母の夢、娘の夢
『ちょっと、誰かお湯持ってきて。水飴固まっちゃう』
『あれ、風船膨らますやつどこいった?』
『つり銭の小銭って用意できてる?』
朝のホームルームを終えると、クラスのあちこちで声が飛び交い始めた。葉月たち1年生にとって初めての文化祭だ。規制ばかりだった中学校のそれとはまるで違って、文化的であろうとなかろうと祭りは祭りだった。
『はづ、店番何時からだっけ』
『3時。チョコバナナ、混みそうな時間じゃね?』
『だね~。じゃあ、午前中に企画見に行こっか』
『うん。』
実行委員会が配布したプログラムを手に、葉月は七奈美と麻季を伴って教室を後にする。
『恭子は?』
『都築先輩と』
『あ、そっか』
頷く葉月を、麻季が突つく。
『あれ、はづは?良いの?田渕先輩』
『うちは、そういう感じじゃないから』
『や~ん。うちは、だってぇ』
七奈美の腕にしがみつき、まるで告げ口するみたいに葉月を指し示す麻季に苦笑いを浮かべながら、七奈美はプログラムを広げた。
『どうする?まずどこ行く?』
『あたしね、これ見たいんだ』
麻季が、体育館のタイムテーブルを指差す。
『チアリーディング?』
『なにげに全国大会とか出てるらしいよ』
『まじで?』
『行こ行こ』
七奈美の肩に手を回し、葉月は体育館の方向を指さした。麻季と七奈美と、3人でもつれるように歩き出しながら、葉月はポケットにしまいかけたプログラムをもう一度広げる。チアリーディング、吹奏楽、パントマイム、軽音楽。そこに演劇部の文字がないのは、やっぱり残念だった。
『どした?』
七奈美に覗き込まれ、葉月はプログラムをパタンと折り畳む。
『なんでもなか。行こっ』
全国大会への出場経験があるとだけあって、チアリーディング部のパフォーマンスは学外からの客も多く集めていた。チアリーディング部がはけ、吹奏楽部の演奏が始まると半分以上の観客が席を立って、並べられたパイプ椅子ばかりが目につく。葉月たち3人は後方の席に腰かけたまま、吹奏楽部の奏でるコパ・カバーナを聞くともなしに聞きながらプログラムを広げた。
『そういえば、麻季の絵って展示されてるんじゃなかったっけ』
3階の美術室を指先で押さえて、七奈美が麻季を覗き込む。
『うん。入部したのが遅かったから、ちゃんと仕上げたの1枚だけなんだけどね』
『油絵?』
『そ。初めて油絵具で描いた』
『なに描いたの?』
『取りあえず、静物画にした』
楽しげに話す麻季が最初に入部したのは、実は美術部ではなかった。子どもの頃からピアノを習っていて、小中とブラスバンドをやってきた麻季は、迷いなく吹奏楽部を選んだのだった。けれど。
『あんときは、もう2度とトランペットなんか吹くもんかって思ったけど』
麻季は、ステージに並ぶかつての仲間たちに目を向ける。
『ここからこうやって見てると、音楽は音楽で好きだったんだよなって思うわ』
『一緒に演奏したくなった?』
七奈美の問いかけに、麻季は微笑を返す。
『ううん』
ただ、あのときはすっごく意地張ったなって思って。首を横に振った麻季は、外国人がするように肩を上げて見せた。
『ママとも、いっぱい喧嘩しちゃったしね』
自宅でバイオリンを教えているという麻季の母親は、 麻季にも音楽の道を進ませたがったのらしく、吹奏楽を辞めて美術部に入ると麻季が言い出したときには大反対の一点張りだったのだ。 麻季が泣きはらした目で登校してくることもあるほどの転部騒動は、『絵が描けないなら楽器も弾かない』と号泣しながらトランペットを床に叩きつけようとした麻季に母親が根負けする形で終息を迎えたらしい。あれはちょっとやりすぎた、そう言って笑う麻季に、葉月は返すことばが見つからなかった。そんなこと、家でしてみようものなら……。葉月にはそれを想像することすら、できない。
『あれ。で、結局のとこ和解はできたの』
『したよ。したした』
屈託のない笑顔を満面に浮かべて、麻季は頷く。
『今回のこれも、ママ、見にきてくれるんだ』
麻季の指先が、美術部の展示タイトルを撫でる。
『あたしね、音楽のことで上手く行かないことがあると、全部周りのせいにしてた。先生の教えかたとか、同じパートを吹く仲間とか。DNAレベルで才能がないんだって、両親のせいにもした。でも、そういうことじゃないんだよね』
結局、あたしにとっての音楽って、ママのためにやっていることだったんだ。だから、与えられてあたりまえ。できるようにしてもらうのが当然って思ってた。でも、じゃあ音楽の道で成功できたら満足するかって考えたら、たぶんしないんだよね。
『でね。あたし音楽の道に進むなんてこと、止めにしようって決めたんだ』
だってそれってあたしの望む未来じゃないし、何よりホンキで音楽やってる人たちに対して物凄く失礼だって気がするんだよね。
『だから、高校卒業したら美術系の学校に行こうと思ってて』
あたしは、あたしのために頑張ろうって。上手くいっても行かなくても、ちゃんと自分の責任で夢を追いかけようって決めたの。
清々しい風が吹き抜けるように、カノンのメロディーが体育館の空気を揺らす。隣に座る麻季が、にわかに遠くへ行ってしまうような気がして、葉月はぎゅっと麻季の袖を握りしめた。




