誰よりも細く
初夏を迎える頃、葉月の体重は45㎏を少し下回るようになっていた。食事のカロリーを減らすと最初のうちこそ体重は減るのだけれど、やがて身体が慣れるのか、頭打ちになるときが来る。体重が停滞し始めると、その都度、葉月は摂取するカロリーを減らしていった。朝食のトーストに塗っていたマーガリンも、サラダに和えるドレッシングも、口にするのを想像するだけでゾッとする。なにも塗らない食パンと、塩を振っただけの生野菜。朝食は食パン1枚分の160kcalまで。デザートに出されたリンゴやヨーグルトは口にするけれど、バナナやメロンには手をつけない。お弁当箱には、日菜の茶碗に半分のご飯と、味をつけていない蒸し野菜。間食なんて、もちろんしない。大好物だった洋菓子は、甘い匂いを嗅ぐだけで吐き気がするようになった。
『痩せ体質になったんだと思うんだ』
痩せすぎだ、と指摘する声に弁解がましく答えるとき、葉月の胸は誇らしさでいっぱいになる。わたしは、自分を完璧に管理しているんだから。お肉にしかならないような無駄なもの、食べたりなんかしない。指先をテラテラに光らせてスナック菓子を貪る紀子を、葉月は憐れむような気持ちで眺めた。
『はづはタッパあるんだから。普通の標準体重なんか基準にならないよ』
葉月の弁当を見るたびにこんこんと説教をする七奈美も、やつれたんじゃない?と気遣うような面持ちで覗き込む栞奈も、本当は羨んでいるはず。ときどきチョコレートなんかを勧めてくる麻季は、きっとわたしのほうが自分よりも痩せるのを阻止しようとしているんだ。まだまだ。こんなんじゃ足りない。誰よりも痩せて、綺麗にならなきゃ意味がないよ。周りから痩せた痩せたと言われれば言われるほど、葉月は更なる目標を打ち立て、実直にその目標に取り込んだ。
『はづ、あんたさ。ちょっとやりすぎだよ』
体育の授業の前、更衣室で着替える葉月の身体に目を止めて、七奈美が言う。
『見なよ。肋骨が浮いちゃってるじゃん』
七奈美が指を指した先には大きな姿見があって、並んで立つ葉月と七奈美を映し出している。骨に皮が張り付いたような葉月の身体と、しなやかな筋肉に包まれた七奈美の身体。比べたら一目瞭然。葉月のほうが遥かに細い。葉月にとって、肉体は質より量だった。葉月は、勝ち誇ったような気分で七奈美を横目で見た。
『痩せたでしょ、わたし』
『痩せたってレベルじゃないよ、はづ……』
途方にくれたように七奈美が呟く。そんなに痩せたら、身体に良くないって……。けれど、葉月の耳に届く七奈美の声は歪められていて、葉月はキッと七奈美を睨み付けた。
『邪魔しないでほしいんだよね』
『……邪魔?』
『分かってるんだよ。七奈美は、わたしが痩せるの、イヤなんでしょ?』
『イヤって言うかさ……』
心配なんだよ、という七奈美の言葉を、葉月は鼻先であしらう。
『ご心配して頂かなくても、大丈夫だから』
呆気にとられたようにぽかんと口を半開きにした七奈美は、分かった、と頬をひきつらせた。
『もう、言わない。勝手にしたら良いよ』
プイッと背中を向けた七奈美は、それから葉月に話しかけて来ることはなくなった。けれど葉月はそれを、七奈美のやきもちだと思いこそすれ、心配する気持ちを踏みにじられた七奈美の心中を察することもできずにいた。痩せていることこそが何よりも優れた世界の中で、葉月が削りおとしているもの。それは身に付いた肉なんかよりももっと重くて、なくしたら簡単には戻らないもの、なのかもしれないのだった。