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ルクセンブルグのDJ  下

作者: 五作

       帰国

 


 僕は夏休みを利用して一週間、パリ、ルクセンブルグ、ドイツと旅をしてきた。そしていま大きなリックを背負い、JALの成田直行便に乗るためにシャルル・ド・ゴール空港にいる。四番ゲートは大勢の日本人客であふれ、久しぶりに聞く日本語の響きがどこか懐かしい。

 改札が開くと乗客は行列を作って、嬉しそうにぞろぞろと機内に乗り込んで行く。座席に着くとフランス語、英語、日本語の三か国語で、シートベルトを締めろとアナウンスが流れ、すぐに四名の女性アテンダントがやってきた。全員美形だったのでわざとシートベルトをしないでいたら、いちばん綺麗なお姉さんが僕の前に来て日本語で言った。

「お客様、まもなく離陸いたしますので危険ですからシートベルトを締めて下さい」

「ウイ・マダム、ところで成田には何時に到着しますか」とフランス語で尋ねた。

「予定通りなら午前九時三十分に到着いたします」とフランス語で返ってきた。

「ありがとう、成田の天気はどうなの」とこんどは中国語で言うと、

「毎日うだるような天気です。それに私はマダムではなくマドモアゼルよ、いまボーイフレンド募集中なの分かった、ハンサムな坊っちゃん」と中国語で返された。

 ちょっとからかうつもりが返り討ちになってしまった、恐るべし機内アテンダント。

 すぐにジャンボ機のエンジン音が高くなり、ゆっくり滑走路に向かって動き出す。

あと一日パリに滞在して、夜の歓楽街をぶらつきたかったなどと思っていたら、機体は急上昇をはじめ僕の上体が背もたれに強く押し付けられてゆく。いつものことながら尻の穴がむずがゆくなってきて落ち着かない。何回となく離陸と着陸を経験しても、このむずがゆいのだけはいっこうにやむ気配がない。

 機体が水平飛行に移ると、シートベルトを外してもいいと許可が出た。

 僕はここで安心して気が緩んだのか、それとも一週間の疲れがどっと出たのか分からないが、とにかくとても目を開けていられないほどの睡魔におそわれた。後頭部をシートにつけると瞳がゆっくりと閉じられてゆく。

 どれくらい眠っただろうか、いい匂いに目が覚めた。辺りを見渡せばアテンダントが機内食を配っているところだった。なんてグッドタイミングで目が覚めたんだろう、そういえば急いで空港に来たので、ハンバーガーを一個食っただけだった。機内食のサンドイッチはとても美味かった。エッフェル塔前のパン屋で食ったサンドイッチよりも、機内食が美味いとはどういうことだ。えこひいきするわけではないが、また次に海外へ行くときは、綺麗なお姉さんとおいしいサンドイッチが出てくるJALにしよう。

 そうだ成田に着く前にハンスとシェリーに手紙を書こう。

 僕はリックから便箋と封筒を出してテーブルの上に置く。

 じつは僕のフランス語の文章は、簡単な単語を並べるだけの幼稚園レベルなのだ。

 まずはハンスがシェリー基金を作って手術代を集めてくれたお礼と、シェリーの目の手術が成功しますように。それといつかは二人で日本に遊びに来て下さいと書いた。追伸で僕は来年の東京マラソンに出て、四十二・一九五キロを走ると付け加えて、手が止まってしまった。

「はてな、来年の東京マラソンは二月の何日だったかな? 二十五日、いや二十八日だったかな……どうも記憶がはっきりしないな」

 口に出してブツブツ言ってたら、隣りの席で新聞を読んでいた男の人が、僕の顔を覗き込むようにして言った。

「あの~、東京マラソンは二月二十六日ですよ」

「ありがとうございます、あ、あなたは?」

 隣で鼻ひげをたくわえた六十すぎと思われる紳士が、すばやく見ていた新聞をたたむと、

「申し遅れました、私は東京マラソンにかかわっている小池と申します」

 このとき僕の座席がちょうどジェットエンジンの近くだったせいで、名前がよく聞き取れなかった。

「池さんですか」

「えっ、ええ」

「それであなたも東京マラソンに参加するんですね」

「ええ、ま、まあそう言うことになりますか」

「ぼくはM大学の石田です」

「石田さんはもうマラソンは長いのですか」

「まだ五年です」

「ほう、五年ならもうベテランですね」

「いえいえ、僕は自己流だから大したことはありません。でも出るからには二時間二十分を切るのが目標なんです」

「そうですか、で、練習はでこでやられているのです」

「おもに皇居です、朝と夕方走っています」

「そうですか、私も週に一度は都内へ仕事に行きますから、そのときに皇居を走っていますよ」

「そうでしたか、もしかしたら一度や二度は会っていたかもしれませんね。ところで東京マラソンはいつから出ているんですか」

「二〇〇七年からです」

「えっ、それでは第一回目から出ているんですか」

「はい、でもタイムの方はさっぱりです。大会は若い人が多いですから、なかなかついて行くのが大変で」

「だめだめ、だめですよ。若い人たちはパワーとスタミナにものをいわせて最初から飛ばしますから、初心者がそんな早いペースに合わせると、必ず中盤で失速して失敗するんです。まずは完走することが大切なんです、わかりますか」

「は、はい」

「初心者が四十二・一九五キロを完走しようと思ったら、初めはゆっくりと走り、たっぷり体力を温存して三十キロ地点を過ぎてからスパートをかければ、好タイムが出るんです」

「そ、そうなんですか、すごく参考になります」

 僕は隣の池さんがあまりに感心するので、同行の士を見つけたりと喜んでマラソンの講義を始めた。マラソンに一番大切な食事の摂取と、大会前後のカロリー計算にはじまり、練習で怪我をしたときの克服と精神面のコントロールなどなど。これらはすべてマラソンで金メダルを取った小池監督の著書をさも僕が考えたように話してあげた。

 機内アナウンスが入り、ジャンボ機は着陸態勢に入るからシートベルトを締めろと言っている。

「池さん、最後にいい話をしてあげましょう」

「いい話と言いますと」

「それは小池監督のことですよ。あの高浜尚子に金メダルを取らせるために、コロラド州に家を買ったんですよ。標高一六〇〇メートルで高地トレーニングをするためにですよ」

 機内は空調が効いていてそれほど暑くないのに、池さんはポケットからハンカチを出して、しきりに額の汗を拭いている。

「次に会ったときは、高地トレーニングにおけるヘモグロビンの関係を話してあげますよ」

「あ、ありがとうございます」

 飛行機が無事停止すると乗客はいっせいに立ち上がり、手荷物を持って出口へと急ぐ。僕も立ち上がって通路に出る。 「それでは池さん、またどこかで会ったときには声を掛けて下さい、二月二十六日の東京マラソンで会いましょう」

