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My Sweet Home  作者:
23/52

初潮

『あっついっ』

 焼けた白い砂の上で、葉月は跳び跳ねる。朝、6時をちょっと過ぎたくらいに家を出て、民宿に着いたのは午後の2時を回る頃だった。朝から洋服の下に着ていた水着は、じっとり汗ばんでいる。

『パラソル立てられるかしら』

『良いだろ、今日は。海の家で』

 クーラーバックを担いだ父親と、車椅子を押す母親の会話が、どんどん後ろに遠のく。波打ち際まで駆け寄ると、葉月は寄せてくる潮風を胸一杯に吸い込んだ。

 ――― 広い

 吸っても吸いきれない、甘い潮風。白いしぶきをたてながら次々と寄せる、小山のようなうねり。 押さえても押さえても、笑いが込み上げる。何て自由なんだろう。笑い声を上げながら、葉月はザブザブと水をかき、海に分け入った。波に押し戻され、足を取られ渦に巻かれながら沖へ向かう。波打ち際は人で溢れかえっていたけれど、ブイがすぐそこに見えるあたりは静かなものだ。葉月は海面に顔だけ出して、プカプカと漂った。爪先に触れる水はひんやりとして、どんなに探っても足は海底に届かない。

 どのくらいの深さなんだろう。無心に足を伸ばしその深さを探ろうとした葉月は、不意にどうでも良くなり、全身の力を抜いた。軽くなった葉月を、とろりとした海水が抱き上げ、葉月は仰向けに浮かぶ。照りつける日差しの中で、綿菓子みたいな雲がつつっと左に大きく流れた。

 ―――流されてるんだな

 移動しているのが雲ではなくて自分だということを、葉月は知っていた。毎年通うこの海で、沖に流された人を連れ戻すライフセイバーの姿を何度か目にしたことがある。わたしも、連れ戻されてしまうんだろうか。首だけを上げて、浜の方を伺う。家族がいるであろう海の家は、葉月のいるところから随分遠くに離れたけれど、こちらに向かうライフセイバーの姿はないようだ。安心した葉月は、また脱力して海水に身を任せた。大きなものに包まれる心地よさ。このまま流されたら、どこか遠い国に行き着くかな。そうしたら、新しい自分を生き直せるだろうか。空を見上げながら、葉月は異国で生きる自分を思い描いた。浜辺の小さな町で、気性は荒いけど根は優しい漁師たちと暮らしたりするんだろうか。でもきっと、その前にサメに食べられちゃうよね。以前、どこかで目にした映画の予告編を思い出す。あの牙で噛まれたら、それはそれは痛そうだ。痛いのは、ちょっと嫌だな。ただ浮いているのに疲れてきた葉月は、水を蹴って身体を起こしかける。次の瞬間、葉月の身体は空中に放り上げられた。そのまま、ザブンと着水して視界が海色に染まる。その端に、父親の海水パンツの模様が映り込んだ。

『危ないよぉ。こんなとこまで流されて』

 海面に顔を上げた葉月に、父親が言う。ここ、父さんだって足が届かないぞ。

『大丈夫だもん』

『何が大丈夫だよ』

 ちょっと休憩しなさい、と父親は、浜の方に葉月を押しやる。

『流されたって大丈夫』

 父親に従って、素直に水を掻きながら葉月は頬をふくらませる。流れ着いたとこで暮らすんだもん。 葉月の言葉に、父親はプッと吹き出した。

『その前にサメに食べられちゃうよ』

 葉月はお肉いっぱいついてるから、すぐ狙われちゃうなぁ。そう言ってにやっと笑う。

『うるさいなぁ、もう』

 葉月は力一杯水を掻いて、並んで泳ぐ父親を追い抜かした。そのままぐんぐんと速度を上げる。

『お、じゃあ競争だ』

 出遅れた父親が、大きく水を蹴って葉月を抜き返した。うねりと引き波に阻まれて、なかなか前に進まない葉月を見る間に引き離す。息を切らせた葉月がようやく波打ち際にたどり着くと、父親は乾いた砂に腰をおろし、悠々とタバコを吸っていた。

『疲れたろ、ずっと水に浸かってたから』

『うん。いま、何時?』

『3時半くらいじゃないか?』

『え、もうそんな?』

 葉月は驚く。あっという間に1時間が過ぎていた。水に浮いていた身体で砂地を歩いていると、急速に眠気が襲ってきた。心地のよい疲労感。眠い、と呟く葉月の頭をぽんぽんと叩きながら、父親が言う。

『全然、戻ってこないからどうしたかと思ったよ』

『ごめんなさい』

 わたしが潮に流されて、どこか遠い国で漁師たちと暮らすことになったら、お父さんは悲しむに違いない。葉月は砂に食い込む爪先を見ながら、少しだけ泣きたいような気分になった。

『葉月』

 父親の大きな手のひらが、葉月の頭をぐしゃっとわしづかみする。

『遊びに来てるんだから。そんな顔、しなくて良いんだぞ』

 いつも、良くやってくれてるよ、葉月は。ぐりぐりと乱暴に葉月の頭をかき混ぜながら、父親は言う。父さんも母さんも、いろんなことを我慢させて葉月にはすまないと思ってるんだ。だから、旅行のときくらい、楽しめよ。

『……お父さん』

 ほんとうに、そう?葉月は胸の内で問いかける。わたしが我慢してるって、お母さんも思ってる?でも、そこに対する答えは、死ぬまで聞きたくないような気がした。

『お母さんたちは?』

 ようやく見上げた父親の横顔は、真夏の陽射しに邪魔をされて影のように黒い。

『日菜に水着を着せるって言ってたからなあ』

 新しいタバコに火をつけながら、父親は言う。

『水遊びでもしてんじゃないかな』

 何か温かいものでも食うか?海の家の軒先で父親は財布を出す。好きなもん、食えよ?

