小さな事件
凌が生まれて家の中が浮き立つ頃、葉月は小学校3年生になっていた。初めてのクラス替えを経て、担任も変わり、けれど葉月の学校生活には大きな変化はなかった。相変わらず、ぼんやりと自分の世界に遊んでばかりの葉月を、クラスメートはもう、それほど珍しがらなくなっていた。
葉月は葉月で、完全に周囲と打ち解けるタイミングを逸していた。小学校中学年ともなると、女の子たちが仲良しグループを形成しだすものだが、当然のごとく葉月はどこのグループにも入らずにいた。それを特に寂しいとも思わない葉月だったが、ときどき不便な思いをすることになった。
例えば、体育の授業の柔軟体操。例えば、郊外学習のグループ分け。例えば、リクリエーション大会の役割分担。
仲良し同士が集まったグループの隙間のようなところにねじ込まれて、葉月も窮屈に感じたが、一方の迎える側もうっとおしく感じていることは明らかだった。
グループであれば、まだ良かった。二人一組のペアとなると、目も当てられなかった。葉月と組むことになった相手はあからさまにハズレくじで、葉月は申し訳なさで消えてしまいたくさえなるのだった。
こんな思いをするくらいなら、ひとりで構わない。
葉月の思いは態度にも表れていたのだろう。もしかしたらそれは、とても不遜なものとして見る者の目に映ったのかもしれなかった。その証拠であるかのように、いつまでも馴染まない葉月は、次第にある種のクラスメートから疎まれだした。
アンタのこと、嫌い。
何人かは、分かりやすい方法で葉月にそのことを見せつけた。
ある日、登校すると上履きが消えていた。あるいはある日、給食当番の葉月が配膳室に行くと、一番重い汁物のバケツだけが残っていた。
どれもほんとうに些細なことだった。探せば、上履きは下駄箱の 一番上にちんまりと鎮座していたし、給食の重いバケツ は、見かねた男子が一緒に運んでくれた。
そして葉月は、目の前の問題さえ解決してしまえば、それが誰の仕業であろうと構いはしなかった。上履きは見つかったし、ホワイトシチューも無事に38人分の皿に分けることができた。めでたし、めでたし。それだけだった。
けれど、その手応えのなさが、相手を余計に苛立たせることとなった。それまで事象の影に隠れていた相手が、徐々に実体を伴いだしたのだ。相手、というのは意外にも、クラスの中でも最も華やかなグループに属する女子たちだった。
葉月とは対極にいる、女の子たち。休み時間のたびに集まっては、なにやら楽しげな笑い声を響かせる彼女たちは、どことなく大人の気配を漂わせ始めていて、葉月にとっては同級生の中でも特に近寄りがたい存在だった。
その彼女たちは、1年生、2年生のときにクラスの男子がしてきたのとは違う絡みかたで、葉月を構いだした。
葉月の周りをぐるりと取り囲んだまま、延々と自分たちの会話を続けてみたり。お手洗いに向かう葉月の後ろにぞろぞろ列を作ったり。『ねぇ、なに読んでるの?』と、文庫本に目を落とす葉月にかわるがわる話しかけてきたり。そうしておきながら、葉月の困った顔を覗き込んではにやにやと顔を見合わせるのだった。頼みのリカちゃんは、クラス替えで隣り合わせのクラスに行ってしまっていた。
それはいじめと呼ぶには余りに可愛らしい、ちょっとした意地悪でしかなかった。けれど、ちょっとした意地悪の奥には、赤黒い感情がぬるぬると蠢いていて、ふとした隙にその顔をちらつかせるのを葉月はもう、見抜いていた。
『これ、美樹ちゃんの定規とお揃いじゃない?』
親しげな笑顔で近付いてきたひとりが、おもむろに葉月のペンケースに手を伸ばす。
『あ~、ほんと。お揃い。』
親しげな笑みを浮かべた美樹ちゃんは、次の瞬間、悲しそうな顔をして見せる。
『でも、あたしの定規、どっかいっちゃったんだ』
どこに行っちゃったのかなぁ…。意味ありげに長い睫をぱちぱちさせる美樹ちゃん。
手元には、見覚えのない定規。葉月は、こいつがペンケースに入り込んだ経緯さえ知らない。