「あ、あの~、じつは……」

 そのとき僕の後ろに座っていたメガネの若い女性が身を乗り出し大きい声で言った。

「監督、小池監督ではないですか。パリから同じ飛行機だなんてちっちも知りませんでしたわ、私ですよ、中南新聞の会議室でご一緒した佐山晴美です。あら、監督、いつあごひげを剃ったんです、もう少しで見過ごすところでしたわ」

 いまの会話で僕は驚いた。池さん、いや小池監督の顔をよく見れば、確かにあのトレードマークのあごひげを付けたら、新聞や週刊誌で見る顔と同じなのだ。すると僕はず~っと本人の前で、本人の著書のうんちくをひけらかしていた訳だ。あまりの恥ずかしさに額から汗がふきだしてきた。そのとき通路に立っていた僕の体は、後ろから来た大勢の乗客にトコロテンのように押し出された。

「し、失礼します」

 それだけ言うと僕は逃げるようにその場を立ち去った。


       治療


 ジリジリジリーンと鳴る目覚まし時計の音を止め、眠い目をこすりながら寝床から起きだす。             またいつもの一日の始まりだ。顔を洗ってTシャツとロングスパッツの上に短パンをはき、小さなオレンジ色の蛍光リックを背負う。中には水とタオル、テーピング用の絆創膏と小銭が入っている。ジョギングシューズのひもをしっかり結ぶと、外に出て軽い準備運動をする。そこへ新聞配達のバイクが細い路地を巧みに擦り抜けて行く。ようやく筋肉もほぐれて来たので、僕は青梅街道に向かってゆっくりと走りだし、いつものペースで皇居を目指す。早いものでパリから帰ってきて、こんな生活が三週間になる。

 早朝の都会は静かで、まだ人も車も眠っている。ときおり緑ナンバーのトラックが猛スピードで走ってゆく。ようやく額に汗がにじんできたところで半蔵門が見えてきた。すでに数人の顔見知りが走っている。挨拶がわりに軽く手をあげると、むこうも軽く手を上げて応えてくれる。皇居は一周が五キロで、信号もなく景観もよいのでジョガーには人気のスポットなのだ。それに警官が多く立っているので、治安のめんでは申し分ない場所だ。

 僕は日比谷方面に向かってゆっくりと走り、ほぼ一キロを過ぎた大手門あたりでピッチを上げた。朝の澄み切った空気がじつに気持ちいい、一周、二週と快調に飛ばし、三週目の半蔵門に差し掛かったとき、僕の前を黒のタイツにピンクのウェアーを着た人が足を引きずって歩いている。

「どうしました、足が痛むのですか」と声を掛けると、

「は、はい、足をひねったみたいで……」と若い女の人だった。

「無理をするとかえって悪くなりますよ、僕はトラブルに慣れていますから、さあそこに座って足を見てあげましょう」

 脇に寄せて座らせると、そっと靴を脱がせて慎重に足を見る。

「ここが痛いですか、それともここですか」

「う、うー」

「これは軽い捻挫ですね、テーピングしといてあげましょう」

 背負っているリックから治療用のテープを出して、足首を固定するようにぐるぐると強く巻きつけた。

「さあこれでよし、もう大丈夫です」と言って顔を見る。

「あっ、君はあのときの」

「えっ、私のことを知っているの?」

「ほら僕ですよ、シャルル・ド・ゴール空港から成田直行便に乗っていた」

「……」

「マダム、成田には何時に到着しますか」とフランス語で言ってから、

「成田の天気はどうなの」と中国語で言ったら、

「あっ、あのときのハンサムな坊やちゃん……」

「どうせ僕は坊やちゃんですよ」

「す、すみません、ついあのときのことを思い出して……。どうか気を悪くなさらないでください」

 彼女は恐縮して目を伏せた。

「いいんですよ気にしませんから。僕の名前は石田富をと言います」

「私は石川、石川雪子と申します」

「石川さん、一人で歩いて帰れますか? 足が痛むようなら家まで送ってあげますよ」

「ありがとうございます、家はこの近くの神田ですから大丈夫です」

「なんだ神田ですか、僕はよく本を買いに行くのであの辺は知ってますよ」

「そうですか、私の両親が駅前通りで菊屋旅館をやってるんです」

「もしかして菊の絵がある看板ですか」

「ええ、そうです」

「やっぱり、都会では珍しい看板ですよね」

「みんなにそう言われるわ、でも日本のお客さまより外国のお客様の方が多いのよ」

「そうか、それで語学が堪能なんだ」

「堪能だなんて、日常会話がやっとなのに恥ずかしいわ」

 そこへ黒のタイツにピンクのウエアーを着た女性が顔色を変えて走ってきた。

「あっ、良枝」

 良枝と言われた女性は石川雪子と同じウエア―で、年も同じくらいに見える。確かにどこかで会っているような気がするのだが。

「雪子どうしたの」

「軽い捻挫よ、いま石田さんからテーピングをしてもらったから大丈夫。石田さん紹介します、私の同僚で鮎川良枝さんです」

「石田です、よろしく」と言ってよく顔を見ると、

「やっぱりそうだ、あなたもJALの方ですね」

「ええ、でもどうして知ってるの」

「良枝、石田さんはパリから成田着の便に乗っていたから、私たちのことを知ってるのよ」

「さあそんなことより手当が先です。この先に水道がありますから、すぐに足を冷やしましょう」

 五分以上も冷やしただろうか、顔に正気があふれてきたようだ。

「いいですか、今日はぜったいに走ってはいけませんよ。足に負担をかけると取り返しのつかないことになりますからね、僕はこれで失礼します」

「あの、お礼をしたいので連絡先を教えてください」

「礼なんていいですよ、それに僕はいつもここでトレーニングをしていますから、こんど会ったら声を掛けて下さい、ではお大事に」

 僕は軽く手をあげて別れの挨拶をし、青梅街道目指してピッチを上げる。

 アパートへ帰り着くと郵便受けの新聞を取る。底に隠れるるようにして手紙があった、昨日取り忘れたのかもしれない。

差出人を見ると、アントワネット・シェリーと書いてある。アントワネット? シェリー? あっ、エーデル学園のシェリーだ。封を切って読むとトミーお元気ですかにはじまり、僕が日本に帰ったらすぐに目の手術をして、お陰さまでよく見えるようになりました。それといまマラソンの練習に夢中で、毎回好タイムを出すのでコーチに褒められているとある。あのシェリーがマラソンをねえ、おっ、二枚目の便箋にも何か書いてあるぞ。なになに日本に来る、それも東京マラソンに僕と一緒に走るとある。と言うことは、ルクセンブルグからわざわざ来るんだ、おう、もうすでに申し込みは済んでいるとある。それにルクセンブルグの陸上連盟から推薦状をもらって、選手代表としてエントリー済み。これにはびっくりだ、のんびりはしていられないな、おや別にもう一通ハガキがあるな、誰からだろう。ロドルフ? あっ、ロドルフ・ハンスからだ。なに、東京マラソンの取材がてらシェリーと一緒に日本に来る? あのDJが日本くんだりまでシェリーと一緒とは、またどうした訳だろう。



