絶対的服従
『おりこうさん』大人たちがしばしばそう口にするとき、それは必ずしも利口であることを示しはしない。むしろ、子供がほんとうに利口になったとき、大人たちは少しの都合の悪さをかんじるのではないだろうか。
そう、都合だ。
おりこうさんとは、大人たちに都合の良い立ち居振舞いができること。または、それができる子供をさす。そして、葉月の母親は、常におりこうさんであれと葉月を導いた。
おりこうさんはお菓子を欲しがって駄々をこねたりしないし、おりこうさんは宿題が終わる前に遊びだしたりしない。おりこうさんは進んでお手伝いをするんだし、品のないテレビ番組なんかを見たがったりしない。
母親の理想で鋳型をとった『おりこうさん型』。クッキーの型抜きをするように、葉月はおりこうさん型に成型されていった。でも、それだけをとればどうということもない。どこの家庭にだってルールはあるし、子供を躾けるのは親の勤めだ。
だが、葉月と母親の関係性は少しばかりいびつに歪み始めていたのだ。
母親にとって葉月は、娘であると同時に同士であり、絶対的な腹心でなければならなかった。葉月が少しでも鋳型からはみ出しそうになると、電流が走るような緊張感が母親の身を包んだ。
機嫌を損ねる兆候を感じ取った葉月は、兎が巣穴に逃げ込むように母親の鋳型に収まるのだった。
親が子供を動かすのに、実のところ叱責も体罰もいらない。愛情と、無関心と、嫌悪。それが操れさえすれば、子供はいとも容易くコントロールできてしまう。恐怖と羨望という感情のもとに。
葉月は、恐れていた。母親に背を向けられることを。何かあれば置いていかれる側の子供であるという意識は、年齢を重ねるほどに確信めいたものになっていた。それに今の母親には、日菜だけでなく凌もいる。末っ子の長男である凌を、母親は溺愛した。日菜には、使命感。凌には、無償の愛。大切なものを抱きしめる母親の腕からこぼれ落ちる自分の姿を、葉月は鮮明に思い描くことができた。
お母さんが喜ぶ子供にならなきゃ、いけない。
その思いが形となって現れたもの。それは絶対的服従だった。
母親は決して、無理難題を突きつけるわけではなかったが、常に完璧であれと葉月に課した。家事を手伝うこと、妹や弟の世話をすること、テストで良い点をとること、隠し事をしないこと。どれも、ごく当たり前に子供たちが背負う親の要求だ。けれど、ごく当たり前とはかけ離れた危機感が、葉月を絡めとっていった。
6時間目が終わったら寄り道せずに帰宅し、スクールバスの停留場まで日菜を迎えにゆく。日菜がベビー用の玩具で遊ぶ横で、手早く宿題を終わらせる。日が傾く前に洗濯物を取り込み、きちんと畳んで箪笥にしまう。フローリングの床を水ぶきし、畳の部屋には掃除機をかける。夕方4時には凌を保育園に迎えにゆき、家に帰ったら夕食の下ごしらえをする。
葉月がそこまでの家事をしなければならないのには、ちゃんと理由があった。葉月が小学校4年生になった年に、日菜が地域の養護学校に入学していた。その保護者会で役員を務めることになってからというもの、母親の日常は俄然、慌ただしくなったのだ。日菜を通学バスに乗せるとすぐに出掛けてゆき、家に帰るのは夜の7時とか8時とかになった。
家には祖母もいたのだが、母親は彼女の力を借りることを絶対的に良しとしなかった。
空模様を見て気をきかせた祖母が洗濯物を取り込んだりしようものなら、母親は静かに放電しながら、葉月を睨み付けた。たとえそれが、葉月が、まだ学校から帰る前のできごとであったとしても。
家事を巡って、葉月は母親と祖母の確執に確実に巻き込まれていた。
宿題が終らない、と半べそをかく葉月を見かねた祖母が、部屋の掃除を初めたりしようものなら、葉月は半狂乱に泣き叫んでそれを阻止する。午前中に降りだした雨に、祖母が取り込んで畳んであった洗濯物をわざわざ全部畳なおすこともあった。
そして、葉月がなんとしても阻止しなければならないこと。それは、凌に祖母を近付けることだった。
溺愛する凌に祖母が近付くことを、母親はなによりも許せなかったのだ。
嫁と姑、そして孫。水面下で燻っていた諍いが、もう隠しようのないところまで浮上していた。