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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ルナティック

作者: 和仁

 ある深い深い森の奥に、底なしといわれる沼がありました。

 ある日、きこりが森の奥で木を切っていると、硬い幹の大木に斧をはじかれてしまい、運悪く斧は沼の中に落ちてしまいました。

 きこりは自分の斧が沈んでいった沼の水面を見つめ、沼のほとりに呆然と立ち尽くしました。

 きこりをしている以上手持ちの斧がひとつしかない、なんてことはありません。

 しかし長年愛用していた斧をなくしてしまった、という衝撃はきこりを生業としている彼にとってはとても大きなものであったし、残っている斧といえば錆付いて切れ味が悪く、今までと同じだけの仕事をこなすことは困難になることでしょう。今でさえようやく一日のパンにあるつけるほどの貧しい暮らしぶりなのに、これでは家で待つ妻子を養うことができません。

 きこりが瞳を宙に浮かせ途方にくれていても、きこりの斧を飲み込んだ沼は静かに沈黙し続けました。

 いくら待てど暮らせど、御伽噺の伝承にあるような女神が現れる様子は微塵もありません。

 沼の水面が月を映す頃、虚しさばかりで心を満たしたきこりは肩を消沈させ、重苦しい沈黙とともに帰途についたのでした。




 それからきこりは、毎日毎日沼を訪れました。

 それは仕事へ行く途中でもあったし、帰る途中でもありました。けれど、斧が彼の手元に戻ってくることはなく、彼はそこを訪れるたび、何をするでもなく斧を飲み込んだ沼を恨めしげに眺め続けました。

 そしてある満月の夜のこと。仕事の帰りに沼に寄ったきこりは、いつもとは違う光景を目の当たりにしました。

 いつもは暗く澱み、何も見えないはずの沼の底で、月の光に照らされて何かが光っているのが見えたのでした。

 きこりがなんだろうと思い近づいていくと、その光は斧の形のように見えたのでした。

 もしかして沼の底に落ちてしまったのではなく、途中で何かに引っかかり、沼の真ん中でとまっているのではないだろうか。と直感的に思ったきこりは、そこが底なしの沼だということも忘れて沼に飛び込みました。

 きこりは沼の奥に引っ張られることもなく、右手につかんだ重い手ごたえとともに運よく沼から這い上がることができました。

 きこりが右手につかんだものは、彼が思ったとおり斧に間違いはありませんでしたが、それはきこりの斧とは似ても似つかないものでした。

 泥で汚れてはいますが柄に美しい装飾が施されておりましたし、刃先もまだかけたところがなく鋭い光を放っておりました。

 刃先が月明かりにきらりと光り、きこりを誘惑します。

 きこりはその斧の美しさに魅せられて、ためしに木を切ってみることにしました。

 きこりが振り上げた斧は深々と木に刺さり、幾度か振り下ろしただけで容易に立ち木を切り倒すことができました。

 その快感にきこりは家に帰ることも忘れ、夢中になって幾たびも斧を振り下ろしました。


 きこりが我を忘れて木を切り倒している頃、父の帰りが遅いことを心配した彼の息子が、きこりを探しに森の中をさ迷っていました。

 息子が森の奥深くでようやくみつけた父は、鬼のような形相をして樹木を滅多切りにしていました。

 きこりの周辺には言わぬ木々の屍骸が、幾重にも折り重なって倒れているのが見えます。

 どの木々も、美しい樹皮をしたものはありません。

 彼には、傷つけられなかを暴かれた樹木たちが、恨めしげにこちらを見ているように見えました。

 いつの間にか夜も更け、天高く上った月が彼らをギラギラと照らしていました。

 いつもは優しいはずの最愛の父に、このときばかりは声をかけることが躊躇われました。それでも少年は意を決して足を踏み出しました。




 くたくたに疲れ、体中汗まみれ。体はもう限界だというのに、きこりは一秒も休むことなく斧を振るい続けていました。

 父を連れ帰ろうと呼びにきた息子の姿にすら、彼は気づきません。

 息子が父の肩に手をかけ、呼びかけようとした瞬間、振り上げられた斧はきこりの手を離れ、宙を舞いました。

 月光に斧が瞬きます。

 その直後、硬いものが砕けるような鈍い音とともに、何かが倒れるような振動が地面を揺らしました。

 きこりは周囲を見渡すと、ああなんてことでしょう、なぜこんな罰を受けねばならないのか、彼が何をしたというのか、父を呼びにきたはずの息子は変わり果てた姿で地面に倒れているのが見えました。