       到着


 二月二十四日十五時三十分、ハンスとシェリーを乗せたジャンボ機が三十分遅れで成田空港に到着した。

 僕がロビーで手を振ると、ゲートを出たばかりのシェリーも手を振りながら、笑顔でこっちに走ってくる。いきなり僕に抱きつき、

「やっぱりトミーね、すぐに分かったわ、会えてうれしい」

 上手な日本語で言ったので驚いた。

「シェリー、いつの間に日本語を覚えたんだい。それよりも僕の顔がはっきりと見えているのかい」

「ええ、とってもはっきり見えているわよ」

「シェリーの目が見えるようになって嬉しいよ。でも僕を見てちょっとがっかりしたかい」

「がっかりなんてしてないわ、だってトミーはあのとき言ったでしょ、僕はアランドロンよりも男前だって」

「おいおいトミー、俺を忘れないでくれよ」

 シェリーの後ろにいたハンスが怒ったような顔をして立っている。

「やあハンス、元気そうで少しも変わってないな、会えてうれしいよ」

「俺もだぜトミー」

 僕とハンスは抱き合って半年ぶりの再会を互いに喜んだ。

「ハンス、ホテルはどこを予約したんだい」

「帝都ホテルだよ」

「えっ、あの料金の高いと評判のホテルかい」

「ああそうだよ、少し高いと思ったんだけど、そこしか予約が取れなかったんだ」

「それじゃあ僕が安くて交通の便がいい、知り合いのジャパニーズ旅館を紹介してあげようか。いまから予約を入れたら二

人くらいなら大丈夫だと思うよ。それに僕のアパートにも近いし、皇居も近いからマラソンの練習もできて便利だよ」

「それなら帝都ホテルの予約を取り消すから、ジャパニーズ旅館を頼むよ、シェリーもそれでいいかい」

「OKよハンス」

「よし今のうちに予約の電話を入れておこう、ハンス、シングル二部屋でいいんだね」

 僕は携帯を出すと登録しておいた菊屋旅館に電話した。運よく石田雪子が出たので訳を話して二部屋とってもらった。

 夕方、シェリーの目が見えるようになったお祝いと、東京マラソンの健闘をかねて居酒屋で祝杯をあげた。

 翌日は早朝からシェリーと二人きりで皇居をランニングし、そのあと車を借りて東京マラソンのコースを視察した。シェリーは嬉しそうに外の景色を眺めながら言った。

「ねえトミー、もしも私が一番になったら結婚してくれる」

「OKシェリー、三万五千人の中の一番だぞ」と大笑いして言った。間違っても十四や十五の子供が一番になるなんてこと

は絶対ないと思ったからだ。シェリーはどこで覚えたのか僕の左手の小指に自分の小指を絡めて、

「指切りげんまん、嘘ついたら針一万本のます」と言った。

 おいおい、それを言うなら針千本だろうがと喉まで出かかったが、あまりにシェリーがはしゃいでいたので黙っている。



       東京マラソン


        (一)

 いま僕は都庁前に立って、東京マラソンのスタートを待っている。テレビカメラが何十台も並び、上空にはヘリコプターが旋回している。スタート付近にはそうそうたるメンバーがひしめいている。外国の選手ではフェリックス・ヌタやポール・ビスケット。女子ではヌタ・オメルやタチアナ・ペクソワなど、国内選手では出船や川外とまさにオリンピックの様相だ。後ろを見れば延々と続く人の群れで最後尾が全く見えない。主催者発表では三万五千人と言っていた。

 シェリーは外国招待選手なので僕よりはるか前にいるようだ。

 スタートのシグナルが鳴り、わずかな静寂のあと号砲とともに全選手がいっせいにスタートを切った。僕は人をかき分けるようにして五キロ地点までハイペースで走ったが、シェリーの姿はどこにも見当たらない。もっとも僕の前を百人以上の選手が走っているはずだから、きっとその中にいるだろう。スタートから二十キロ地点で給水所が見えてきた。ボトルを取って口に含み、残りを頭と太腿に振りかける。二月の寒い季節だが、今日は風もほとんどなく日射しがあって小春日和のようだ。最初の五キロを飛ばしたせいか、ここにきて疲れがどっと出たようだ。足が思うように上がらず、一人二人と追い越されて行く。そのとき報道関係者の金色のバイクが近づいてきた。運転手の後ろに座っていた男がマイク片手に僕に向かって言った。

「お~い貧乏学生、疲れたら乗せてやろうか」

 その声は……たしかにハンスだが……。

「ルクセンブルグのみんな、いまから日本製のバイクに乗って東京マラソンを実況するぜ。この場所はスタートから二十キロ離れた地点だ。俺の横を走っているのはみんなも知っているトミーだ。リスナーの中にはトミーなんて知らないぜと言う奴がいるかもしれないから、簡単に説明してやろう。半年前だ、みんなに呼びかけてエーデルワイス学園のシェリーの目が見えるようにと、一口一ユーロで金を集めたことを覚えているだろう。この金でシェリーの目が見えるようになったんだ。その呼びかけ人のトミーが、いま苦しそうな顔で走っているぜ。ちょっとインタビューしてみようか、おい色男、シェリーが一番になったら結婚するんだってな、約束守れよ~」

 ハンスはニタニタ笑っている。

「花嫁よりのろまな亭主じゃ先が思いやられるぜ」と言ってバイクはスピードを上げてみるみる僕を引き離して行く。

「なにを言うんだルクセンブルグ人め、よくも僕を小馬鹿にしたな」

 怒りのアドレナリンが一気に噴き出し、小さくなってゆくバイクを追いかけた。知らぬ間に一人二人と追い抜いて行く。三十キロ地点でようやく先頭集団が豆粒だけど見えてきた。その近くに金色に輝くハンスのバイクも見える。


       (二)


 先頭集団は七人で、ケニアのフィリップ・リモ選手、エチオピアのモネ・ツエガエ選手、ケニアのポール・ビスケット選手、またもケニアのサム・キプナン選手、日本の川外優輝選手、あとの二人は女性です。ルーマニアのヌタ・オメル選手、最後の七番目は誰でしょう、どうやら無名選手のようです。え~、資料によりますとルクセンブルグのアントワネット・シェリーと言う選手で、十八歳とあります。このままのペースで走りますと大会記録、いや世界記録が出そうです。

