彼方此方立たず
『おかあさん、いる?』 送迎バスのパンダ号から降りると、葉月は決まって祖母 に問いかけた。 その頃の日菜は、発達支援教室に通い始めていて、だい たいいつも、葉月の幼稚園が終わる時間にはまだ、母親 は日菜の発達支援教室から戻っていなかった。たまに帰 宅していても、教室で学んだことを熱心に復習していて 、家から数10mのところにあるバスの停留所まで葉月を 迎えに出る余裕はないようだった。 だから停留所に待っているのはいつも祖母で、同じ停留 所で降りるケンちゃんやチカちゃんがママに抱きつくの を見ながら、葉月は祖母に問いかけるのだった。 『今日は、おかあさん、いる?』
いないよ、と言われれば、そのまま祖母と手をつなぎ、 祖母が歌う童謡を一緒に口ずさみながら畑の間をのんび り歩く。祖母の知っている童謡はとても数が少なくて、 春にはいつも『春の小川は~』だったし、夏になれば『 海は広いな大きいな~』だった。葉月が幼稚園で習った ばかりの歌を口ずさむと、祖母は『葉月ちゃんは、いろ んなお歌を知ってるんだねぇ』と目を細めた。 祖母との帰り道はそれなりに楽しかったのだ、と葉月は 思う。あれは、お世辞にも子供好きとは言えなかった祖 母が、必死に葉月を愛してくれた時間だったのだと。皮 肉にも、そう気付けたのはその祖母が帰らぬ人となって からのことだったのだが。
父方の祖母は、2年前、全身に転移した癌のために命を おとした。90歳。病のためとも天寿とも言えそうな幕 引きだったと、葉月は思う。ただ、葬儀のときには途方 もなく涙が溢れた。
それは、失った悲しみよりも深い、取り返しようのない 後悔から流れる涙だった。
わたしだって、幼稚園バスの送迎があったこの頃までは 、きっと愛くるしい孫だったはずなのだ、と葉月は省みる。
そう、この頃までは。
今日は母親が家にいる、と聞くとバスの停留所から一目 散に駆け出す葉月だったが、 そのままの勢いで母親の 膝に飛び込むことはできなかった。そこが日菜の場所だ ったから、ではない。葉月は母親に微妙な脅威を感じていたのだった。
葉月が幼稚園に上がったあたりから、なにが気にくわないのか、母親は家のなかで苛立った態度を見せることが 多くなっていた。
大好きなはずの母親が浮かべる険しい目付きや、荒々しく物に当たるようすは、幼い葉月を戸惑わせ、震え上がらせた。 なにが母親を憤らせたのかも分からず、葉月はただただ、母親の機嫌が直ることを祈るしかなかった 。気付けば葉月は、母親の顔色を極度に気にかけるようになっていた。
洗濯物を畳む、あるいは掃除機をかける、でもだいたい のときは日菜にまつわるなにかをしている母親の、眉間 のあたりを窺いながら葉月は声をかける。
『おかあさん?』
おかえり、と朗らかな声が迎えてくれる日は、大丈夫。 安心して、幼稚園でのできごとをお話しできる。 同じおかえりでも、かさかさした乾いた声色のときはだ め。葉月は早々に膝を抱えてヒーローたちが待つ世界へ遊ぶ。 文字にしたら同じ4文字だというのに。まるで同じ口から出ることばとは思えないようだ。
いつだって優しい方のおかあさんがいてくれたら良いの に。
葉月はこうして、母親の機嫌を取ることを覚えた。
わずか4,5歳の子供にとって、母親の喜怒哀楽をコント ロールすることが、どれほど難しいことか。あからさま にゴマをすって火に油を注ぐことになったり、無邪気す ぎる子供を装って鼻で笑われたり、失敗を重ねながら、 葉月は母親の喜ぶことと嫌がることを着実に学習してい った。
そうして見つけた、母親にとって最大のタブー。それは 、常日頃から葉月の世話をしてくれる、葉月の祖母だっ た。
例えば、幼稚園バスからの帰り道。例えば、母親がいな い土曜日のお昼ごはん。葉月が祖母に懐けば懐くほど、 それを知った母親は、葉月に冷たく当たった。
……おばあちゃんと仲良くしたら、おかあさんは怒るん だ……
祖母を愛してはいけないのだと悟った。祖母なしではパ ンダ号から降りることもできないのに。愉しかった都電 の景色も、ペコちゃんのチョコレートも、あれはだめな こと。
日菜の世話で手一杯の母親に代わって、葉月に寄り添ってくれた祖母。葉月に寂しい思いをさせじと、若い母親たちに混じって参観日にまで足を運んでくれた、祖母。
でも、葉月には母親の愛情が必要だった。
次第に葉月は祖母に甘えることを止め、かわりにぞんざいな態度をとるようになった。そうすることで、心なしか母親との距離が縮まったような気がした。
祖母は祖母でそんな葉月を、それまでと打って変わって憎まれっ子のように扱った。
祖母といがみ合うことで葉月が居場所を見出だした頃、母親のお腹に命が宿った。
葉月が8歳になろうとする、初夏のことだった。