ポイントオブノーリターン
色褪せた街を一望できる塔の上。
この季節の大半がそうであるように、今日も街は乾いた空気に包まれている。雲のない空からは太陽の光が容赦なく降り注いでいるが、俺のいる場所はちょうど陰になっていた。
狙撃銃のスコープ越しに少年の顔を捉える。間違いなく、ターゲットの少年だ。右肩にバッグを提げ、周囲に目を配りながら、露店が立ち並び人々で賑わっている通りを歩いている。うまく周囲に溶け込んではいるが、一度見つけてしまえばむしろ浮いているように見える。
少年は、反政府軍の命令でいくつもの爆弾テロを起こしてきた実行犯だということだ。バッグの中身はおそらく爆弾だろう。彼を排除するのが、与えられた今回の任務だ。
何か恨みがあるというわけではないし、正直なところ彼が爆弾犯であるということについても、聞かされただけで俺自身が確証を持っているわけではない。けれども、それらの事実は大して意味のあるものではない。俺は軍の兵士で、任務においては命令が全てであり、殺せといわれれば殺すだけだからだ。
雑念を頭から消し去り、ターゲットに集中する。
距離は二二三メートル。
照準を合わせながら、最適なタイミングが訪れるのを待った。
自爆されるのを防ぐためにも、一発で即死させるのが理想だ。同時に、貫通弾などによる副次的被害を起こさないように考慮する必要もある。
ターゲットは日陰に入ると足を止めた。
引き金に添えた指を僅かに動かす。
減音機で抑制された銃声と共に、ターゲットが後頭部を撃ち抜かれてうつ伏せに倒れた。
素早くボルトを引いて次弾を薬室に送り込み、いつでも二発目を撃てるようにしてから、ターゲットの様子を観察する。
ターゲットはピクリとも動かない。そして、その横に落ちているバッグが爆発することもなかった。
それらのことを確認してから、俺は射撃姿勢を解いた。
***
屋外の射撃場で、銃声が散発的に響く。
俺が所属する小隊が射撃訓練を行っている音だ。
「全員集まれ」
その最中に、訓練を指揮していた曹長が隊員たちを集合させた。観測手の役を務めていた俺は、作業を中断して曹長の方に目をやる。すると、別用で隊を離れていた小隊長の大尉が戻っていた。そして、彼の後ろには初めて見る若い女の兵士がいた。迷彩服を着て、右肩に狙撃銃を提げている。
小隊に所属する隊員は隊長を含めて十五名。その全員が集まるのを待ってから、大尉は口を開いた。
「この前言ってた新入りだ。ほら」
大尉に促され、女が前に出る。
「リリィ・マードック伍長です。今日よりこの小隊の配属になりました」
「というわけだ。よくしてやってくれ。ちゃんとした歓迎会は後でやるとして、今訊いておきたいことはあるか」
大尉は隊員たちをぐるりと見まわしたが、手を上げる者も表立って何かを言う者もいない。
「よし。無いならハンク軍曹以外は訓練に戻ってくれ」
その指示に従い、俺以外の隊員は訓練を再開するためにばらけていく。
人垣が崩れる中、さっきまでの訓練で組んでいた兵士に「悪いな。向こうの相手をしないと」と言う。するとそいつは、「いえ、大丈夫ですよ」と返してきた。
待っている二人のもとへ行くと、大尉がマードックに俺を紹介する。
「今日からお前の面倒を見てくれるハンク軍曹だ」
「よろしくお願いします」
マードックが姿勢を正す。
「ああ、よろしく」
俺に与えられた仕事は、要するにこの新入りの教育係だ。この部隊に配属されたからには素人でないことは確かだが、それでもこの中ではまだ未熟だろう。これからしばらくは教えたりフォローするために訓練や任務でマードックと行動を共にすることになる。それがどの程度必要なのかは、本人の実力を実際に見てみないことには分からないが。
「それじゃあ軍曹、後は任せていいか」
「ええ」
頷くと、大尉は俺たち二人を残して曹長の方へ歩いていった。その背中を見送ってから、改めてマードックを見る。身長差が頭ひとつ分ほどあるので、自然と見下ろす形になる。
「狙撃課程を終えてまだ一年らしいな」
「はい」
「実戦経験は?」
「選抜射手として任務に就いたことはありますが、戦闘経験はありません」
この小隊に所属している隊員は昨日までは全員が男で、女が配属されたのは俺が知る限りのここ十二年では初めてだ。もう何日も前から女が来るということは分かっていたし、実際に今目の前にいる。それでも、まだ実感に乏しいことだった。
しかし、男だろうと女だろうとやることは変わらない。戦場や任務は性別で変わったりはしないのだから。
「始める前に何か質問は?」
「いえ、ありません」
「銃は持ってるな」
「はい」
マードックはその存在をアピールするように、肩に掛かっている銃の負い紐を少しばかり持ち上げる。
「よし、まずは撃ってみろ」
そう言って、俺はマードックを射撃位置につかせた。
***
マードックはいい兵士だった。射撃の腕もなかなかにいい。まだ成長の余地を十分に残しているが、向上心に溢れていて、俺の指導に忠実だ。模範として推薦してもいいくらいだ。
真面目で口数が少なく、感情をあまり表に出さない。終始ストイックな姿勢で、俺からすれば相手をしやすいタイプだ。暇さえあれば口を開いているようなやかましい奴よりもいい。
お互い、淡々と訓練をこなしていく。
そして二週間後、俺とマードックに出動命令が下りた。
与えられた任務は監視だ。味方部隊が展開する地域を離れた場所から監視し、必要とあらば狙撃で彼らを援護する。
その手始めとして、同じく監視任務を命じられた他の狙撃手たちと高台にある五階建て建物を占拠した。監視場所として利用するためだ。敵が隠れていたり罠の類が仕掛けられていないか建物内を捜索し、安全確認が完了してから、俺とマードックは最上階の一室に陣取った。
ここから見える街は、所々に戦闘による破壊の痕が残っていて、死んだように静まり返っている。というのも、市民はとっくに街から退避しているからだ。どこかに反政府軍の兵士が潜んでいるだろうが、今のところはまだ見当たらない。しかし、きっとこの作戦でマードックは初めての実戦を経験することになるだろう。
マードックが部屋の窓から狙撃銃を構えた。俺はその横から双眼鏡を使って街を見回す。
監視についてから一時間ほどが経過したところで、味方の車列が見えた。するとそれに釣られたかのように、二人組みの男が建物の屋上に姿を現した。ライフルを背中に背負った、反政府軍の兵士だ。車列からは距離を置き、おそらく偵察しているのだろう。周囲を警戒してはいるが、こちらに気づいている様子はない。
肩を叩き、マードックに敵の存在を言葉と指で知らせる。
「敵だ。やれ」
少し間を空けてから、マードックが片方の男を撃った。すると狙われていると知ったもう片方が、射線から逃れようと慌てだす。しかし、安全な場所に到達する前に他の狙撃手に撃たれて倒れた。
「ナイスショットだ」