 テレビ中継のアナウンサーが、絶叫に近い声を張りあげ状況を説明している。

 ハンスを乗せたバイクがゆっくりとシェリーに近づいて行く。

「ハーイ、ルクセンブルグのラジオを聞いているリスナー諸君、しっかり聞いているかい、DJのロドルフ・ハンスだぜ。いまやっと先頭集団を捕まえたところだ、先頭を走っているのはケニア、エチオピア、ケニヤ、ケニヤ、日本だ。そのあとが女子でルーマニアのヌタ・オメル、最後の七人目が我らがルクセンブルグの新星、アントワネット・シェリーだ。あっ、首を振ってだいぶつらそうだ、大変だヌタ・オメルから少しづつ離されている。シェリー頑張れ」

 シェリーがちらっとハンスを見た。

「おいラック、バイクをもっとシェリーの側へ寄せてくれ」

 ヘルメットに内蔵された無線マイクで怒鳴ると、

「駄目ですボス、個人的な理由でこのバイクを、特定の選手の側へつけるなんて規則違反です」

「これは大事な仕事だぜ、ラックなんとか頼むよ。今晩ビールを一杯おごるからさ」

「ボス、ほんのチョットだけですよ」

「ああ分かってるって、恩に着るぜ」

「ボス、ビール忘れないでくださいよ」

「OKだ」

 バイクは滑るようにシェリーの横につくと、ハンスはポケットから紙切れを出し、

「シェリー、トミーからの結婚承諾書だ、一番にならないと無効だぞ」

 その紙切れをひらひらさせてシェリーに見せびらかす。とたんにシェリーの目の色が変わり、いままで首を振っていたつらそうな顔が引き締まり、腕の振りから足の上げ下ろしが流れるような美しいフォームになる。前を走っていたルーマニアのヌタ・オメルに追いつき、あっという間に追い抜いた。

「ボス、いま何をしたんです」

「スピードアップの特効薬を注入したのさ」

 そう言ってマラソンコースの見取り図をポケットにねじ込んだ。

「フッフッフ、シェリーは未公認記録だが世界記録保持者なんだぜ、あんな野郎どもなんかゴボウ抜きさ。ラック、しっかりシェリーを追ってくれよ」

「OKボス」


      (三)


豆粒のように小さくなった金色のバイクが、十円玉くらいの大きさに見えてきた。よくも僕をのろまと言ったな、それにどうしてハンスがシェリーのことを知っているんだ。とにかくこの手でとっ捕まえて吐かせてやる、絶対に逃がさないからな。確実に距離はせばまっている、僕はハイトップギアにシフトアップすると一人二人と抜いてゆく。


      (四)


「みんな聞いてるかい、大変なことがいま東京マラソンで起こっているぜ。アントワネット・シェリーがルーマニアのヌタ・オメルを抜いて、女子で一番を走っているんだ。その前に男が五人いるが、世界記録保持者もいて強敵ぞろいなんだ。シェリー頼むから五人全員抜いてくれ、そしたらトミーと結婚できるぞ。リスナーのみんなは何がなんだか分からないだろうが、昨日シェリーから聞いた話では、このマラソンで一番になったら結婚してくれるとトミーが言ったんだ。だからみんな、シェリーのため国のために応援してくれ。おっ、並んだ並んだ、シェリーがケニアのサム・キプサンとむポール・ビスケット、それに日本の川外と並んで走っているぜ。その十メートル先をエチオピアのモネ・ツエガエとケニアのフイリップ・リモが走っている」

「ボス」

「なんだラック」  

「前の中継車が邪魔でこれ以上前に出られない」

「国の威信と名誉がかかっているんだ、ルクセンブルグの国旗を振って強引に前へ出ろ」

「OKボス」

 ラックが国旗を振ると、ルクセンブルグのバイク中継だと分かったのか、前の中継車は少し外側へ寄ってくれた。

「いま外側からシェリーが川外を抜き、ビスケット、キプサンも抜いて三位に入ったぜ。あと二人抜いたらシェリーは結婚できるんだ、エチオピアのモネ・ツエガエとケニアのフィリップ・リモ選手の距離はたった十メートルだ。おっと、モネとフィリップが同時に振り返りシェリーをにらんだぜ。野郎ども血相を変えて走っていやがる、なんてこった、シェリーとの距離がだんだんと広がってゆくぜ。シェリー離されるなよ、やいてめえら、美人に追いかけられて血相変えて逃げる奴があるか、もっとゆっくり逃げろってんだ。エチオピアもケニアも紳士のたしなみがまったくねえぜ」

「ボス、ボス」

「なんだラック、いま取り込み中だぞ」

「またあの手を使ったらどうです」

「なんだ、あの手とは」

「ボスがさっき使った結婚承諾書」

「そうか、よしラック急いでシェリーの横へつけるんだ」

「OKボス」 

「シェリーこれを見ろ結婚承諾書だ、絶対無効にするなよ」

 またもマラソンコースの見取り図を振ってやると、シェリーのガッツポーズが返ってきた。するとモネ・ツエガエとの距離がたちまち一歩二歩と詰まってゆく。

「ついにモネ・ツエガエを捕まえた、いま並んで走っているぜ。力強い腕のストロークとバネのように伸び縮みするしなやかな足、まさに大草原を走るチーターのようだぜ。あっ、シェリーがツエガエになにか言ってるぜ」

「おじさん、先に行ってるね、バイバイ」ウインクすると一気に引き離す。

「抜いた抜いた、ついに二番手のツエガエを抜いたぜ。みんな聞こえているかい、シェリーが男どもを抜いて二番、二番を走っているんだ」

 沿道に残り五キロと書いたプラカードを持って係員が立っている。

 先頭はケニアのフィリップ・リモ選手、その後ろを五メートル遅れてシェリーが走っている。一メートル、二メートルとじわじわ距離が詰まってゆく。残り三キロ地点でついに二人は並んだ、そしてシェリーが体半分リードしている。

「抜いた抜いた、ケニアのリモを抜いたぜ。一番、一番でシェリーが走っているんだ。世界記録を持っている男のリモを抜いて、若干十八歳の少女がいま一番だ」

 ハンスはなりふり構わず絶叫でラジオの生放送をしている。

 残りあと二キロという地点で、フィリップ・リモの差は二メートルとシェリーがリードしている。沿道では大勢の人たちが、金髪をなびかせて走るシェリーに声援を送っている。その先に奇妙な男が台の上にあがって踊っている。上半身が裸で黒っぽい肌の色をして、腰みのをつけヤリのようなものを持っている。顔には白いペンキで不気味なくまどりがほどこされている。ケニアのフィリップ・リモが前を通ると、大声を出して訳の分からない言葉とヤリのようなもので威嚇するような格好をしている。

