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My Sweet Home  作者:
9/52

日菜

 葉月はいつも、日菜を乗せた小さな車椅子を押しながら凌を迎えに出た。片道20分。凌が通う保育園は小学校のすぐ近くにあった。だから、お迎えの道すがら、クラスメートと遭遇することも珍しくなかった。道幅いっぱいに広がって自転車を走らせるクラスメート。目を合わせないように、少し俯いて、葉月は凌の待つ保育園へと向かう。背後から漏れ聞こえる笑い声。何がそんなに楽しいのだろう。不思議と、その笑い声は葉月の耳に残った。


『葉月ちゃんのお母さんて、葉月ちゃんの妹がお腹にいるとき、お薬を飲んだんでしょ』

 昼休み、そう話しかけてきたのは、葉月がまだ話したことのないクラスメートだった。といっても、葉月には、ちゃんと会話を交わしたことのある相手の方が圧倒的に少なかったのだが。

『……どうして?』

『うちのお母さんが言ってた。お薬飲むと、病気の赤ちゃんが生まれるんだって』

『病気……』

『だから、葉月ちゃんは暗くなっちゃったの?』

『え?』

『妹が病気だから、葉月ちゃん、暗いんでしょ』

 きょとんとする葉月に、『かわいそう』と言い残して、彼女は小走りに教室を出ていった。

 なにが言いたかったんだろう、あの子。葉月はぽかんと窓の外を眺めた。昼休みのグラウンドでは、いくつかのグループがドッヂボールをしていたが、そのうちのひとつに、さっきの彼女の姿があった。

 ふっとそこから目を逸らして、『暗い』と、人差し指で机の表面をなぞる。なんだ、暗いって。もう1度、同じようになぞる。それを、ぎゅっと握ったこぶしでゴシゴシ擦る。なんだ、かわいそうって。ちっとも、かわいそうなんかじゃないや。わたしも、日菜ちゃんも。

 彼女が何を伝えようとしたのかは分からなかったけれど、なんだか不愉快なことを言われたように感じて、葉月はぷいっと机に顔を伏せた。


『お母さんは、日菜ちゃんがお腹にいるとき、お薬を飲んだの?』

 その日、夕食の食器を洗いながら、葉月は母親に尋ねた。スポンジを握る葉月の横で、母親は泡を洗い流している。日菜と凌がテレビのアニメにくぎ付けになっているこの時間だけは、葉月が母親を独占できた。

『飲んでないわよ。どうして?

『クラスの子に、そう言われたから』

 昼休みのできごとを葉月が説明する間、母親はひとことも口を挟まなかった。泡の付いた食器を黙々と洗い上げてゆく。最後に残ったカレー鍋を洗う段に来て、彼女はようやく口を開いた。

『かわいそうなんて言う子には、勝手にそう思わせておきなさい』

 葉月が見上げると、母親は表情のない横顔をみせていた。

『日菜ちゃんはね、この家を選んで生まれてきたの。どんな障がいも、この家族となら乗り越えてゆけるはずって、生まれる前から決めていたのよ』

『ふうん』

 どこかで聞いたような気がするな、葉月はどことなく歯痒さを覚えた。実は、母親が口にした言葉に、葉月はもう出会っていた。母親のものであろう詩集の中で。その頃、買い与えられた子供向けの物語では飽きたらず、葉月は両親の本棚にある書籍を端から読み漁っていた。

『じゃあ、なんで日菜ちゃんには障がいがあるの?病気だから?』

『病気とは、違うの』

 鍋を洗いあげて蛇口を閉めると、母親は葉月に向き直った。

『後遺症、なのよ』

『こういしょう?』

『そう。日菜ちゃんね、生まれるときにお母さんの臍の緒が首に巻きついちゃってね。息ができなかったの。』

『……なんで?』

『なんでだろうね……』

 呟く母親は、少し、考えた。

『事故、だったのよ。だれのせいでもない、事故』

  事故。事故って、車と車がぶつかるやつじゃなかったっけ。生まれて来るよりも先に、そんな恐ろしい経験をしてたなんて。葉月は、居間でテレビにかじりつく日菜に目をやった。あり得ないくらいの至近距離まで画面に顔を寄せた日菜は、ゆらゆらと頭を振りながら、ときどき笑い声をあげる。葉月には、もう分かっていた。日菜がアニメのストーリーを理解している訳ではないことを。色の変化とか音楽とか、もっと感覚的なところで、何かを面白がっているのだ。