これがマードックにとって初めての戦果ということになる。俺は次の標的を探しながら、賛辞の言葉を送った。
「ありがとうございます」
しかしマードックはいつもの様に淡々と返事をするだけだった。
交代で休憩をとりながら監視を続けて八時間が経過した。
日は傾き、双眼鏡越しに見える街並みは強い西日によって暗い茜色に染め上げられていく。もう少しで日没だ。そうなれば辺り は真っ暗になる。
最初の二人を含めて今までに現れた敵は全部で五人。そのうち三人をマードックが倒し、残りの二人を他の狙撃手が倒した。
「こちら司令部。アーチャー、応答せよ」
と、作戦司令部からの通信が入り、横に置いてある無線機のスピーカーが鳴った。俺は体勢を維持したまま無線機を操作して応答する。
「こちらアーチャー。どうぞ」
「そこから二時の方角の七百三十メートル先にある三階建ての建物が見えるか」
俺は視線を横にスライドさせ、味方部隊が展開している地点からは離れた場所にある対象と思しき建物を視界に捉える。
「東側が崩壊している建物ですか」
「それだ。その建物の最上階の西端の部屋に敵が二名いる。撃てるか」
ガラスを失った窓枠がある。そこから、机を挟んで向かい合って座っている男二人が見えた。
「はい、今なら撃てます」
「そいつらを排除してくれ。なるべく静かにだ」
「了解しました」
俺は双眼鏡から目を離し、マードックをちらりと見やった。
「聞いたな」
「ええ」
マードックは銃口をターゲットの方角に向け、俺は傍の壁に立て掛けておいた自分の銃を手に取る。一人で二人のターゲットを静かに倒そうとするなら、まず一人目を撃ってから残ったもう一人が騒ぎ出すまでの間に、素早く狙いをつけて二発目を撃たなければならない。できないことではないが、それよりも二人で同時に撃った方が確実だ。
「標的を確認しました」
俺も銃を構えてターゲットに照準を合わせる。
「よし、お前は右の奴を撃て。タイミングは任せる」
「了か――」
そこでマードックの言葉が途切れだ。
「どうした」
「あれは民間人ではないですか」
その声には戸惑いの色が滲んでいた。
確かに、ターゲットの二人は銃を持っていなければ装備品を身に着けているわけではない。ここから見える範囲では、部屋の中にも武器の類はなさそうである。もちろんどこかに隠している可能性はあるが、現状では二人が反政府軍の兵士や味方への脅威であると断定する材料はない。しかし同時に、民間人であると断定する材料もない。
「さあな。だが俺たちは撃てと命令されたんだ。なら撃つだけだ」
「司令部はどうして彼らを撃てと」
「俺が知るわけないだろ」
「確認してください。間違いかもしれません」
そんなのは俺達には必要ないことだ。俺たちに重要なのは何をするように命令されたかということであって、その背景に何があるかということではない。
だが、俺は左手だけを動かして、マードックに言われた通りに司令部に通信を繋いだ。俺が言い聞かせるよりも、その方が手っ取り早くマードックを納得させられると考えたからだ。
「司令部、こちらアーチャー。ターゲットは民間人に見えますが、なぜ撃てと」
するとすぐに、
「こちら司令部。そいつらは民間人ではない。味方が通るのに邪魔になっている。速やかに排除しろ」
と返ってきた。俺は「了解」と司令部に伝えてから、「だそうだ」とマードックをせっつく。
「ですが……」
しかし、それでもマードックは意に沿わないようだった。
「グダグダ言ってないで早くしろ」
マードックの態度に、次第に苛立ってくる。
引き延ばしたところでメリットは何もない。それどころか、狙撃の機会を喪失しかねない。ターゲットがいつまでもああやってくつろいでいてくれるとは限らないのだ。
「マードック」
「分かりました」
俺が急き立てると、マードックはようやく観念したようだ。
だがその時、右側のターゲットがおもむろに立ち上がった。部屋の左に歩き出し、壁の裏に姿が消えそうになる。
マードックを待っている猶予はなさそうだった。
俺は引き金を引くと、即座に照準をずらしてもう一度引き金を引いた。
一人が一発の銃弾を受けて倒れ、もう一人が二発の銃弾を受けて倒れる。どうやら俺が二発目を撃つのと同時に、マードックも撃ったようだ。マードックの様子を見ることはできないが、すぐ横で発せられた銃声からそのことが分かった。
三発の弾丸は十分なダメージを与えたらしく、ターゲット二人が起き上がる気配はない。
ふぅと息を吐き出す。ひとまず、これでターゲットの排除には成功だ。俺は部屋への警戒を続けながら、結果を報告する。
「司令部、こちらアーチャー。ターゲットを排除しました」
「こちら司令部。戦果を確認した。元の任務に戻ってくれ」
「了解」
二つの死体が横たわる部屋に、味方の兵士が入ってきた。四人編成の部隊のようだ。彼らは死体を簡単に検分すると、すぐに部屋の奥に消えていった。
結果として任務は成功した。だがマードックが始めから撃っていれば、もっとスムーズに終わらせられていた。
「次はもっと早く撃つんだな」
俺は銃を置き、双眼鏡を手に持つ。
それに対してマードックは、ただ「はい」と返事をするだけだった。
***
それから八ヶ月が経ち、俺たちは幾つもの任務に従事した。味方部隊の支援や敵勢力圏内での偵察、そしてターゲットの暗殺などだ。誰かを殺すことがあれば、発砲せずに終わることもあった。殺す場合でも、始めからターゲットとして定められていることがあれば、現場で標準作戦規定に照らし合わせて対象を決定する場合もある。
マードックがターゲットを撃つことを躊躇うような言動をしたのは、あれが最初で最後だった。単純に機会がなかっただけなのか、それともマードックの意識が変わったのかはわからないが、今はしっかりと兵士としての役割を全うしている。
そんな中、俺たちにある暗殺任務が与えられた。
***
部屋の扉がノックされ、俺は相手が情報局の男であることを確認してから扉を開けた。
「どうだった」
扉の鍵を閉めて部屋の中央に移動してから訊ねる。
「巡回している兵士が昨日よりも多いな。ルートも少し変わっているみたいだ」
男は偵察の結果を口にしながら、机に広げた地図に印をつけていく。
「そっちの様子は?」
「特に動きはない。部屋の中に男が一人いるがターゲットはまだだ」
俺はマードックに目をやる。マードックは狙撃銃を構え、スコープ越しに窓の外――正確に言うならターゲットの出現が予測されている部屋を監視している。
暗殺の決行場所であるこの街は、三年前から反政府勢力の支配下にある。当然、周りは敵だらけで、俺とマードックは民間人に紛れて数日前に街に入り、情報局の男が用意したこの部屋でターゲットが表れるのを待っていた。ターゲットの出現が予測されている建物は、ここから八百メートルほど離れた位置にあり、間に建ち並ぶ建物越しにその姿を捉えることができる。
