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My Sweet Home  作者:
52/52

亀裂

 膝まづき、広げた指先で宙をかきむしり、享也は絶叫する。

『いないのかよ、誰もいないのかよーっ』

 ゆっくりと緞帳が上がると、朽ち果てた民家の前に佇む桜子のうしろ姿を、青白いスポットライトが照らし出す。

『いないのよ。誰も。誰もかも、消えてしまったもの』

 振り返った桜子の顔は半分が焼けただれて、垂れ下がった皮膚が目や口を覆い隠して顎の先からドロッと伸びている。

『ひいぃっ。だ、誰だお前はっ』

 腰を抜かした享也にゆっくりと歩み寄ると、桜子はにっこりと笑って享也の頬を撫でる。

『酷いわね。誰かいないのかって、あなたが呼んだのに』

『ストップッ』

 松田先生が手を打ちならし、かがみこんでいた中原美保が立ち上がる。床に叩きつけられるボールの音に、夢から覚めたような錯覚を覚えながら、葉月は中原美保の指先の感触が残る左の頬を無意識に手の甲で拭った。

『中原、もう少し不気味な感じが欲しいな』

 筒のように丸めた台本で手のひらを叩きながら、松田先生は中原美保に演技指導を始める。

『この時点で観客を劇中にグッと引き込むんだからな』

 はい、と頷くと中原美保の黒髪がさらりと揺れて、シャンプーの香りが葉月の鼻先をくすぐった。発表会まであと10日。衣装も舞台の装飾もあらかた整って、稽古にも熱が入る。もう一回、最初からっ。松田先生の怒鳴り声に弾かれた葉月が立ち上がると、袖にスタンバイしている小谷恵子がボタンを押して、重々しく緞帳がおり始めた。

 骨が浮き上がるほどに痩せた葉月を、松田先生は役作りだと勝手に解釈して、プロ根性だ、と賞賛した。享也のエキセントリックな性格には、すべての無駄をそぎおとしたような細さが、確かに似つかわしい。 松田先生のしあわせな思い違いを、葉月はいつのまにか正当な理由に置き換えて、それがまるで真実であるかのように自分に言い聞かせた。痩せなければ。発表会の日までに、少しでも多く、痩せた自分にならなければ。

『大丈夫?はづ?』

 スタンバイのため、舞台袖に戻ろうとしてふらついた葉月の腕を、樋田久美子がそっと支える。膝間付いた姿勢から立ち上がるとき、すっと血の気が引いたように目が眩んだのを見とがめられていた。

『貧血?』

『大丈夫。ちょっと躓いただけ』

 キリキリとしたものを押さえながら、葉月は樋田久美子の手を軽く払う。ここ最近、誰かから心配の声をかけられることが増えていて、それは葉月を妙に苛立たせた。

 ―心配するような顔したって、どうせ

 痩せすぎだと、顔色が悪いと、気遣われれば気遣われるほど、葉月の心は頑なになった。痩せてゆくことは賞賛されこそすれ、心配されるようなことではない。心配するようなふりして近寄ってくるのは、痩せることを阻もうとする邪魔者でしかない。心配されればされるほど、葉月は、元気であろうとし、そう振る舞った。


『はい、はづ。明美から』

 昼食を終えた中庭で、新発売のチョコレート菓子が葉月の前に廻ってくる。食後のデザートと称して、誰かが買ってきたお菓子を少しずつシェアするのがここ最近のスタイルになっていた。箱からのぞく、いかにも甘そうなチョコパイに、葉月は思わず眉をしかめる。こんな、砂糖の塊みたいなもん、よく食べられるな。呆れるような気分で明美に目を向ける。

『あたし、いいや。いらない』

『なんでさ。遠慮すんなって』

 明美は、葉月に向けて箱を押し出す。甘ったるいミルクと香料の匂いがぷんと鼻に突き、葉月の苛立ちを誘う。

『いいんだって』

 差し出された箱を押し戻しながら、葉月は口走る。

『あたし、デブになりたくないんだって』

 思いのほか、強く責めるような口調になったことに気付き、葉月は口をつぐんだ。あっけにとられたように口を開ける明美の隣で、恭子と麻季が互いに目配せをする。

『太んないよ~、それくらいで』

 鼻白んだような空気を取りなすように、紀子が間延びした口調で間に入る。

『でも、はづが食べないなら、あたしもう一個貰っちゃおっかな』

 言いながら甘い塊をつかみとる。紀子の指は、ふくふくとして、まるでマシュマロのようだ。柔らかくて、丸くて、そして醜い。


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