 日菜が何をどこまで理解しているのか、葉月には分からない。日菜の口からは意味をもつ単語が出てくることがないからだ。唸ったり嬌声をあげたりするように聞こえるのが、日菜のお喋りだった。

 凌の保育園に向かう道すがら、日菜は散歩が楽しいのかキャキャッと声をあげる。その甲高い声は、周囲の視線を集め、日菜に集まった視線はそのまま、車椅子を押す葉月に移動する。相手が大人であれば、葉月が無表情に見返すと、大抵の場合は気まずそうな顔をして視線は逸らされた。だが、相手が子供で、それが幼ければ幼いほど、彼らの視線は無遠慮なまでに日菜と葉月に貼り付いた。

 ーママァ、あのこどうしたのぉ?

 ー見ないのっ

 母親に強く手を引かれ、それでも振り返り振り返りしながら歩いてゆく子供に、葉月は無表情のままじっと視線を返し続けるのだった。

 腹が立つとも恥ずかしいとも思わなかった。日菜は恥ずかしい存在ではなかったし、他人をもの珍しげにじろじろと見る品性の方がよほど卑しくて恥ずかしい。目を背けさせることじゃなくて、世の中には障がいを負った子供がいるんだということをちゃんと教えたら良いのだ。軽蔑、という言葉はまだ葉月の語彙になかったけれど、このときに感じていたものはまさしくそれだった。


 日菜は、歌うように節をつけてなにごとかを呟きながら、ときおり車椅子を押す葉月を仰ぎ見る。

『なあに?』

 葉月が覗きこむと顔をくしゃくしゃにして笑顔をつくる。歩くことが叶わなくても、普通の会話ができなくても、日菜は葉月の妹で、葉月がそれを卑屈に感じることはなかった。


『あれ、植村じゃん。なにしてんの』

 日菜の膝に凌を座らせ、二人乗りの車椅子を押していると、ときおりクラスの男子に呼び止められることがあった。遠巻きに観察する女の子たちと違って、彼らは疑問を率直に口にした。

『なにこれ、車椅子?』

『お前の妹、歩けないの?』

『てゆうか、なんで2人乗りしてんの?』

『え、これ弟?』

 ただでさえ口の開きが悪い葉月が、やつぎばやの質問に答えられる訳もない。耳たぶがじんっと熱くなって俯きそうになったとき、そのうちのひとりが言った。

『偉いよなぁ、兄弟の面倒みて』

 それはクラスの中でもひときわ目立つ男の子で、彼の一言によって葉月は質問の嵐から開放された。そしてその場にいた男子の中には、日菜のことで葉月を茶化したり揶揄してはいけないという暗黙のルールが成立したようだった。

『ネータン?』

 待ちきれなくなった凌が、日菜の膝から伸びあがる。

『あ、ごめん』

 小さく答えながら車椅子を押す腕に力を込めると、行くてを遮っていた自転車が左右に割れた。

『凌は、今日、なにして遊んだの?』

 学校ではめったに口を開くことのない葉月から滑らかな言葉がこぼれ落ちるのを、自転車の一群が見守る。

『すべりだい!!』

『そう、楽しかった?』

『たのしかた!!』

 ……植村って、喋れんだ。数台並んだ自転車の隙間から誰かが呟く。

『喋るだろうよ。人間なんだから』

 誰かが返した言葉で笑い声が起きる。


 ……放っておいてくれたら良いのに


 葉月は背中を堅くして、力いっぱい車椅子を押し出した。


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