3歳の背中
葉月は、会社員の父親と専業主婦の母親の間に、第一子 として生まれた。当時、父親が30歳、母親は27歳。東京の下町にアパートを借りて暮らしていた。風呂なしのアパートで銭湯に通っていたとは、後に聞いて知った話だ。葉月にはこの頃の記憶が残っていない。それは、そうだ。ここには、1歳半を迎えるまでしか暮らしていなかったのだから。 葉月の最初の記憶は、その後移り住んだ戸建住宅、葉月が23歳までを過ごした実家の、台所だ。乾物やら砂糖やらを入れておく床下収納に、母方の祖母が片足を踏み 落とした、そのときの光景。前後のことはまるで覚えて いないのに、午後3時くらいの床の色と、さいわい祖母に怪我がなかった、という不思議な断片を覚えている。 母親が不在なのは、妹の出産で入院していたからだろうか。 葉月は2年11ヵ月で、姉になった。生まれた妹の名前は 、日菜。ひな祭りに生まれた女の子だった。 日菜と始めて会ったときのことを、葉月はまるで思い出せない。最初の記憶の次には、葉月はもう、『日菜ちゃんのお姉ちゃん』になっていたんだった。
日菜は、脳に障害を持って生まれてきた。母親の身体から出てくるときに、へその緒が首に巻きついてしまって いたのだそうだ。葉月はのちにそれを、母親から聞かされた。小学校の4年生になった頃だろうか。
そういうふうに生まれてくることもあるのか。
そのときの葉月はただ、そう現実を受けとめるに過ぎなかった。
空気が足りないと、脳はおしゃべりの仕方や歩いたり走ったりする方法を忘れてしまうのか、と。
どんな生まれかたをしていようと、どんな障がいを負っていようと、葉月にとって、日菜は日菜でしかなかった 。だって、最初の記憶の次には、当たり前に日菜がいたから。
ほかの子どもたちと同じようでない日菜に、母親は次第 にのめり込んでいった。それはまるで、日菜の母親である使命感のように。
彼女がどれほどの涙を隠していたか、葉月には図ることができない。葉月の目に映る母親はいつも意志に溢れていて、彼女こそが家族の支柱のように見えた。
そう、日菜がいて母親がいて、やっと他の家族が見えて くる。どんなときでも、葉月や葉月の父親が家族の真ん中に立つことはないのだった。
日菜が生まれたのと重なるように、葉月の家には父方の祖母が同居することになった。ただ、これも葉月にしてみれば『気付いたときには、もうそこにいた』ので、祖 母との同居のいきさつを知ったのは、もっと年端がいってからのことだ。
3歳の葉月には、祖母はただひたすらに『おばあちゃん 』でしかなかった。祖母は、葉月をいろんなところに連れて出た。それは、路面電車に揺られながら向かう眼医者さんだったり、水で清めると自分の身体の同じところを治してくれるお地蔵さんだったり、つまり祖母の用事に付き合わされているだけだったのだが。その、行きか帰りかに不二家に寄ってペコちゃんランチを食べるのが、 葉月の楽しみだった。
もちろん、毎日どこかに出かける訳もなく、祖母に用事のない日は家にいて、夕方になると豆菓子をつまみながら水戸黄門を観るのが日課だった。
あのとき、母親はどこにいたのだろう。生まれてまもな い日菜を連れ、連日出歩けるはずもなく、だから家にい たはずなのだけれど。
このころ、家のなかにいる母親の姿を、葉月はどうして も思い出せないでいる。
もしかしたら鮮明な印象の影に、ごく普通の母子姉妹の 時間があったんだろうか。いや、あったはずなのだ。
螺旋を描く滑り台。さらさらと枝を揺らす柳の木。母親 同士が仲良くて、一緒に遊ぶことが多かった近所の男の 子。
記憶の中のその景色には、ベビーカーに乗った日菜もい て、だからそういう日常もたしかにあったはずなのだ。
公園の周囲にはぐるりと植え込みがあって、たくさんの 小さくて白い花を付けた木の回りには大小の蜂が集まって羽音を轟かせていた。
滑り台の頂上からはジャングルジム越しに、砂場から眺めればベンチの横に、母親と日菜の姿があった。
遊ぶのに夢中のような顔をして、どこからでも母親を探していた、3歳の葉月。
何かあれば置いていかれる側の子供であることを、うっすらと感じはじめていたのかもしれない。