異教徒
あら、そうなの。葉月が合宿のことを伝えると、母親は拍子抜けするほどあっさりと答えた。でもそれは厳しさの緩和というより、無関心の始まりというのに似つかわしいような反応だった。ねぇ、聞いてる?葉月が話す横から割り込んでおしゃべりを始めた凌に満面の笑顔を返す母親に、葉月は何度か言いかけて、そのままことばを飲み込んだ。葉月のことばが母親の気持ちにまで届かないことは、聞くまでもない。高校に進学した葉月は、母親を中心とする親子の輪から弾き出されていた。 葉月を大人と扱うことにしたから、ではない。いくつになっても自分の手を焼かせる日菜と、ギフトを運んでくる凌。2人にまつわる日常のあれこれは母親を夢中にさせるのに充分だった。ギフトを運んでくる子ども。3人姉弟の末っ子で、やっと生まれてきた長男でもある凌は、その存在こそがまさにギフトなのかもしれなかった。
小学生になった凌は、放課後を学童保育で過ごすことになっていた。
『お祖母ちゃんしかいない家に、凌くんを置いておくなんてできないでしょ』
学童ってなに?と聞く葉月に、母親は苛立ったようすでそう告げた。いちいちそういうこと、聞かないで。分かるでしょ。
『……はい』
葉月は素直に頷き口をつぐむ。口にしてはいけないこと、触れてはいけないこと。葉月の身の回りにはたくさんのルールがある。そして、母親の決めるルールはひどく難解で、変わりやすい。
『今日ね、こひつじ会でね』
葉月の話を遮った凌は、学童保育でのできごとを次から次へと話し続ける。宙ぶらりんになった葉月の話は、蜘蛛の糸に釣られたような頼りなさで食卓をさまよう。母親は満面の笑みで凌の話に聞き入っている。凌が通う学童保育は、母親を夢中にさせるもののひとつだ。
こひつじ会と名付けられたその学童保育はキリスト教の教会の中にあって、運営しているのもそこの牧師夫妻だった。こひつじ会に通う児童たちの信仰は問われないものの、教会ならではの慣わしやそこに集う大人たちの振るまいによって、幼いこころに信仰が根付くのは不思議なことではない。信仰のもと教会に通う青少年の中にもこひつじ会の卒業生は少なくなく、彼らはごく自然に、平日の学童保育の運営を手伝いに訪れるようだった。
『今日は、秀平おにいちゃんが来たんだよ』
『あら、良かったわねぇ。たくさん遊んでもらった?』
『うん。逆上がり教えてもらったんだ』
『ほんとう。秀平おにいちゃん、運動神経良さそうだものね』
母親と凌が話す秀平おにいちゃんを、葉月は知らない。それでも何度か耳にしたふたりの会話から、どうやら彼が葉月と同い年らしいことはかろうじて想像がついた。そして凌が、何人かいるおにいちゃんの中でもいたく彼にご執心であることも。
『今度は連続逆上がり教えてもらうんだ』
『あら、良いわねぇ』
目を細める母親の腕をつかみ、日菜が鼻の奥で唸り始める。これは癇癪が爆発する前兆で、日菜の皿に盛られたサラダはあらかた空になるところだった。葉月ちゃん、これ下げちゃって。母親の手で重ねられた空き皿が葉月の前に押し出される。食べかけの煮物の小鉢を片手に、葉月は空き皿を流し台へ運んだ。日菜の金切り声が食卓を切り裂く。そのままキッチンの片隅で、葉月は小鉢に残ったかぼちゃを頬張る。今日のいとこ煮は、上出来。口の中に拡がるかぼちゃの甘さに、喉の奥がきゅうっと痛んだ。
『今度の日曜学校で、新しい歌、歌うんだよ』
♪主イエスのひつじ、従うわれら、飼い主覚え、よりたのも~
食卓から聞こえる凌の歌声に、母親の声が重なる。凌はこひつじ会の聖歌隊として、毎週末の日曜学校で歌を披露していた。最近では母親も、日菜を伴い欠かさず日曜学校に出席している。信仰も、凌が運んできたギフトだ。
『こうやって、日菜ちゃんの居場所を増やしていってあげないといけないのよ』
初めての礼拝に参加した日、いたく感激したようすで帰宅した母親は、洗礼を受けると言い出して父親を驚かせた。
『だって、家には仏壇があるじゃないか』
『仏壇があるのに、神棚もあるような家じゃない』
お墓の前で唱えるお経の問題でしょ、と嘲笑いするように言ってのけた母親は、翌週には、凌と日菜との3人で洗礼を受けてきたとあっさり報告したのだった。
『凌と日菜って、葉月は?』
こめかみを痙攣させながら抑えた声で聞く父親に、母親は思慮深げな答えを返した。
『葉月ちゃんはもう、自分で選択できる年齢だから』
強制することはできないでしょ、という母親の言葉はとてももっともらしく葉月を親子の輪から弾き出した。母親がつくる親子の輪に、信仰というルールが追加されたのだと、葉月は悟った。イエスさまの教えも、教会の行事も。食卓で語られる会話のひとつひとつが葉月には無縁であり、母親を夢中にさせていた。
『……お母さん。合宿なんだけど』
居間のテレビがアニメを映し出し、凌が笑い声を上げる。食器を洗い始めた母親は、葉月の問いかけに鬱陶しそうな視線を向けた。
『まだその話?』
行きたいんでしょ?行けばいいじゃない。洗剤を絞ったスポンジをブシュブシュ握り泡立てる。
『……はい』
決して面白くはないのだろう。でも、許可だけは取った。葉月は内心でほおっと大きなため息をつく。
これで1週間、食卓から解放される。
家族の食卓は、いつしか葉月にとって最大の苦痛になっていたのだった。




