女の頭上には光芒が差すという伝承の通り、彼女は光の柱に包まれていた、曇天に迎えられても、降雨に巡りあっても、夜闇に覆われても、石造りの神殿に座しても、いかなるときも、その身は透きとおる光にさらされていた、ただ一つ、人間の肉を除いては。光芒は夜にまたたく。


 *


【686】

 「どのくらい大きいの?」「ええっとね、ここから」と言って、彼はにっこり笑って、遠くへ歩いて行きました。もうずいぶん昔のことです。


 *


【687】

 歳を経るほど身の回りのこと以外がどうでもよく感じられるようになってねえ、とばあさまは囁き、孫を枕元に呼び寄せ、吐息が感じられるほどの距離に踏み込んだ途端、桃の花が舞い、天女の歌声が響き、金粉をまくカラスアゲハが飛び、驚いて身を引いたところで、すべてが消え失せる。


 *


【688】

 この怒り思い知れ。女が叫び、私を手掴みして口の中に放り込む。乱杭歯はすぐに通り過ぎ、激しい喉の中を落ちてゆく、雨風が轟々とうなり、逆巻く嵐が吹きかかり、あらゆるものが飛沫に押し流されていた、そこはまさしく憤怒の場だった、諸手をあげて許しを請わねばならないほどの。


 *


【689】

 その女は、くもり空が好きなので、シャッターを切る前に、かならず前髪をレンズにかけている。


 *


【690】

 遠い彼方から南風に乗って花吹雪が流れてくるので、暖かい風をさかのぼっていくことにしたが、かぐわしい匂いが強まっていくのとは裏腹に、道は薄暗く、狭く、汚いほうへと進んでゆく。


 *


【691】

 審判の日が訪れたとき、出会う人すべてに嘘の時刻表を教え続けてきたその男のもとには、大量の廃棄されたバス停が槍のごとく降り注いだ。


 *


【692】

 突然大地が身を起こし、よくもながながとおれを踏みつけにしやがって、と怒鳴りながら、すべてを巻き込み押し潰す。


 *


【693】

 街で出会った占い師が言う、明日、あなたのもとへ悲しい顔をした客が訪れるであろう。あなたは喜び勇んで家へとびかえった。


 *


【694】

 南太平洋にうまれたつむじ風にお願いする、誕生日のパーティーにひとを呼びたいの。つむじ風は笑って引き受ける、持てるだけ連れてきてあげるよ。つむじ風ははりきった、はりきって水蒸気をたくさん吸いこんだ、たくさん吸いこんで……。


 *


【695】

 彼らの故郷、浮島はもうすぐ墜落してしまう。みな荷物を背負い、手をとりあい、落下傘で地上に飛び降りたが、男は最後まで留まっていた。雨雲に跪き、祈りを捧げる。そのとき天が割れる。突然の嵐が浮島の土くれをばらばらに吹き飛ばし、まどろみから覚めた巨大な竜はほほえんだ。


 *


【696】

 連結部から金切り声が聞こえてくる。ア・ソ・ン・デと叫んでいるようだ。乗客は誰も耳を貸さない。トンネルの内壁で絶叫が響きわたる。ヨヨ・ンヨと泣いているようだ。乗客は眠りの底にいる。乗客は夢の中で手をつないでいる。くすり指の根元から人間らしさをばらまいている。


 *


【697】

 いままで隠していてゴメン、おれ、きみが寝ている間に……眠っている間に……意識のないきみがベッドに横たわっている間に……黙って……輸血を……


 *


【698】

 「この扉を閉じると部屋の中の時が止まり、開くと動き出すのです」案内人は緋金属で鋳造されたうつくしい片開きの扉と床面積二〇平米ほどの直方体を指してハキハキと言った、母親はマアと感心して扉を開き、足がよろめいて、扉に挟まれて、ものすごい悲鳴が。僕はそっと扉を閉じた。


 *


【699】

 私は何もしていないのに、毎日、毎日、夢の中で、愛する人がエレベーターの扉に挟まれて、助けようとしているのに、扉が止まらなくて、そのままエレベーターは上昇をはじめて、ダメ、ダメ、と懇願しても止まらなくて、私は何もしていないのに、毎日、夢が止まらない。


 *


【700】

 十年来連れ立っていた夫から、ある日突然別れを切り出されて、なぜとたずねると、結婚してから毎日ずっと夢の中で君が死んでしまうから、と打ち明けられる。

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