「敵の警備が代わったのはターゲットが来るのに合わせてか」
「だろうな。俺たちの存在に感づいたってわけではなさそうだ」
情報局の男は軽く頷く。俺は地図上の印を指差して、
「この巡回ルート、近くを通ってるな」
「やっぱり近いか」
「最短距離だと、狙撃してから撤収するまでの時間的猶予があまりない」
当初の計画ではこの場所からターゲットを狙撃し、敵が位置を特定してやって来る前に離脱するというものだった。昨日までの敵の配置であれば猶予は十分にあったが、今のこの状況では少し難しいかもしれない。
「だが他に狙撃できるポイントはない」
「ああ。だから狙撃は予定通りにここでやる。それでもし脱出が間に合わなければ、その時は強行突破するしかない」
俺はアサルトライフルが収められているバッグに目をやった。万が一敵との交戦を余儀なくされた時のために、一丁だけ持ってきたのだ。
アサルトライフルは訓練では定期的に撃っているし、任務に携行したことは何度もある。だが、実戦で使ったことは今まで一度もなかった。というのも、近距離で敵と撃ち合うという状況になったことがないからだ。
何事もなく引き上げられるのならそれが理想だが、今回はこれを使わざるを得なくなるかもしれない。
「俺のことはあまりアテにするなよ」
「わかってる」
銃の扱いに関して一通りの訓練を受けていたとしても、情報局の男にとって戦闘は本職ではない。求めたところで意味のないことだ。その代り、こいつには別の仕事がある。
「なら俺は車の準備をして待ってる。終わったら呼んでくれ」
「ああ、頼んだ」
男が部屋を出ていくと、俺は扉に鍵をかけた。
「来たぞ」
ターゲットが姿を現したのは予定時刻から十分過ぎた頃だった。開け放たれた窓の前で、別の男と言葉を交わしている。
「やれ」
静かに言うと、マードックは返事をする代わりに銃声を響かせた。
銃弾がターゲットの左胸に命中する。ターゲットは回転しながら倒れこみ、窓の下に消えていった。もう一人の男はすぐにその場で姿勢を低くし、マードックの照準線から身を隠す。
ここからではターゲットの生死は確認できない。だがあれはきっと致命傷をだろう。それに、もし致命傷でなかったとしても、ターゲットが自ら射線に躍り出てくるような馬鹿でない限り、この場にこれ以上留まっていてもできることはない。あの銃撃でターゲットが死んでくれることを祈るだけだ。それに結果がどちらになろうとも、求められた仕事は十分に果たしたはずだ。もし駄目なら、ここに俺とマードックを送り込んだやつが悪い。
「撤収だ」
マードックに指示を出してから、
「終わった。回収に来てくれ」
と無線で情報局の男に呼びかけると、「了解」という返事がスピーカーから聞こえた。
荷物をバッグに放り込み、扉の横に移動する。狙撃銃を納めたケースを背負ったマードックが来るのを待ってから部屋を出た。
階段を下りて建物の出口から外の様子を見る。所々で住民が騒がしくしてはいるが、さすがに銃声一発程度では怯えたりパニックに陥ったりはしていないようだ。
と思った矢先、右から銃を抱えた男三人が向かってくるのが見えた。通行人たちが逃げるように道を開けていく。
「敵が三人、こっちに来る」
その男たちの前を横切るように迎えのピックアップトラックがやってきて、俺たちを少し通り過ぎたところで停車した。
車が停まったのは道路の向かい側だ。今のところ、男たちがトラックを怪しむ素振りはない。このまま道路を渡り切ってトラックの荷台に飛び込めるかどうか。もし男たちに呼び止められて従わなければ撃ち殺されるだろうし、従ったところで良い方向に転がるとは思えない。
そうやって考えを巡らせている間にも、敵はこちらに近づいてくる。
「どうするんです」
「バッグを貸せ」
交換しろと、マードックに俺の荷物を差し出した。中には、現状で最も頼りになる武器であるアサルトライフルが入っている。
「俺が先に行く。援護しろ。向こうに着いたら今度は俺が援護する」
「分かりました」
バッグを受け取って表に出る。
すると、道路の半分まで行ったところで男たちに銃を突きつけられた。
「おいお前、動くな」
「一体何の用だ」
「おとなしくしろ」
背後から銃で殴られ、地面に組み伏せられた。そして体を調べられ、腰に差していた拳銃を取り上げられる。
「こいつ、銃を持ってるぞ」
「護身用だ。銃なんて珍しくないだろ」
「黙れ」
乱暴に頭を地面に押し付けられ、即頭部を強打する。
「そのバッグの中身は」
リーダーらしき男が、バッグの中身を調べるように指示を出す。
「おいやめろ」
抵抗を試みるが、主導権は完全に相手側にあり、それは徒労に終わった。バッグを奪われ、中身の狙撃銃を見られる。
「狙撃銃だ。こいつに違いない」
「立たせろ。連れて行――」
リーダーの言葉は銃声に遮られた。頭を地面に密着させているので何が起きたのかは分からない。
だが一瞬だけ、俺の背中を押さえる敵の膝の力が弱まった。その隙をついて、両手で地面を押して上半身を起こし、相手にのしかかる。
右拳を男の顔めがけて叩きつけるが、その手首を掴まれ、逆にカウンターで顔を殴られた。さらに蹴られ、俺たちは密着したまま転がって横並びになる。
相手の右手に拳銃が握られていることに気づいた。銃口を外へ逃がそうと、とっさに銃身を手で押し退ける。
何発か発砲されたが、銃弾は全て俺の後方に消えていった。
力ずくで銃口をきりきりと相手に向けていく。相手は左手を俺の手首から離すと同時に前腕に顔を叩きつけてくると上のポジションを取り、両手で銃のコントロールを奪い返そうとしてきた。
俺は自由になった右手も使って銃を押さえ込む。
そこから一気に銃口を相手の顎下に押し付け、引き金を押し込んだ。
今まで聞いたことがないくらい大きな銃声が鼓膜に襲い掛かる。生温かい液体が顔に降りかかり、男の体が支えを失って落ちてきた。
遅れながら、液体の正体が男の血であるという事実に思い至り、ぞっとした。なおも溢れ続ける鮮血が体を濡らし、服に染込んでくる。こんな状態からすぐにでも脱したいと思った。
しかし、死体となった男の体が重くて身動きが取れなかった。人間とはこんなにも重かっただろうか。
生気を失った男の顔が目と鼻の先に迫り、思わず顔を背ける
「大丈夫ですか」
横たわっていると、拳銃を握ったマードックが駆け寄ってきた。
そこで俺は、自分が今任務中であることを思い出す。
マードックは男の死体をあっさりとどかすと、俺を引っ張り起こした。
「ああ」
俺は兵士としての理性を総動員し、死体と血を思考領域から切り捨てる。
「敵は」
「全員死にました」
周囲を見回すと、俺が殺した男以外に二つの死体があった。俺を呼び止めた連中だ。マードックがやったのだろう。とはいえ、敵がこの三人だけということはないはずだ。いつ敵の増援が駆けつけてきてもおかしくない。