 するとどうしたわけかフィリップのペースが上がり、あれよあれよという間にシェリーの後ろにぴったりとついた。

「ラック、君は語学が堪能だから、あの腰みのが言った言葉の意味が分かるかい」

「ボス、よく聞き取れなかったよ、でもあれはスワヒリ語で動作と唇の動きでだいたい分かったよ」

「なんと言ってたんだ」

「女に負けたら国には帰れないぞ、お前は今夜ライオンのエサになるんだと言ってた」

「なにライオンのエサだと。これは大変なことになったぞ、リスナーのみんな、いまからシェリーを全力で応援しようぜ。ラック、バイクをシェリーの横に寄せるんだ」

 残り一キロ、ケニアのフィリップ・リモをわずかにリードしていたシェリーが、じわりじわりと追い上げられ、ついに二人は並んで走っている。



      ゴール


 ゴールまで一キロを切って残り八百メートル、前方にゴールテープが小さく見える。

 一瞬早くシェリーが勝負を仕掛け、フィリップ・リモを三十センチ、五十センチとじわじわ引き離してゆく。

 このときシェリーの顔に余裕の笑みが浮かんだ。

「トミー、約束は絶対に守ってもらうわよ」とつぶやくと、いちだんとペースを上げた。

 フィリップ・リモは引き離されるたびに悲壮な顔になってゆく。

 さきほど沿道で台の上にあがって大声を出していた腰みのの男は、フィリップ・リモの村に住んでいる酋長だった。酋長の言葉は絶対で、従わなければ制裁を受けなければならない掟になっている。

「ライオンのエサなんてとんでもない、国では俺の帰りを女房、子供が待ってるんだ」

 フィリップは命と家族を背負って一心不乱に走った。

 シェリーに離された距離を、三十センチ、五十センチと縮めるとついに並んだ。

 沿道に詰めかけた大勢の人たちが、拍手をしたり声を掛けたりして、小柄な少女シェリーにはとくに大きな声援を送っている。ゴールまで四百メートル、両者最後の力をふりしぼって死に物狂いのスパートだ。

 ハンスがバイクの後ろで絶叫しながら紙切れを振っているが、シェリーの目にはゴールのテープしか見えていない。それはフィリップ・リモも同じだ。テレビ局の中継車がゴール前に陣取って、アナウンサーが絶叫している。

「手元の時計では、どちらがゴールを切っても世界記録は間違いありません。もしルクセンブルグのアントワネット・シェリー選手が勝てばマラソン史上、いや今世紀最大の話題になるでしょう。両者とも二時間五分を切ることは間違いありません。ゴールまで十メートル、三、二、一」

 二人はほぼ同時にゴールテープを切った。

 電光掲示板が写真判定中と点灯している。

 パンパンパーンとゴールの祝砲が一斉に鳴り響くと、電光掲示板に結果が表示された。

 一位ケニアのフィリップ・リモ、タイム二時間四分四十九秒五七。

 二位ルクセンブルグのアントワネット・シェリー、タイム二時間四分四十九秒六八。

 続いてゴール瞬間の二人の写真が大画面に映し出された。

 電光掲示板の結果を見たシェリーは、いまにも泣きだしそうな顔をしている。

 一位になったフィリップ・リモはシェリーの健闘をたたえようと歩み寄り、

「小さい体でよく頑張ったね、おめでとう」

 ニコニコ笑いながら右手を出して握手しようとしたとき、シェリーのビンタが飛んだ。

「人の気持ちも知らないで、なにがおめでとうよ」

 シェリーの瞳に涙がにじんでいる。

 訳も分からず呆然と立ち尽くすフィリップ。

 シェリーは体の向きを変えると、フラフラとゴールに向かって歩き出す。

「トミー、トミーはどこ、私、あなたとの約束を守れなかったの、ごめんねトミー……」

 シェリーは次々とゴールしてくる選手をかき分け、涙で濡れた目を擦りながらトミーを一所懸命に探している。七、八名の係員が飛び出し、シェリーを取り押さえるようにして表彰台へ連れて行く。表彰台に上がってもシェリーの目はトミーを探している。さっきまで興奮して母国ルクセンブルグに生放送していたハンスも、シェリーを見ていささかしらけ気味だ。

「ボス、いまテレビ局からの電話で、夕方の生番組の出演依頼が入ってるよ。それとルクセンブルグの大使館からも、晩餐会の招待を受けているけどどうします」

「過密スケジュールで今晩はだめだと、両方とも丁重に断ってくれ。このままだとシェリーがあまりに可愛そうだ、もともとマラソンを始めたきっかけはトミーなんだからな。よし、奴には責任を取ってもらう義務がある、ここはハンス様が恋のキューピット役を買って出よう。もう昼か、ラックここは早急に撤収だ。それと車を一台手配してくれないか、三十分後に電話するから頼むよ」

 シェリーにまとわりつくテレビインタビューを適当に切り上げさせ、なおも殺到する報道陣を上手くまいてラックの用意したワゴン車にどうにかこうにかシェリーを隠すことが出来た。