『ラーメン食べたい』

 油の膜が浮く味の濃いラーメンを啜ると、身体の奥から温もりが広がる。気だるい疲れと温もり。白い、使い捨ての紙皿から汁を飲み干すと、葉月は組んだ腕の中に顔を埋める。火照った身体からは、日向臭い、しあわせな香りがする。目をつぶると、青い海。乱反射する、陽の光。想像の波を漂いながら、葉月はうとうとと微睡んでいたようだった。

『……づきちゃん。葉月ちゃん』

 揺れる波の間から呼び掛けられ、強く肩を揺すられて葉月は目を覚ました。

『そろそろ、シャワー浴びて帰りましょ』

 日菜を抱いた母親が、葉月の肩を軽く叩く。

『きっと、晩御飯の用意、できてるわよ』

『……うん』

 夢から覚めたばかりの身体を持上げて、立ち上がる。陽にあたりすぎたせいか、やたらと身体が重い。水の出が悪いシャワーでざっと砂を流し、タオルを羽織る。民宿に戻れば温かい風呂が沸いているはずだ。履き直したビーチサンダルをペタペタ引きずりながら戻ると、母親がポットから注いだ麦茶を差し出した。

『よく遊んだわね。疲れたでしょ』

 冷たい麦茶を一気に飲み干すと、空になったコップを軽く振って水気を払う。葉月が手渡したそれをバスケットにしまって、母親は腰をあげた。

『さ、帰りましょ』

 バスケットを肩にかけ、凌を抱き上げる。

『凌くんも、宿で美味しいお刺身食べようねぇ』

 歩き出した母親に続いて、葉ぬ月は日菜の車椅子を押す。砂地はタイヤをのみ込むから、車椅子はなかなか前に進まない。遠のく背中を追って、葉月は黙々と砂を蹴った。途切れとぎれに聞こえる凌の笑い声。甲高い日菜の声に集まる、通りすがりの視線。シャワーを浴びたばかりの身体を、汗が流れ落ちる。

『……待ってよ』

 体重をかけてハンドルを押し出しながら、葉月は地面に向かって呟いた。ちょっと、待ってよ。葉月が焦るほど、タイヤは砂に埋もれて行く。額から滴る汗が、日菜の黒髪に落ちて光った。

『ちょっと……、あなた』

 羽織ったタオル越しに肩を揺られて顔を上げると、怪訝そうに覗き込む白髪の女のひとが葉月の目を掬い上げる。あなた、大丈夫?ご両親は?

『大丈夫です。あっちにいるから……』

 指を指した先には、小さくなった母親の背中が見える。赤地に黒い絵柄の入った水着。その、ぷるんと弾む臀部から、葉月は目を逸らした。

『でも、あなた、それ……』

 婦人の目は一点を凝視する。その視線の先を辿り、葉月は自らの内股に目をやる。そこには、水着から落ちる水滴や迸る汗に混じり、赤々としたものが筋を作っていた。

『……お母さん』

 声にならない声で叫びながら、葉月は踞る。濡れた下肢にまとわりつく、白く乾いた砂。まだ暮れない夏の陽の下で、葉月は震えながら乞う。

 ―――お母さん、置いていかないで。


 女性の身体に訪れる生理のことを、葉月も知識としては知っていた。けれど、早い子が小学校の高学年には初潮を迎えるなか、葉月には一向にその兆候がなかった。お腹が痛いと体育を見学したり、こそこそとナプキンの貸し借りをしたりするクラスメートを目にするたび、葉月は自分の身体には女性として何かが足りてないのではと不安にかられた。『こんなん、めんどくさいし。ないほうが良いよ』まだない、とこぼす葉月に麻里絵はそう言って笑った。

『葉月ちゃんの身体が大人になったっていうことだからね。怖がらなくて良いのよ』

 ナプキンの使い方を教えながら、母親は言う。赤ちゃんを産むための準備だからね、と。風呂場で洗い流した身体を乾いたバスタオルで拭うと、葉月はナプキンを当てた下着に足を通す。

『最初はちょっと変な感じがするかもしれないけど、すぐに慣れるわよ』

『……うん』

 股の間がもこもこして落ち着かない。ショートパンツを履いた上から、葉月は何度かナプキンの当たっている辺りを引っ張った。

『明日は、海には入れないわね』

 湯上がりの日菜に服を着せながら独り言のように母親が呟くと、葉月の気持ちはしゅんと萎んだ。

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