発砲と人死にによって周囲は騒然としていて、逃げ出している市民もいる。死体の横に留まっていては目立って仕方がない。しかも俺は血だらけだ。
俺は奪われた拳銃を見つけて拾い上げると、マードックと待機していたピックアップトラックの荷台に乗り込む。
「出せ」
合図を出すとトラックが急発進し、戦いのあった場から速やかに遠ざかっていった。
***
街の外れにある隠れ家にたどり着いた俺たちは、そこで体勢を立て直した。シャワーを浴び、着替えて休息を取る。そして夜が明けるのを待ってから、俺とマードックは情報局の男と別れて基地への帰路についた。
俺が車を運転し、マードックは助手席で周囲に目を配っている。
来る時にも使った車だ。だが帰りのルートは変えてある。
途中で反政府軍の検問に止められた。詳しくは聞き出せなかったが、きっと俺たちを探しているのかもしれない。だが俺たちの顔は捜索対象に含まれていなかったようで、少し時間を取られたが問題なく通過することができた。
検問を越えてからしばらくすると、マードックが口を開いた。
「少し寄りたい所があるんですが」
「俺たちは観光に来たんじゃないぞ」
「ええ、分かってます。でもそんなに遠回りにはなりません。ラムケンです」
確かにラムケンは通り道にある小さな町で、休憩ついでに車を止めることはできる。だがそこはまだ反政府軍の勢力圏内だ。俺たちが政府側の人間だということがそう簡単にバレることはないだろうが、それでも長居するべきではない。
「一体何の用があるんだ」
訊くと、マードックは少し口ごもってから答えた。
「父の墓があるんです」
「ラムケンにか」
「はい」
「そこの出身なのか」
「軍に入るまで住んでいました」
「それで、墓参りに行きたいってことか」
「一昨日が父の命日だったんです。本当は一昨日に行きたかったんですけどそうもいきませんでしたから。駄目ならそれで構いません。プライベートな用件ですから」
「いや、いいだろう」
そう言って助手席に目を向けると、マードックがきょとんとした顔をしていた。
「どうした」
「いえ……どうせ駄目だと思ってたので。ありがとうございます」
実際、どんな用件であれ拒否するつもりだった。ターゲットの暗殺そのものはすでに完了しているが、基地に帰投するまでが任務だからだ。
けれどもこの時の俺は、マードックにやらせてやりたいと、なんとなく思ってしまったのだ。
「すぐに戻ります」
マードックは車のドアを閉めると、墓地へ向かって歩き出した。
俺は墓地の脇に止めた車の中から、離れていくマードックの後姿をぼんやりと眺める。その右手に、ここに来る前に購入した白い花を持っている。その花が何という名前なのかは分からない。
マードックが墓地の敷地に入ったあたりで、視線を墓地に向けた。いくつもの墓石が、等間隔に並んでいる。一つ一つが人の死を表しているそれを見て、まさに死者の世界だなと思った。
街の中心部から外れているせいか、墓地の周辺には俺以外には誰もいない。まだ夜になっていないというのに不気味なほどに静かだ。
布切れが風に流されて飛んでいくのが見えた。それを目で追っていくと、墓地の奥にある墓石の前で佇むマードックの姿が視界に入った。あの場所にマードックの父親が眠っているのだろう。
ふと視線を落とすと、助手席のシートの上に茶色い二つ折りの財布が落ちていた。マードックが落したのだろう。かなり年季が入っているようで、ところどころがボロボロだ。染みもついている。
ダッシュボードの上に移動させようと手に取ると、隙間から紙が滑り落ちてきた。拾って財布の中に戻そうとした時、不意にそれの表側が目に入る。
その瞬間、俺はあらゆる意識をそれに奪われた。
一組の男女と、彼らに挟まれた少女が並んで立っている写真。その中の男の顔に、俺の目は釘づけになった。
この男を、俺は知っている。
知っているだけではない。七年と二日前、俺はこの男を――。
だがどうしてマードックがこいつが写っている写真を持っているのか。そんな疑問を浮かべるが、別の思考回路がすでにおおよその答えを推測していた。
俺は目だけを動かして、他の二人の顔を確認する。女の方は見たことないが、少女の方はマードックだ。まだ十代半ばくらいだろうか、少女然としている。
ガチャ、と助手席のドアが開く音が聞こえ、俺はハッと顔を上げた。
「戻りました」
いつの間にか戻ってきていたマードックが車に乗り込んでくる。
「あ、それ私の財布です。落ちてましたか」
「ああ。シートの上に落ちてた」
「ありがとうございます」
写真を財布に挟んでマードックに返す。平静を装ってはみるが、マードックからはどう見えているだろうか。マードックは写真を入れ直してから財布をポケットに仕舞った。
前を向き、ハンドルに両手をのせる。
さっさと忘れよう。そう自分に言い聞かせるが、意識はあの写真に向いたまま離れない。
「私の父は、狙撃されたんです」
唐突なマードックの言葉に、俺は心を読まれたのかと思いドキリとした。知っているのか、と。
しかしマードックは変わらぬ調子で言葉を続ける。
「七年前、反政府勢力に撃たれました」
「そうか」
俺はマードックの顔を見ることもできず、閑散とした道路を見つめ続ける。
「父が撃たれる瞬間を目の前で見てました。ほんの数メートルしか離れていない場所でです。父が倒れた直後は何が起きたのか分かりませんでしたけ ど、胸から血が流れているのを見て撃たれたんだと分かって、助けなないとと思って駆け寄りました。けれどもそうしたらまた銃弾が飛んできて、父の頭を吹き飛ばしました」
マードックがどんな表情をしているのかは分からない。だがその声は、どこか淡々としているように聞こえた。
「警察の調査で、撃ったのは反政府勢力の人間だということは分かったそうです。けれども誰なのかはまでは分かりません。それに、そもそも父がなぜ殺されたのかも、まだ分からないままです。父が政府の人間だったというなら理解はできますが、政治的なことには何も関わっていませんでした」
俺は動くことも何かを言うこともせず、ただじっとマードックの言葉に耳を傾ける。
「私が軍に入ったのは、その辺りがきっかけです。反政府軍と戦っていれば、もしかしたらいつか実行犯を見つけられるかもしれませんし。まあそれ自体は大して期待できるとは思ってないですけど」
ハンドルを握る手に力が入る。汗が滲んだ掌は、じっとりと湿っていた。
でも、とマードックは言う。
「任務をしていると、疑問に思うことがあるんです。今自分が撃とうとしているのは本当に敵なのか、殺すべき相手なのかって。今回の任務もそうでした。ブリーフィングで反政府軍の人間だと説明は受けましたけど、私は彼のことを直接は知りません。スコープから見えた彼は、どこにでもいるようなただの男でした。軍人なのだから、余計なことは考えずに命令に従うべきだというのは分かっています。だからこんなのは間違っているんでしょうけど」