      レストラン


 僕は自己ベストを十五分以上も上回る二時間十九分三十二秒でゴールした。そしてすぐにハンスを見つけ出し、胸ぐらをつかんで言ってやった。

「やいルクセンブルグ人、のろまな亭主とは一体どういうことだ」

「トミーがあんまり遅いから、少し怒らしたら走りが早くなると思ってさ。げんに自己ベストを出したじゃないか」

 と言って涼しい顔をしている。僕はつかんでいたハンスの胸ぐらをゆっくりと放した。

「すまないハンス、僕はすぐにカッとなる性格だからこの通り謝るよ」と深く頭を下げた。

「いいんだ俺とトミーの仲なんだから気にするなよ」

「ありがとうハンス、君の友情には感謝するよ」

 ハンスの手を握ると不覚にも目頭が熱くなってしまった。

「そうだ、ここでのんびりしている暇はないんだ。腹を空かした美しい猛獣が、トミーを待ってるぜ」

「えっ、猛獣?」

「ああ、十八歳になったばかりのお嬢さんだ。腹ペコなんだとさ、それに今日は最高の生中継が出来たから、飯は俺が全部おごるぜ」

 百メートルほど離れたところに、黒いワゴン車がエンジンをかけたまま止まっている。後部ドアを開けると、すでにシェリーが私服に着替えて乗っていた。

「やあシェリー、世界記録おめでとう。二時間四分四十九秒六八にはびっくりしたよ」

「ありがとう、トミーは自己記録を更新できたの?」

「おいおいトミー、こんなところで立ち話なんかしてないで、とりあえず車の中に入ってからゆっくり話しなよ」

 座席に着くとハンスが笑顔で言った。

「トミー紹介するぜ、ラックだ」

「よろしく、君のことはハンスから聞いているからよく知っているよ」

「僕は石田富夫、みんなトミーと呼んでいるんだ」

 車の中ではハンスの用意してくれたジュースと、軽いサンドイッチをほうばりながら話しが弾んだ。

「ハンスこの車はどこへ行くんだい」

「江の島だよ」

「江の島? あの鎌倉の……」

「ああ、シェリーが海の見えるところでゆっくりカルボナーラが食べたいと言うからさ、美味い店があるんだ、なあラック」

「はいボス、私は何回か食べに行ってますから味は保証します」

 第三京浜を飛ばして、鎌倉から七里ヶ浜まで来ると江の島が見えてきた。そこに目的のレストランがあり、二階建てで洋風の落ち着いた雰囲気だ。

「さあ着いたぜ、電話で予約しといたからたらふく食ってくれよ」

「それじゃあシェリー、二人で腹の皮が破けそうになるまで食って、ハンスの財布をからっぽにしてやろうや」

「ウイ、トミー」

「二人ともいくら食ってもいいが、俺の帰りの飛行機代くらいは残してくれよな」

「ボス」

「なんだラック」

「私にビールをおごると言ったこと、忘れないでください」

「あっ、そうだった。これでますます飛行機代が危なくなってきたぞ、ハッハッハ」

 階段を上って二階の予約してある席に座ると、僕は急に食欲がわいてきた。

「トミー、飲み物は白ワインでいいかい」

「ウイ、ハンス」

「シェリーはなにを飲む?」

「私はジュースでいいわよ」

「ラックは車の運転があるから、ノンアルコールのビールでいいかい」

「OKボス」

 全員がベーコンを主体にしたカルボナーラを注文したあとで、ラックが小声でハンスに行った。

「ボス、ここのピッザは本場ミラノの味よりも美味いぐらいだから、一度は食べてみる価値があるよ」

 飲み物が各自に注がれると、ハンスがグラスを持って言った。

「シェリーの世界記録とトミーの自己更新記録に乾杯」

「ありがとう乾杯」

「シェリーおめでとう」

 すぐに卵とチーズのたっぷり入ったカルボナーラが運ばれてきた。空腹のせいか四十二・一九五キロを走った体の隅々まで、栄養がいきわたるようだ。カルボナーラからピッザの皿に移ると、シェリーも僕も同じハイペースでピッザに取りかかっていた。

「ふーう、もう食べられないや、ハンス御馳走さん」

「私もこれ以上食べられないわ、御馳走さまハンス」

「君たち二人はなにも言わずに黙々と食べ続けるんだから驚いたぜ、なあラック」

「はいボス」

「あまりに腹ペコだったから、話しをすることをすっかり忘れていたよ、ごめんよ」

「いいんだトミー、気にするなよハッハッハ」

 この二階の窓から江の島の風景がよく見える。寒風が吹きつける冬空の下、奇特なサーファーが数人ウエットスーツを着込んで波乗りをしている。ハンスがそれを見ながら嬉しそうに言った。

「トミー、食事がすんだらサーファーたちを見に行かないか。あそこまで歩いたらいい腹ごなしになると思うが……」

「それはいい考えだ、シェリーも行くかい」

「もちろんよ、その前に私お化粧を直してくるわ」

 大きなバックを持って行った。シェリーが見えなくなるとハンスが小声で言った。

「トミーよ、シェリーのことは嫌いなのか」

「嫌いじゃないさ、大好きだよ」

「じゃあどうして結婚してやらないんだ」

「おいおいハンス、シェリーはまだ子供だぜ、それに結婚の約束はマラソンで一番になったらと言ったんだ。今日は二番だったから結婚の約束は無しだ」

「そうか、無しか。きっとシェリーはがっかりしていると思うぜ」

「僕にはそんなふうには見えなかったなあ」

「あっ、シェリーが化粧室から帰ってきた」

 ハンスが人差し指を口に当てて小声で言った。僕らは席を立ってレストランの玄関で待っているあいだに、ハンスは会計をすませた。みんなで冷たい風に吹かれながら江の島までゆっくりと歩いた。


       救助


「ねえトミー」

「なんだいシェリー」

「サーファーを見るのは今日が初めてなの、あの人たち波に乗ってすごく楽しそうね、私もやってみたくなったわ」

「海は冷たいよ、風邪をひくのがオチだからやめときなよ」

「とっても楽しそうに波に乗ってるわね。ねえトミー、もっと近くに行ってみましょうよ」

 シェリーは僕の手を握ると、ぐいぐい引っ張って波打ちぎわまで連れて行く。しばらく見ていたらサーファーが四人陸にあがってきた。まだ一人、だいぶ沖で波乗りしている奴がいた。ずいぶんとぎこちない姿勢で板に乗っている。

「あっ、あいつ今、板から落ちたぞ」

「ほんと? 大丈夫かしら」

「シェリー大丈夫だよ、泳げないやつが波乗りなんかしないさ」

「でもどこか変よトミー、あの人こっちに手を振って助けを求めているみたいよ。あっ、いま沈んだわ、きっと溺れているんだわ」

「えっ、溺れてる? まさか?」

「私いまから助けに行くわ」

 言うが早いかシェリーはコートを脱ぐと、セーターとロングスカートを脱ぎ捨て、寒さをものとせずジャブジャブ海に入り沖に向かって泳ぎだした。

「シェリー、ど、どうしてウエットスーツなんか着ているんだ」

 追いかけようとする僕の腕を後ろからハンスがつかんだ。

「トミー早まるな、シェリーはああ見えても泳ぎは得意なんだ」

「ハンス、シェリーはどうしてウエットスーツを着ているんだ」

「なんだそんなことか、ルクセンブルグでは海へ行くときみんなこれを着るんだ」

 そう言ってハンスは自分のコートの襟を開いて、自分のウエットスーツを見せてくれた。

「だ、だってハンス、ルクセンブルグには海がないじゃないか、それにいくら海に行くったってウエットスーツは着て行かないだろう」

 そのときハンスの後ろにいたラックが一歩前に出て、

「トミーさん、ボスは嘘つきません。この私でさえ海に行くときは必ずウエットスーツを着用します」と言ってコートのボタンを外して見せた。

「トミーそんなことはどうでもいいじゃないか、ほらシェリーが溺れかけたサーファーを助けて手を振ってるぜ」

 シェリーはサーファーを仰向けにして、右手を相手のあごに掛け平泳ぎで岸に向かっている。しかし高い波に邪魔されてなかなか岸に近づくことが出来ないでいる。ようやく岸まで三十メートルというところまで来たとき、シェリーの様子がおかしいことに僕は気づきハンスに尋ねた。

「シェリーはマラソンで体力を消耗しているから、あの高波でも大丈夫なのかな」

「た、大変だ」

「どうしたハンス」

「シェリーが溺れかかっている」

「なんだって、シェリーが……」

 僕は冬の寒さも気にせず着ていた服を脱ぎ始めた。

「待てトミー、俺が助けに行くから君はここにいてくれ」

 ハンスは大きなショルダーバッグをラックに渡すと、コートを脱ぎ捨て勢いよく海に飛び込んだ。あざやかなクロールでシェリーの所まで行くと、いつの間に用意したのか二人にライフジャケットを慣れた手つきで着せている。僕はみんな無事でいてくれと、ただ祈るだけだった。