 そこに首はありません。軽くなった頭が空間を埋め尽くそうと、赤い血が瞬く間に広がり、少しずつ地面にじわじわと染み込んでいきます。

 体から切り離された少年の首はまるで生き物のようにころころと転がり、なにかに導かれたかのように沼の淵に音もなく静止しました。

 首はいやらしく空を見上げ、驚いた形相でカッと見開かれた瞳が、月明かりに照らされてらんらんと輝いています。

 沼に映る満月が、きこりを責めるように彼が犯してしまった大罪を照らし出します。

 我を失っていたはずの感情は息子の死によって動き出し、心に染み込む恐ろしさと悲しみが彼をその場に縛り付けます。

 深い絶望が彼の胸中を侵食し、やがて真っ黒に塗りつぶされてしまいました。

 あのあまりにも美しくもの悲しい月の魔力が、きこりを狂わせてしまったのです。




 きこりの家ではなかなか帰ってこないきこりと息子を、妻が心配しながら待っておりました。

 夜も中ごろ、待っても来ない夫と息子を探しに行こうと立ち上がったときです。


 トントントントントン


 と、忙しなく戸を叩く音がします。

 妻は夫と息子が帰ってきたのだと思い、急いで戸を開けようと駆け寄りました。しかし、妻は手をドアノブにかけようとした瞬間、女の勘とでもいうのでしょうか、不吉な予感が脳裏に走り、戸を開けることなく一歩退きました。

 するとどうでしょう。まるで妻が感じた不安を肯定するかのように、戸を叩く音が激しいものへと変わりました。食欲を抑えられなくなった狼が、哀れなる子羊を前に正体を曝し襲い掛かってくるかのようです。


 ドンドンドンドンドンドンドン!!!


 薄っぺらい木の板で作られただけの戸は、今にも壊れされてしまいそうな軋み音をたてながらも、必死で女主人を守ろうと森と小屋を隔てています。

 妻はそっと窓の影から外を覗き見ました。小屋の前に立っていたのはなんと、変わり果てたきこりの姿でした。

 暗く影の落ちた表情は虚ろ。笑っているのか怒っているのか、両端に吊り上げられた唇は頬まで裂け、そこから零れる液体が妙に生々しく宙に滴っているのが見えます。目だけが悪魔のように爛々と輝き、こっそりと様子を伺う妻に気づいたかのようにきこりは不気味ににやりと嗤いました。

 そのきこりの背後には、なんとも大きな赤い月が、禍々しく輝いていました。

 妻がどんなに目を凝らしても、きこりを探しに言ったはずの息子の姿はどこにも見当たりません。

 妻の信じたくないという思いが邪魔して気づかなかったけれど、よく見ればきこりが持つ斧には何か液体のようなものがべったりと付着していました。まだ乾ききっていないのか、地面にぽたぽたと滴り落ちるそれは、月光に照らされて赤黒い姿を見せていました。

 いなくなった息子と、たった一人で戻ってきた変わり果てた風貌の夫。

 それだけで妻は何が起こったのかを理解し、恐怖しました。

 妻は必死にになって禍々しく輝く月に祈りました。


 ――――ああ神よ。月の女神よ。貴方の気まぐれによって狂わされた悪魔を、月へとお戻し下さい――――


 すると、一瞬の光が雷のごとく飛来し、窓の外は閃光のような光に包まれました。

 光が静まった後、妻が恐る恐る窓の外を覗き見ると、地面には何かが焼け焦げたような後がくっきりと残され、こちらを恐ろしい形相で睨んでいたきこりの姿は忽然と消えてなくなっていました。

 妻は放心したままふらふらと家の外に出ました。

 妻がふと見上げた空には、夜空に煌々と輝く月が見えます。先ほどまでの禍々しさはなく、今はただ、静かに夜の森を照らしています。

 しかしその表面には、昨日までは見ることのなかった、まるで人の形のような黒い影が浮かんでいました。

 妻がやりきれない思いで地面に目を落とすと、先ほどまできこりがいたはずの場所に、月光に輝く斧が突き刺さっていました。まるで誘うかのように、柄の先をこちらに向けて。

 夫を狂わせた斧などへし折ってやろうと誘われるままに斧をつかみあげた彼女は、

 ニヤリ。

 と頬まで裂けた唇を吊り上げて笑うと、そのまま森の奥へと姿をくらましました。




 そしてこのときから、満月の夜になると月光に輝く斧を持った男がひっそりと地上に降り立ち、血を求めて地上を這いずり回るようになったそうです。

月の模様の由来を童話風に書いた物語で、もちろんドイツが舞台。

ドイツの月の見え方「薪をかつぐ男」から着想を得ています。話の中では薪じゃなくて斧だったりするんですけどね。

この話もかなり前に書いたものを若干修正しています。以前に読んでもらった友人から、「本当は怖いグリム童話」みたいな話だとよく言われました。

私がグリム童話大好きなのと、ドイツが舞台ということもあって雰囲気はでてますね。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  ありふれた昔噺のバリアントかと思っていたら、ホラー要素が大量に入ってきて、いい意味で裏切られました。  比喩表現が多彩で、作品の雰囲気に合っており、情景が目に浮かびます。  特に、父親の…
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