マードックの言葉はそこまでだった。
沈黙が、淀んだ空気のように車の中を漂う。そう感じるのは俺個人の問題かもしれないが。
それがどれくらい続いただろうか。
「いや」
ようやく俺は、絞り出すように声を出すことができた。
「お前は間違ってない」
そんなことを言う資格は、俺にはないかもしれない。けれども、間違っていないと思うのは嘘ではない。胸の奥底からどす黒いものがせり上がってくる感覚に見舞われるが、気づかないふりをしてやり過ごす。
「ありがとうございます」
そんなマードックの言葉が、俺の中を素通りしていく。
「もし――」
そこまで言いかけて俺は躊躇った。
訊いたところでどうなるわけではない。さっさと流して今まで通りを続ければいい。
「父親を殺した奴を見つけたら、どうする」
しかしマードックの話を聞いた今、完全に無関心ではいられなかった。
「もし見つけたら、どうして父を殺したのかを聞いて、それから――」
一拍の間をあけてから、言葉が鋭く突き出された。
「殺します」
研ぎ澄まされたナイフのように。
***
基地の一室に設けられた死体安置所。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……。
電灯が放つ薄暗い照明の中、俺は死体収容袋の中で横たわる人々を見下ろしていた。
物言わぬ死体となった彼らは、ここで葬儀の時を待っている。
死体収容袋は閉じられていて、その中で眠る人間の姿は見えない。俺に見えるのは、中身の厚みで膨らんでいる死体収容袋だけだ。そのせいか、彼らがもはや物でしかないのだと思えてくる。
数時間前までは生きた人間だったのに、今やただの物に成り果ててしまった。他でもなく、俺のせいで。
その事実がひどく恐ろしかった。
彼らから目を背けるように振り返る。するとそこにあるはずの壁はなく、死体安置所の部屋がどこまでも続いていた。
そこにずらりと並ぶ無数の死体収容袋。
それらは、俺が今まで物に変えてきた人たちだった。
洗面台の蛇口から出てくるぬるい水で顔を濡らし、夢の内容を頭から追い出そうとする。しかしいくら繰り返しても、脳裏にこびりついたそれは消えてはくれない。
顔を上げると、薄汚れた鏡に映る自分の顔が目に入った。
形容し難いほどに酷い顔だ。
それから目をそらし、鏡の横の壁を殴りつける。
ドン、という鈍い音が、誰もいない洗面所に響いた。
時刻はまだ夜明け前で、宿舎は静まり返っている。俺以外に起きているのは当直くらいだろう。聞こえるのは、蛇口から流れ続けている水の音だけだ。
任務から戻ってから一ヶ月、こんなことがずっと続いていた。毎日ではないが、かなりの頻度であのような夢を見る。
原因は明らかだ。あの時見た写真と、マードックから聞いた話。
忘れてしまえばいいだけのことだ。けれども、忘れようとすればするほど、それは色褪せるどころかより色濃くなっていく。
「クソッ」
俺はもう一度、壁を殴りつけた。
「ここ、空いてるか」
その日の夜、食堂で一人の夕食時間を過ごしていると、向かいの席に持った曹長がやってきた。
「ええ、どうぞ」
俺は食事の手を止めて答える。
ぐるりと周囲を見回すと、まだ空いている席は他にもあった。普段から食事を共にしているというわけでもないのにわざわざ俺の前に来たということは、何か用があるのだろうか。
曹長はトレーを置いて腰を下ろすと、パンを一口食べてから話を切り出してきた。
「お前、マードックと何かあったか」
「いえ、別に。どうしてです」
まさにその通りなのだが、俺はとぼけた。
「任務から戻ってから様子が変だぞ」
「そうですか?」
「マードックを避けてるように見えるが」
曹長はそう指摘する。
確かに、できることならばマードックとは距離を置きたいと思っている。けれども訓練になればマードックとは嫌でも顔を合わせることになり、当然コミュニケーショ ンもとらなければならない。訓練の打ち合わせ、指示出し、アドバイス。その度に俺の中であのことが呼び起され、心を締めつけられるような思いに襲 われていた。
あの様子からしてマードックは知らないのだろう。そのことが余計に拍車をかけていた。
それでも、内なる無関心を総動員することで、以前までの振る舞いを維持できていた。あの時からずっとそうしてきたように。
そう思っていたのだが、違っていたようだ。曹長がカマをかけているのでないなら、俺の意図しないところで態度に表れていたのだろう。
「そんなことはないです」
けれども俺は否定する。
「本当か」
「本当です」
「ならそのことはいいとして、今の状態で二人で任務に出てちゃんとやれるのか?」
「大丈夫です、やれます」
それは問いへの答えであると同時に、自分への戒めでもあった。どんな状態であったとしても、与えられた任務はしっかりと遂行しなけらばならない。
「ならいいが」
誤魔化しが通じたのか、それとも追及を諦めただけなのか、曹長はそう言うと俺から視線を外して肉を口に運んだ。
俺も会話が途切れたことで、自分の食事を再開する。
「ハンク軍曹」
と、俺を呼ぶ声が聞こえた。首をひねって声のした方を見ると、マードックがこちらに向かって歩いていた。
ついさっきまで話題にしていたこともあり、俺は少しばかり動揺する。そのことに気付かれていないか横目で曹長を覗き見るが、特に変わった様子はない。
「どうした」
「ディクソン大佐が呼んでます」
「大佐が?」
ディクソン大佐、俺たちが所属する狙撃小隊を隷下に収める特殊作戦大隊の司令官だ。
「オフィスに二人で来いとのことです」
大佐からの呼び出しは、任務に関することだった。
ノージャリンという街で展開している部隊が狙撃手を必要としているらしく、そこに行けということだ。命令を受けた俺とマードックは、翌日の朝に基地を発った。
***
ノージャリンは南北に流れる河によって東地区と西地区に二分されている街だ。かつては三本の橋が東西を繋いでいたが、今はその全てが戦闘により破壊されてしまっている。
先日実行された攻撃作戦によって、東地区は味方が制圧しきっていた。しかし西地区への侵攻は、敵の激しい抵抗によって難航している。現在は攻撃を一時中断して部隊を整えている最中だ。
そこで俺たちに与えられた任務は、敵との境界線である河と対岸を見張ることだった。
俺は部下を連れて河から六百メートルほど離れた位置にある建物に行き、その最上階に監視所を設けた。
向こう岸に人影が現れた。橋の右にある岩陰から顔だけを出して、こちら側の様子を伺っている。付近に他の敵兵もいるだろうが、ここから姿を確認することはできない。偵察しようとしているのか、それともじっと身を隠していることに焦れただけか。どちらにせよ、狙撃対象であることに変わりはない。