 ハンスはライフセイバー顔負けの救助で、二人を波打ちぎわまで連れてきた。

 サーファーは荒い息をしていたが、なんとか自力で歩ける体力があった。それよりもシェリーの様子がおかしい。ハンスに抱きかかえられているシェリーは、くちびるは青く目を閉じている。岸にあがったのはいいが、腕はだらりと垂れてまるで死人のようだ。

「シェリー、シェリー、返事をしてくれ」

 僕はハンスから奪うようにシェリーを抱き寄せると、そっと砂浜に寝かせ自分の着ているコートを掛けてあげる。

「シェリー起きてくれ、たのむから目を開けてくれ」

 涙をこらえて必死に叫んだ。

「トミーすぐに人工呼吸をするんだ」とハンスが怒鳴った。

 僕はシェリーの心臓の上に両手を重ねるようにのせると、イチ、ニイ、サンと声に出して押しはじめた。

「駄目だ駄目だ、トミー、口でじかに酸素を入れてやらないと手遅れになるぞ」

 ハンスの言葉に脳味噌が錯乱してしまった。僕は無我夢中でシェリーのあごを上向きにすると鼻をつまみ、大きく息を吸って青白くなった小さな口に息を一回、二回と吹き込んだ。

「シェリー息をしてくれ、ここで死んでは駄目だ、いま死んでしまったら僕と結婚できなくなってしまうぞ。たのむから息をしてくれ、もしも僕の声が聞こえているのなら、せめて片目でもいいから開けてくれないか、お願いだ、シェリー」

 いつの間にか僕の目からは涙が溢れだし、シェリーの顔にポタリポタリと落ちた。

 するとシェリーの左目だけがゆっくりと開いた。

「シェリー、シェリーが生き返った。ハンス、シェリーが片目を開けた」

 僕が顔を上げるとハンスとラックが笑っている。

「二人とも笑ってなにがおかしんだ」

 僕は真剣に二人を睨み付けた。

「い、いや誤解しないでくれ、シェリーが目を開けたんで俺たち二人で喜んでいたんだ。な、なあラック」

「は、はいボス」

「ほらトミー、シェリーが起きようとしているぜ」

「私どうしたのかしら、ここはどこ」

「まだ起きちゃいけないよシェリー、それより僕がだれか分かるかい、えっ、分かる、良かった君は生き返ったんだよ」

「そうだよ、トミーが必死に人工呼吸をしてくれたおかげで助かったんだ、そう言えばトミーは言ってたよな、シェリー結婚してあげるから生き返ってくれと、なあラックも聞いただろ」

「はいボス、間違いなくこの両方の耳で聞きました」

「ぼ、僕は確かにそうは言ったが、それは言葉の弾みというか、その……」

「往生際の悪い奴だな、この場におよんで日本男子は嘘をつくのか」

「ぼ、僕は嘘はつかないよ、これでも誇り高い日本男児だ」

「聞いたかシェリー、日本男児は嘘をつかないと言ってるぜ、おめでとう。おいおいトミー、なんて気配りのきかない日本男児なんだ、こう言うときの紳士のセリフは万国共通なんだぜ、分かっているだろう、早くシェリーに結婚を申し込みなよ。俺とラックが証人になってやるからほら早く、アランドロンよりも男前なんだろう、いまさら照れることはないさ、誰もが一度は通る道なんだから、さあ早くいいなよ。」

「う、うん分かった」

 なぜこんな事態になったかということを考える余裕すらなく、目の前にぐったりと横たわって悲しげに僕を見つめている

シェリーが、たまらなく愛おしくなった。無意識に両手はシェリーの手をやさしく包むように握っていた。僕は姿勢を正し、咳払いを一つすると緊張して言った。

「こんな僕でよかったらどうか結婚してください」

 黙って僕を見つめていたシェリーの目から、みるみる涙がわいてくる。そしてふるえるような小さな声で言った。

「ウイ、トミー」

「よしこれで婚約は決まったぜ、あとはこれが証の婚約指輪だ。さあトミー、シェリーの薬指にこれをはめるんだ」

 ハンスはいつの間に用意したのか銀の指輪を僕の手に握らせた。

「ど、どうしてハンスが指輪を持っているんだ?」

「これか、じつはシェリーがマラソンで一番になると思って買っておいたんだが、急だったからサイズが合うかどうかわからないが、俺からのささやかなプレゼントだ。でもトミーよ、結婚式のときはこの指輪よりもっと豪華なものを用意しろよ、でないとケチな日本男児だとシェリーから死ぬまで言われるぜ」


      夢


 ようやくシェリーが元気になり、立って歩けると言ったので僕たちは安心した。すぐにラックは車を取ってくると言って

駆け出して行く。僕とハンスはシェリーを挟むように肩を支え、ゆっくりと砂浜を歩いてゆく。すると右手を見ていたハンスが言った。

「トミー、さっき助けたサーファーが気になるから、ちょっと様子を見てくるよ。悪いが先に行ってくれないか」

「ああ、それじゃあ車のところで待ってるよ」

 僕とシェリーが一緒に歩き出すと、後ろでハンスとサーファーたちの声が聞こえてきた。

「おーい君たち、もう大丈夫なのかい」

「はい、仲間を助けていただいてありがとうございます。僕は柳田一郎です」

「俺はハンスだ、そうだ近づきのしるしにこの金で一杯やってくれ」

「こんなにたくさん頂けません」

 ハンスとサーファーの声はだんだん小さくなり、彼らの会話は波の音にかき消されて聞こえなくなってゆく。

「いいんだ俺の気持ちだから気にするなって、そうだおぼれたふりをしてくれた青年は元気かい。彼の演技は本当にうまかったな、まるでおぼれているようだったぜ」

「すみません、あれは演技じゃなくて本当におぼれていたんです」

「えっ、なんだって、本当におぼれてた?」

「ええそうなんです、奴が言うにはあのとき足がつってしまったそうで、ライフジャケットを着せてもらわなかったら、海の底だったと言ってました」

「どうりで芝居とは思えなかったわけだ、これが映画だったら主演男優賞間違いなしだったのになあ、ハッハッハ、次に来たときは俺と連れの仲間にもサーファーを教えてくれないか、じゃあ楽しい一日を、バーイ」

「僕らはいつもここでサーファーをしていますから、いつでも声を掛けて下さい」

「ありがとう」

 ハンスはくるりと背を向けると片手を挨拶がわりにあげ、小さくなったトミーとシェリー目指して走り出す。くるぶしまで埋まる砂浜を、五十メートルほど全力疾走して追いついた。

「フー、息切れしてしまったよ。泳ぐより砂浜を走るほうが疲れるな」

「ハンス、君はタフだな。ところでサーファーが何か礼を言っていたようだけど何かあげたのかい」

「ああ、少しだけどさ酒代をやったんだ。あいつら寒そうに震えていたから酒の一杯でも飲めば元気が出ると思ってさ、俺はどうも貧乏そうなやつを見ると酒をおごりたくなる性分なんだ」と言ってウインクをした。