『こんなの、知らない』と言い出せない葉月に、彼女たちは追い打ちをかけるように言葉を浴びせかける。
『葉月ちゃんは、これどこで買ったのぉ?』
『いつから使ってるのぉ?』
『なんで答えないのぉ?』
『美樹ちゃんの定規、どこいったんだろうねぇ?』
真っ赤な顔で俯く葉月。周りを取り囲む彼女たちの笑顔。笑顔はときどき、怒りの表情より、恐ろしい。
……放っておいてくれたら、良いのに。
執拗に絡んでくる彼女らの視線から逃れようと身を縮める葉月の頭には、その言葉しかなかった。
クラスの中には、彼女たちと仲良くなりたくてしかたのない女の子もたくさんいるのだ。よりによって、葉月に照準を合わせなくてもよさそうなものなのに。
彼女らに捕まった休み時間はやたらと時計の進みが遅くて、葉月はひたすら俯いて授業の始まるチャイムを待ち焦がれた。先生が教壇にたち、黒板とチョークの擦れる音が響き始めると、葉月はふっと肩から力が抜けるのを感じるのだった。
だからというわけではないが、葉月は教科書を使う授業の時間がまったく苦ではなかった。国語も算数も理科も社会も、文字が並ぶところには物語が生まれた。350個のビー玉を6個ずつ袋に詰めて余りを見つけなくてはいけないヒロシくんも、花から花へと飛び回りながら菜の花の受粉を助けるみつばちも、ひとたび葉月の世界に踏みいると教科の枠を越えて動き出す。ヒロシくんは余った2個のビー玉を持って冒険に出るのだったし、みつばちは花の中で出逢った蝶との叶わぬ恋に涙を流すのだった。
とりわけ葉月を夢中にさせたのは国語の教科書で、抜粋された物語の一章は、その後、葉月色の世界に塗り替えられた。
反面、苦痛で仕方がなかったのは、体育の授業だった。クラスの中でも飛び抜けて体力が劣る葉月は、リレーをすれば次の走者にまで抜かれ、ボールを投げれば目とはなの先にぽとりと落ちた。
当然、グループ対抗のゲームなどすれば葉月ひとりのせいで最下位になるのは必至だった。とろとろと動く葉月を見る、クラスメートの呆れ果てたような目が痛くて、葉月はしばしば体育の授業を見学した。母親の筆跡を真似て書いた連絡ノートを先生に提出して。指先を冷たくしながら葉月が見守る前で、担任の三田先生はノートに目を通すと無表情にはんこうを押した。
体操服に着替えたクラスメートから離れて、私服のまま、石段に腰を下ろす。
最初の数回でこそ気が咎めたが、あまりにあっさりと判を押されることに慣れ、葉月はごく当たり前のように体育を見学するようになった。
ボールゲームや器械体操をするクラスメートを見るともなしに見ていると、頭の中にはいつもの葉月の世界が広がった。皆は体育の授業中だから、誰にも邪魔はされない。その世界にいる葉月は、誰よりも運動神経が良くて、やはり周りにはたくさんの仲間が集まってくるのだった。
葉月はしばしば、そこが学校で、今が体育の授業中であることを忘れて空想の世界に遊んだ。端から見れば、ただぼんやりとしているようにしか見えなかっただろう。そんな葉月に気付くと三田先生は、ちゃんと見学をしているように、とやや苛立ったような口調で葉月を体育の授業に呼び戻した。
三田先生の目に映る葉月は、物静かなのんびりやさんなどではなかったようだ。何を考えているのか分からない可愛いげのない子、葉月を見る彼女の目は、ありありとそう語っていた。
『葉月ちゃんて、笑うことはあるんですか?って、聞かれちゃったわよ』
ある日、とうとう学校に呼び出された母親は、三田先生との面談を終えると、そう葉月にこぼした。
『先生は、子供たちのどこを見てるんですかって、言ってやったけどね』
連絡ノートに嘘を書いたことも、体育の授業を受けていなかったことも、母親は話題にしなかった。叱られると身構えていた葉月がおそるおそる顔色を窺うと、母親は笑顔を浮かべていた。
『お母さん、お利口さんの葉月ちゃんしか知らないもの』
その笑顔に、葉月は背中が硬直するのを感じた。
……二度と、授業をさぼったりするものか。
笑顔はときどき、怒りの表情より恐ろしい。