その顔面に銃弾を撃ち込むと、敵は崩れ落ちて姿が見えなくなった。するとすぐに向こう岸から銃声が聞こえたが、撃たれた弾がどこに飛んでいったのかは分からない。少なくとも俺たちの周りには着弾しなかった。歩兵がアサルトライフルで射撃するには少し距離があり過ぎるし、敵がこちらの位置を掴めているかも怪しい。
そんな敵兵を、俺は一人ずつ撃っていく。
二十発弾倉を撃ち尽くすと、弾倉を交換してまた撃ち続けた。
足元には排莢口から吐き出された空薬莢が散らばっていく。
「アーチャー、橋の上だ」
無線から上官の声が聞こえた。
見ると、四人の男が橋の上をこちらに向かって走っていた。とはいえ、橋は途切れているので奴らがこちら側に渡ることはできない。武器や道具を持っているわけでもなく、一体何をするつもりなのだろうか。
分からないが、とにかく俺は撃った。一人ずつ順番に。
この時俺は、完璧に仕事をこなせていた。照準を合わせて引き金を引き、弾倉が空になったら入れ替える。俺は一切の雑念なく、それをひたすらに繰り返した。まるで自分が銃そのものになっているような感覚さえある。
だが次の瞬間。
背後から炸裂音が聞こえ、背中に刺されたような痛みと衝撃が走った。
撃たれたのだと理解したのは、うつぶせに倒れた後だった。
撃たれるということは、死ぬということだ。そこに思考が及んだ途端、生温かくそれでいて薄ら寒い恐怖が、撃たれた個所から全身にどっと広がった。
それと同時に、誰が撃ったのかという疑問が湧きあがってくる。
東地区はその全体が味方の支配下にある。そこに敵が一切の騒ぎを起こさずに侵入してきたというのだろうか。それとも、ずっと遠くから狙撃されたのだろうか。
この事態において、俺の頭は恐怖と疑問に埋め尽くされ、思考能力をほとんど失っていた。他のことは何も考えることができない。
誰に撃たれたのかを確かめようと、俺は倒れたまま振り返る。
痛みをこらえながらのそれは、体が自由に動かせずとてものろかった。それだけの動作に数十秒か、もしかしたら一分以上かけたように感じる。
俺を撃ったと思われる奴の足を視界が捉えた。
そのまま視線を持ち上げると、そこにいたのは銃を構えた――。
「軍曹」
俺は目を開けると、とっさにサイホルスターから拳銃を抜いた。声のした方に突き付け、引き金を力の限りで絞った。しかしトリガーは固く固定されていてピクリとも動かず、当然のこととして発砲には至らなかった。
銃口の先には誰かがいるが、暗闇に包まれてその顔はよく見えない。
俺はその顔を凝視しながら、右の人差し指に力を入れ続ける。だがやはりトリガーは動かなかった。
「軍曹、私です」
マードックの声だった。目の前にいるのは、俺を殺そうとする敵の兵士ではなかった。
全身に張り巡らされた力が抜けていく。右腕が重力に引かれるままに下がり、握っていた拳銃が床にぶつかって音を立てた。
「大丈夫ですか」
「ああ……」
適当に返事を返すと、自分の置かれている状況を思い出してきた。
俺は今、ノージャリンで監視の任務に就いている。そして休憩時間に睡眠をとっていたところを、マードックに起こされたのだ。
しかしそこまで理解が達しても、現実感は喪失したままだった。これが夢なのか、それとも現実なのか。脳の表層部分ではさっきまでのが夢で今が現実だと分かってはいるが、意識そのものは曖昧なところをふらふらしている。
「交代の時間ですけど、疲れているようでしたら」
「いや、大丈夫だ」
俺は拳銃をホルスターに戻すと、重い体に鞭打って立ち上がった。
屋上の端では、二人の兵士が監視をしている。この任務に際して、部下として与えられた現地部隊の兵士だ。
緩慢な動きで、片方の兵士のもとへ行く。
「状況は」
兵士の横に着くと、胸くらいまでの高さがある石造りの柵に手をかけて尋ねた。
「何もありません。静かですよ」
兵士の言う通り、辺りは静かだった。聞こえる音は俺たちの話声くらいしかない。
「それは何よりだ。休め、交代だ」
「分かりました」
兵士は俺が差し出した手の上に暗視スコープを置くと、屋上の奥へ消えていった。
暗視スコープを覗き込む。そうすると緑色のフィルターが掛かった景色が確かに見えるが、その映像は脳に届く前に霧散してしまう。
マードックのことが気になって仕方がなかった。いくつもの感情が心の中でごちゃ混ぜになり、そのせいで仕事に身が入らない。
曹長の言葉が蘇る。マードックと一緒にやれるのかと訊かれ、俺はやれると言った。そうしなければならないと思っていたし、その気持ちは今でも同じだ。
両手を下ろして暗視スコープから目を離す。
月のない夜は真っ暗だった。天上の星がやけに輝いて見える。
渦巻く感情を息と共に吐き出そうと、ゆっくりと深呼吸をする。しかし何度やってもそれらは居ついたままで、何も変わらなかった。
あいつは何も知らない、だから気にするだけ無駄だ。そう自分の中で幾度となく繰り返してきた。さっきのやり取りも、俺への気遣いこそあれ敵意のようなものは全く感じなかった。
けれども、そんなものに意味がないことは明白だった。何故なら、俺のこの感情の根本はマードックがどうこうということではなく、俺自身の中に巣食っているものだからだ。
あれから一ヶ月。
初めは小さかったものが、今やここまで膨れ上がってしまった。重い塊がずっと心にぶら下がっている。
柵の上に置かれた両手に視線を落とす。
「マードック」
発声器官が俺の意思を離れてその名前を呼ぶ。
「はい」
声量は小さかったが、この静寂の中では十分だったのだろう。マードックはすぐに応じた。
「前に父親が狙撃で殺されたって言ったよな」
「ええ」
言ってしまえば、今まで積み立ててきたものが全て瓦解する。それでも、俺は言葉を止めることができなかった。穴の開いた水槽から水が流れ出てくるように、言葉が口をつく。
「お前の父親を殺したのは、俺だ」
マードックは沈黙した。それにより、完全なる無音がそこに生まれる。
それはまるで、俺を圧し殺そうとしているかのようだった。
「それ、どういうことですか」
ようやく届いたマードックの声に色はなかった。俺の言ったことの意味が掴めず、ただ疑問を呈してるだけのように聞こえる。
「そのままの意味だ。あの日、お前の父親を狙撃したのは俺だ。反政府軍の連中なんかじゃない」
そして最後にもう一度、はっきりと告げる。
「俺がお前の父親を殺した」
またの沈黙が俺たちの間を漂う。
何かの物音がマードックの方から聞こえた。
「冗談、ですよね」
「本当だ。お前が財布に挟んでた写真に写ってた男、あれがお前の父親なんだろ。俺が七年前に殺した奴だ。死んだ日も一致してる。間違いない」
写真については憶測でしかないが、そうであるとほぼ確信していた。仮に父親でなくとも、マードックにとって親しい相手だったのは確かだろう。
「どうして、ですか」