 そう言えば初めてハンスと会ったのは、パリの居酒屋だったことを思い出した。ハンスと会わなかったら僕はシェリーにも会わなかったろうし、いまこうして婚約者と手をつないで歩いていなかったろう。思えば人との出会いとはつくづく不思議なものだと思った。

 遠くを走っている電車を指差してシェリーが嬉しそうに、

「ねえトミー、あの電車はどこまで行くの」 

「あれは湘南ラインと言って新宿まで行くんだよ」

「だいぶ時間がかかるのかしら」

「いやほんの一時間くらいだよ」

「私あれに乗ってみたいわ、ねえ駄目かしら」

「じゃあ、あれに乗って帰ろうか」

「えっ、いいの、嬉しい、トミーと一緒に乗れるなんてワクワクするわ」

「おいおい俺は邪魔者か」とハンスが怒ったように言った。

「あらいやだ、そんな意味で言ったんじゃないのよハンス、気を悪くしたら御免なさいね」

「いいんだいいんだ、やっと結ばれた二人の仲に俺みたいな邪魔者が入ったんじゃ悪いよな、そうだろうトミー。俺は頭が人一倍悪いから、邪魔ならはっきり邪魔と言ってくれ」

「邪魔だなんてことはないよ、ハンスは僕らのキューピットなんだから、一緒に仲良く電車で帰ろうよ」

「そうか、でもやっぱりよすよ」

「どうしてさ」

「だって未来の嫁さんが遠慮しなさいと言う目で俺を見ているぜ」

「まあハンスたら」

 シェリーはハンスの腕を軽くつねった。

「イテテテテ、ああ痛かった。いまのは冗談だよ、俺とラックは先に帰っているから二人はゆっくりお茶でも飲んでから帰ってきなよ」

「ありがとうハンス、十時までには間違いなくシェリーを菊屋旅館へ送るよ」

「そうか、俺は間違いがあった方がいいんだが……」

「えっ、なんて言ったんだ」

「な、なんでもない、じゃあ旅館で待ってるぜ」

 僕とシェリーは十八時三十八分の新宿行に乗った。

 車内はわりとすいていたので、二人の将来のことを楽しく話し合うことが出来た。

 シェリーの夢はオリンピックに出て金メダルを取ること、そのあとで結婚式を挙げて幸福な家庭をきずくことだった。僕が金メダルを取るためならどんなことでもサポートすると言ったら、すごく喜んでくれた。


       サプライズ


 いま僕はルクセンブルグの陸上連盟から、シェリーの専属マラソンコーチという肩書で、毎日訓練に明け暮れている。八月五日までの本番まで一ヶ月を切ってしまったが、シェリーの体調はすこぶる良い。しかしときどきぼんやりと空を眺めたり、赤ちゃんを抱いた母親を見るとじっと見つめていたりする。

 今日は練習が休みなので、気分転換をかねて僕たちが結婚式を挙げる予定になっている教会を見に行くことになっている。ちょうど僕の両親も日本から来ていたので、四人で行くことにした。シェリーがどうせならエーデルワイス学園の子供たちとロザリー先生も連れて行くと言いだした。どこでどう話が進んだのか、ハンスがバスを一台チャーターしてきて、みんなで教会へ行くことになった。バスの中ではみんな普段着でワイワイガヤガヤ大騒ぎだった。しばらく外の景色を見ていた僕は、道が違うことに気がついてハンスに言った。

「なあハンス、教会へ行く道は左へ曲がるんじゃなかったのかい」

「ああそうなんだが、その前に君のご両親をノートルダム大聖堂へ案内しょうと思ってさ、それくらいの時間はあるだろう」

「ありがとう、あそこは世界遺産に登録されているからきっと感動すると思うよ」

 僕はハンスのやさしい心遣いに感謝した。大聖堂は荘厳の中にも格調高く見る者を圧倒させる。中に入るとローマ法王のような白い法衣を着た人が十字架の前に立っていた。その前まで行くと、いきなりハンスが僕の後ろから白いジャケットを着せた。

「おいおいこんなもの着せて、いったいどうしようと言うんだ」

「これは結婚式のリハーサルだ、さあこれを着て花嫁にはウエディングドレスだ。時間がないから服の上から着せてくれ」

 ハンスの後ろにいた女性が手慣れた手つきで、白いウエディングドレスをシェリーに着せた。すぐに白い法衣を着た神父が、おごそかにしゃべり始める。

「なんじは病めるときも、健やかなるときも、シェリーを幸せにすることを誓いますか」まるで本番の結婚式のようで緊張してしまった。指輪の交換になって僕は慌てた。こんなことになるとは思わなかったので、まさか指輪がありませんとも言えずにオドオドしていたら、父がこっそりと指輪を渡してくれた。僕はその指輪をシェリーの薬指にはめて、顔にかかったレースのケープをゆっくりとめくり祝福のキスをした。シェリーはにっこり笑い、僕を見つめている目からは涙があふれていた。後ろで祝福の拍手が沸き起こり、振り向くと全員正装して手を叩いている。さっきまで普段着でいた人たち全員がである。横でハンスがマイクを持ってしゃべっている。まさかラジオの中継ではと思ったが、その横でテレビカメラを担いだ人が僕にレンズを向けている。

「おいハンス、これはどういうことだ」ハンスの胸ぐらを掴み食って掛かると、

「映ってる、映ってるトミー、いま世界中にこの絵が流れているんだ、もっと上品に頼むよ日本男児さん」

 僕は怒りにかられて掴んでいた胸ぐらを放すと、自分自身がなんだか決まりが悪くなり、さもハンスの肩にほこりが付いているのを見つけたかのようにして、二、三回振り払いながらカメラに向かって満面の笑みを浮かべた。どうやらハンスのたくらみで、僕とシェリーはノートルダム聖堂で厳かに結婚式を挙げたことになるらしい。


      オリンピック


 八月三日ロンドンマラソンがバッキンガム宮殿前からスタートした。

 シェリーは前評判どおり、圧倒的な強さで一位となり周囲の予想通り金メダルを取った。

 もちろん実況中継はハンスがすべてやったのは言うまでもないが、シェリーと僕とのエピソードの方がルクセンブルグの人たちには大いに受けたらしい。それは僕にとってはとんでもないことだった。

 こともあろうにハンスは、シェリーが江ノ島でサーファーを助けた様子や、僕がシェリーに必死に人工呼吸をして涙を流しているところを、面白おかしく紹介したのだ。

 そうだあの時ハンスは大きなショルダーバッグを持っていたっけ、いまにして思えばあのバッグの中にカメラが入っていたんだな。なにも声優を使ってまで声を吹き替えなくてもいいのに。あのときのハンスの田舎芝居に見事引っ掛かった僕は、シェリーと一緒に街中を歩くたび、すれ違う人たちが指差しながら腹を抱えて笑うのには閉口した。

                                                

                                               おわり


 


 

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