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My Sweet Home  作者:
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陰り

『なにか、見えますかな』


 背後から急に声をかけられて、葉月は危うく崖を踏み外しそうになる。体勢を立て直しながら振り返ると、釣具らしきものを肩にかけた初老の男性が、舗装された道路から葉月の立つ岩場へと歩み寄ろうとするところだった 。

『風が強いから、竿を振れんでね』 赤銅色に焼けた目尻に数本、長い皺を刻む。つばの先がめくれあがった帽子は、元は黒いものであったのだろう 。長いこと潮風に揉まれたのか、今は白っちゃけた灰色をしている。 『またこりゃ、滑るねぇ』 呟きながら岩を渡り、その男性は葉月の隣に並んで沖に目を凝らした。ぷん、と懐かしい香りが鼻をくすぐる

  ……この香り。ほんのり甘くて、少しだけ煙い。それは、週末の父親の匂いだった。


 練り餌と煙草。


 隣に立つ男性の胸ポケットに納められた赤と白のパッケージは、父親が好んで吸っていたものと同じだった。

『……CHERRY 』

 意識をせぬまま、葉月は呟いた。



 葉月が幼少を過ごした家の玄関扉は、その頃もうあまり見かけることのなくなった、磨りガラスを格子に嵌め込んだ引き戸だった。作り付けの下駄箱の上には黒電話があり、その隣に無造作に父親が吸うCHERRYの箱が転がっていた。

 東京に本社ビルを構える企業に勤めていた父親は、小学生の葉月が布団から出る頃にはスーツに着替え慌ただしく家を出る。葉月はパジャマ姿のまま玄関に立ち、出掛けてゆく父親を見送った。彼が帰宅するのはいつも深夜で、葉月が父親の顔を見るのは平日の朝と、週末の夕食どきくらいなものだった。土日ともなれば、夜が明ける前から釣具を担いで市内を流れる川に繰り出し、一日中浮きを眺めて過ごす父親。

 それでも葉月がまだ幼稚園に通っていたころは、凧上げ 遊びに付き合ってくれたり動物園に連れていってくれたりしたのだった。 葉月が芝山に上れば『早く降りてこい』と手を伸ばす、 心配性な父親。動物園にいけば、葉月がねだったソフト クリームを大きなひとくちで半分以上、食べてしまう父親。凧上げを始めれば、葉月よりも熱中して、ひとりでおおはしゃぎする父親。


 もともとは、陽気で気のいい父親だったのだ。


 けれど。


 葉月が小学校に上がる頃から、父親は家の中でむっつり としかめ面を浮かべることが多くなった。眉間に深い皺 を刻みながら玄関を出てゆく父親。格子戸がぴしゃりと音をたてるたび、葉月の背には微かな電流が流れるようだった。

 両親の間になにがあったのか、葉月に分かるはずもない 。でも、なにかがあったことは幼いながらに感じていた 。それは例えば、さっきまで和やかに言葉を交わしていた両親がにわかに声を荒げてお互いを責め始めるような場面に行き合ったときなどに。いつの間にか、両親の間には頻繁に小競り合いが起こるようになっていた。そん なときのふたりは、それはそれは恐ろしい形相をしてい て、まるで葉月が知る両親とは違うひとたちのようだった。弾丸のように吐く言葉も、葉月の耳にはどこか異国の言葉のように聞こえた。ふたりが言い合いを始めると 、なすすべのない葉月はじっと膝を抱えて嵐が過ぎるのを待つしかなかった。

 そんな小競り合いの最後にはたいてい、

『葉月ちゃんが見てる前で、やめなさいよ』

 と、見かねた祖母に諌められて、家中の壁が震え上がるほどの勢いでドアを叩き付ながら母親か父親のどちらかが飛び出した。

 もう、これきり母親や父親が帰って来なかったとしたら…。気を揉む葉月をよそめに、気付けば両親は和解していて、でも葉月の安堵も束の間に、またなにやら言い争いを始めるのだった。


 今日は、おとうさんとおかあさんが喧嘩しませんように。

 父親が釣りに出かけられない雨の週末、葉月は部屋の片隅で膝を抱えながら、そう祈った。


 けれど、ぶつかりあっているうちは、まだ良かったのだ。


 弟の凌が生まれた辺りから、家の中が妙に寒くなった、と葉月は思い出す。それは肌がざわざわと粟立つような感じで、どんなに厚着をしても敵わない類いの寒さだった。

 凌は、待ち望まれた長男だった。父方の家系は、決して 家徳を気にするような大それた家柄ではないが、やはり 父親は姓を継ぐ男の子が欲しかったようだ。葉月に次い で生まれた日菜が女の子だと知って、そのときは少し落 胆したらしい。母親は、日菜が20歳をとうに過ぎた今 でもな

お、そのときのことで父親を責める。


 もちろん、父親だけでなく家族の誰もが凌の誕生を喜ん だ。日菜のことがあったので、母親は市内の大きな病院 に入院したのだが、さいわい凌には日菜のような障がい は現れず、そのことは誰よりも母親を安堵させたに違い なかった。

 凌の、健康的な桃色の頬や、ぷくぷくと柔らかな紅葉みたいな手のひらや、ふんわりと甘い香りは、家族の誰もを微笑ませた。そしてそれが故に、危うく揺らいでいた 愛憎の天秤は支点を失うことになったのだった。

 でも、それは凌のせいではない。


 役者が揃ったのだ。彼が生まれたことによって。


 無邪気に眠る凌と、その頬をつつく葉月の背後で、重い幕がゆっくりと音もなく上がっていた。

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