マードックが静かに訊ねてくる。
だがそれに対する答えを持ち合わせていない俺は、黙りこくるしかなかった。
「どうしてですか」
声が感情の籠ったものに変わる。
それでも俺は、俯いたまま口を閉じ続ける。
「軍曹」
遂にマードックが叫んだ。隠すことなく感情をぶつけてくる。
俺はゆっくりとマードックに顔を向ける。
突然、周囲が明るくなった。そのおかげで、マードックの姿がはっきりと見えた。
マードックは、殺意に満ちた様な表情で、俺を拳銃で狙っていた。
次第に辺りから銃声や爆音、叫び声が聞こえ始める。
予定にはなかったはずだから、何かがあって戦闘が始まったのだろう。この明かりはおそらく照明弾によるものだ。そして戦闘が始まったのならば、兵士としてやらなければならないことがある。
そんなことを俺は頭の片隅で考えたが、そのどれもこれもがひどく他人事のように思えた。ここは外界から隔離された俺とマードックだけの空間だというような、そんな感覚に囚われていた。
「俺は――」
そう言いかけたところで、
「何してるんだ」
と、侵入者が大声をあげて現れた。
休憩に入っていたはずの兵士だ。
マードックが駆け出した。兵士が止めようとするが、マードックはそれを振り切って屋上から走り去っていく。兵士がもう一人の兵士に追うように指示を出すと、指示を受けた兵士はアサルトライフルをつかんで走って行った。
一連の出来事を、俺は立ち尽くしたまま眺めていた。
「軍曹、怪我は」
「ああ……」
訊ねられた俺は、中身のない返事をすることしかできなかった。
***
マードックはあのままどこかへ行ってしまった。少なくとも、捕まったとか死んだという話は俺の耳には届いていない。最終的に、マードックは脱走兵として扱われることになったらしい。
俺はというと、戦闘がひと段落した後で、何人もに事情聴取を受けた。憲兵、ノージャリンで俺が指揮下に入っていた士官、狙撃小隊の隊長に曹長、そして特殊作戦大隊の司令官。だが俺は誰に対しても、本当のことは何も話さなかった。口論になっただけです、と適当に話を作り、他の質問にも適当に答えた。
しばらくするとそういった取り調べの日々から解放され、通常の業務に戻ることができた。とはいえ、全くの元通りとはならなかった。
俺の心に巣食っていたもの、それ自体はさっぱり消え去ったが、代わりに、俺の中から何かが抜け落ちたようになったのだ。あの時、マードックにその部分をごっそりと持って行かれたかのように。
誰に何かを言われても、それはすべて俺をすり抜けて彼方に消えていく。何かを達成しても、全て『成功』という言葉として処理されてしまう。
その変化は明らかだったのだろう。曹長だけでなく、いろいろな同僚が俺を気遣うような言葉をかけてきた。けれども何の効果もないと悟ったのか、次第にそれもなくなっていった。
そんなある日、一通の封筒が届いた。宛名には、俺の所属部隊と名前だけが書いてある。封を切って中を見ると、一枚の手紙が入っていた。ある場所の名前と、そこで会いたいという趣旨の文章が記されている。しかし、日付の指定はどこを見ても書いていなかった。
差出人の名前は記されていない。
けれども俺は、それが誰からの手紙なのかすぐに分かった。
俺が初めて人を殺したのは十五年前。
もともと軍隊に入ったのは生活のためだった。金も学もコネもなく他に働き口がなかった俺は、生きるためには軍人になるしかなかった。
戦場に出たいわけでも、殺したいわけでもない。命を危険に晒すだなんてもっての外だ。だから俺は後方部隊に配属されることを望んでいた。
だが、俺に割り振られた兵科は歩兵だった。前線で敵と直接撃ち合う兵科だ。
そこで俺は狙撃手になろうとした。戦場の外側に、比較的安全な場所にいられるだろうという安易な理由で。
訓練は厳しかったが、死ぬようなものではない。ちょうどこの時期に政府と反政府勢力の対立が武力を交えたものに発展していき、戦死者が出たという話を耳にするようになったが、それに比べれば圧倒的にマシだ。過程の途中で何人も脱落者が出たが、俺は与えられた課題をクリアし、狙撃手になることができた。
そしてある日、街をパトロールする友軍を支援する任務に就いた。その街は味方の制圧下にあり、戦闘と言えるようなものが起こることはなくなったが、数人による散発的な襲撃が時折発生するという状況だった。
俺は見晴らしのいい場所から、道を歩く味方の周囲に警戒の目を向けていた。道路には民間人や子供もいて、兵士たちは彼らとコミュニケーションをとりながら進んでいく。
監視を始めてからしばらくして無線機に通信が入り、一緒にいた上官がそれを受けた。狙撃のターゲットを指示する内容だった。
ターゲットとして指示されたのは、まだ十歳くらいの子供だった。上着を着こんでいる子供が、味方の方に向かって歩いている。服の下に爆弾を仕込んでいたのだろう。
俺はすぐに撃つことができなかった。そのような命令が出たということは、それなりの根拠があってのことなのだろう。だが俺からは危険な存在であるようには見えないし、なにより相手はまだ子供だ。大人の兵士さえ撃ったことのなかった俺は、子供を撃たなけらばならないという事態に対して完全に臆していた。
そんな俺に、「あいつらを見殺しにするつもりか」と上官が言った。
その言葉に突き動かされるように、俺は引き金を引いた。それは仲間を守るという意思からの行動ではない。このまま命令に従わずにいて仲間が死ねば、それはそれは俺の所為だということになる。そうなることが怖くて撃ったのだ。
しかし撃った銃弾はターゲットには当たらず、ターゲットのすぐ横の地面を穿った。移動目標とはいえ距離は二百メートル程度しかなく、訓練通りにやれば外すような状況ではない。躊躇いが照準をブレさせたのは明らかだった。
狙われていると知ったターゲットが走り出す。俺は慌てて二発目を撃った。だが動揺した状態で撃ったそんな弾が目標をとらえるわけもない。続けて撃った三発目と四発目も外れた。
そして、爆発が起きた。
ターゲットの子供が自爆したのだ。パトロールしていた兵士と、周囲にいた民間人――大人も子供も――を巻き添えにして。その光景は、ひどく非現実的なものに思えた。子供が自爆し、それによって人が死んだであろうということが、現実として受け入れられなかったのだ。もちろん、そんな逃避的な思考は、そのあとすぐに突き付けられた現実によって、いとも容易く打ち砕かれてしまうのだが。
この攻撃による死傷者は、自爆した子供を含めて死者八人に重軽傷者が十三人だった。
俺は上官に連れられて、すぐ爆発現場に向かった。周囲の安全を確保し、負傷者を救助するためだ。だが俺は、惨状を目の前にして何もできなかった。自分が引き起こしたことの重大さを見せつけられ、頭が真っ白になってしまったのだ。仲間を助けるどころか、足手まといになっていたかもしれない。気づいた時には、俺は現場から引き離されていた。
この件で俺を責める同僚はいなかった。だが彼らが内心でどう思っているのかは分からない。きっと、死んだ兵士の友人からは恨まれただろう。だが少なくとも、表だって非難されることはなかった。あまりにも鬱屈した態度を振りまいていたからだろうか。慰めや励ましの言葉をかけてくる者もいたが、しかしそれは何の救いにもならなかった。むしろそれらは、俺の罪悪感を煽りたてるものでしかなかった。
だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。いつまでも任務に復帰できなければ軍を追い出される。軍人で居続けたいわけではないが、他に行くところがない以上、それは避けなければならないことだった。
だから俺は、全てを忘れることにした。何人もの犠牲者が出たことも、それが俺の所為であるということも。と言っても、完全に記憶から消したわけではない。そんなことは無理だ。ただ、蓋をして心の隅に押しやって見ないようにしただけだ。
そして同じことを繰り替えなさいために、任務に自分の考えや感情を持ち込まないように自分の中からそれらを徹底的に排除した。何を命じられようと疑問を持たないし、躊躇いもしない。ただ命令に従うだけの駒であることに徹する。そうすることで、自分は言われた通りにしただけだと言い続けてきた。そうしている限り、もしなにかがあっても命令や交戦規定に責任を求めることができる。
だが、絶妙なバランスで保たれていたそれは、マードックによってあっけなく崩されてしまった。
そもそも、それらの考え自体が間違いだったのだ。決めたのは俺ではなくとも、実際にそれを実行に移したのは俺自身だ。そして命令に従うと決めたのも俺自身だ。どんなに言い訳をしたところで、その事実が変わることはない。
結果として、そのツケを今になってまとめて払うことになったのだ。
ラムケンの墓地。
マードックの父親が眠るその場所は、前に来た時と同じく静かだった。
目的地に向かう足取りに淀みはなく、真っ直ぐ進んでいく。これから俺の身に降りかかるかもしれないことに考えを巡らせても、それは変わらない。
門を越えて墓地に足を踏み入れる。するとすぐに、門の側に設置されている古びたベンチで彼女を見つけた。
「マードック」
「軍曹」
マードックは俺に気付くなり立ち上がった。
「来ないかと思いました」
その声も表情も、驚くほどに穏やかだった。ノージャリンで俺に銃を向けたことなどまるでなかったかのようで、肩透かしを食らった気分になる。
「ずっとここで待ってたのか」
俺がいつ来るのか、それ以前に来るのかどうかさえマードックには分からなかったはずだ。
「昼間はだいたい。他にすることもありませんから」
当然ながら、マードックは軍服を着てはいない。ここに来るまでに見た住民が身に着けていたのと同じような服を着ている。私服という見た目だけならば、初めて接するものではない。しかし漂わせる雰囲気は、俺がよく知るリリィ・マードック伍長とは違っていた。
「こっちです」
マードックが墓地の奥に向かって歩き出した。俺は近すぎず遠すぎずの間隔をあけてその後を追う。手入れの行き届いていない地面には雑草が生えていて、それを踏みしめていく。
やがて、マードックはある墓石の前で足を止めた。
ネイト・マードック。墓石にはそう記されている。
「どうして、父を殺したんですか」
マードックが振り返る。
「来たってことは、話してくれるってことですよね」
俺は言うべきことをもう一度頭で整理してから口を開く。
「俺はあの時、ターゲットを殺せと言われて実行した。その時に知らされたことは、ターゲットの顔と出現予測位置。だからその時のターゲット、お前の父親が何者でどうして殺される必要があったのかは分からない。その任務は情報局のタイナーという男からの依頼だった。これ以上のことを知りたいなら、そいつに訊くしかない」
「タイナー……」
「といっても本名じゃない。お前も知ってる通り、情報局の人間は偽名を使う」
「そいつが何処にいるか知ってますか」
「いや。最後に会ったのは三年前だ。それ以降のことは知らない」
「父が殺された後、犯人は反政府勢力の人間だと聞きましたけど、それは」
「情報局が工作したんだろう、きっと」
「そうですか」
マードックは懐から拳銃を取り出すと、数歩下がってそれを俺の胸に突き付けてきた。
人を殺す道具である銃を向けられて死を意識する。だが不思議なことに、逃れたくなるような恐怖は感じなかった。
「私は、父の仇と戦うために軍に入りました。間違っていたようですけど」
「知ってる」
「父を殺した相手を見つけたら、殺すつもりでした」
「それも知ってる」
前にこの墓地を訪れた時に聞いたことだ。そしてそれがなければ、俺もマードックも今こうしてはいないだろう。
「ならどうして来たんですか」
「どうしてだろうな……」
それは自分でもよく分からない。俺はマードックに何を求めているのだろうか。赦されたいのか、それとも糾弾されたいのだろうか。確かなのは、空洞のようになった俺の心をどうにかするには、マードックに会わなければならないだろうということだ。
「父を殺したことを私に言ったのは何故ですか」
「抱え込んだままお前と接するのに耐えられなくなったからだ」
「告解だったと」
「そうかもな」
「だとしても、あなたが父を殺したというなら、赦すつもりはありません」
「ならどうする」
「言った通りです」
マードックの声に続き、乾いた銃声が響いた。
胸に痛みと衝撃が走り、視界がぐらつく。俺はなるがままに身を任せて、仰向けに倒れた。
やはり俺は死ぬのか。
ここに来る時点で、こうなることはある程度予想していた。あいつは父親の仇を殺すと言っていたし、ノージャリンでも俺の銃を向けてきた。何事もなく終わるとは思っていなかった。だが死にたかったわけでもない。ここに来るより他がなかったというだけだ。
銃弾を通じて送り返されたかのように、ノージャリンでの一件以降に俺の中から消えていたものが戻ってきた。いくつもの命を奪ってきたことへの重責もそこに含まれている。自分がいかに取り返しのつかないことをやってきたのかということを、ここにきて再び突き付けられる。
同時に、死への恐怖がせり上がってきた。身をもって、死というものを実感したのだ。
ここに来たことを後悔する気持ちはある。だが、来なくてもきっと後悔しただろう。
マードックに会わなければ、彼女の父親のことを知らなければこうはならなかっただろうか。いや、そのことがなくても、俺はいつか限界を迎えていたに違いない。マードックに撃たれなくても、きっと似たような結末になっただろう。
だからきっと、自分のしたことから目を背けると決めたあの時点で、俺の行き着く先は決まっていたのだろう。