第八章 距離、置きませんか
すれ違いは、音を立てない。
喧嘩は分かりやすい。
怒鳴り声がある。
言い合いがある。
破裂音がある。
でもすれ違いは違う。
沈黙だ。
返信が少し遅くなる。
目を合わせる時間が短くなる。
触れなくなる。
そしてそれは、
誰も悪くない顔をしてやってくる。
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澄からの返信が遅れ始めたのは、僕が帽子を常備し始めてから二週間後だった。
最初は気のせいだと思った。
就活で忙しい。
ゼミもある。
アルバイトもある。
でも、人は敏感だ。
特に、失うかもしれないものに対しては。
既読から返信まで三時間。
以前は十分。
今は長い。
その三時間の間に、僕の不安は増毛する。
ハゲなのに、ここだけフサフサだ。
皮肉だ。
⸻
ある日、澄からメッセージが来た。
「少し話せますか」
この一文は、危険信号だ。
絵文字がない。
句読点が静か。
僕はすぐに返信する。
「大丈夫」
心臓がうるさい。
待ち合わせは、最初に告白された橋の近く。
あのときは曇りだった。
今日は晴れ。
直射日光。
最悪のコンディション。
僕は帽子を被る。
迷わない。
今日は戦いだ。
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橋の上。
澄が立っている。
風は弱い。
帽子は飛ばない。
皮肉だ。
僕は歩み寄る。
「ごめん、待った?」
「ううん」
声が穏やかすぎる。
怒っている方がまだ楽だ。
⸻
しばらく沈黙。
川の水音。
遠くの車。
そして澄が言う。
「真壁くん」
その呼び方が、少しだけ距離を含む。
「私たち」
心臓が止まりかける。
「少し、距離置きませんか」
来た。
静かに。
丁寧に。
刃物みたいに。
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僕はすぐには答えられない。
頭の中が真っ白になる。
白は慣れている。
でも今回は違う。
これは反射じゃない。
これは、喪失の予感だ。
「……俺が、被ってるから?」
最悪の質問だ。
でも止まらない。
澄は首を振る。
「帽子の問題じゃないです」
でも帽子も含まれている。
僕には分かる。
「真壁くんが、私を遠ざけてる感じがして」
その通りだ。
僕は一人で戦っているつもりだった。
でも実際は、
一人で落ち込んで、
一人で傷ついて、
一人で帽子を被って、
一人で完結しようとしていた。
「支えたいって言いましたよね」
言われた。
覚えている。
公園のベンチ。
「でも今、真壁くんは“見せない”を選んでる」
見せない。
ハゲを隠すことじゃない。
弱さを隠すこと。
失敗を隠すこと。
不採用メールを見せないこと。
悔しさを笑いに変えること。
全部、見せない。
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「俺、情けない」
言葉が漏れる。
帽子の下で、汗がにじむ。
「落ち続けて」
「自信なくて」
「強いふりして」
「でも本当は怖い」
澄は黙って聞く。
「でもさ」
僕は続ける。
「そんな状態で一緒にいたら、澄まで引きずり込む気がして」
本音だ。
僕は自分を“重い存在”だと思っている。
ハゲは軽いはずなのに、自己評価は重い。
澄は静かに言う。
「一緒に沈むなら、私はそれでもいいです」
その言葉が胸を打つ。
でも同時に、怖い。
誰かを巻き込むことが怖い。
「でも真壁くんは、一人で沈もうとしてる」
正論だ。
僕は反論できない。
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風が吹く。
帽子が少し揺れる。
僕は押さえる。
無意識。
澄がそれを見る。
「それ」
帽子を指す。
「外せって言ってるんじゃないです」
前置き。
「でも、それを押さえる仕草が、今の真壁くんみたい」
押さえる。
守る。
落ちないように。
見えないように。
「怖いの、分かります」
澄の声は震えていない。
「でも私まで外に出さないでほしい」
その一言で、僕の胸が裂ける。
僕は、澄を守っているつもりだった。
でも実際は、締め出していた。
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「少しだけ」
澄が言う。
「お互い、落ち着く時間がほしいです」
別れたい、とは言わない。
嫌いになった、とも言わない。
でも距離を置く。
それは優しい言い方の別れだ。
僕は分かっている。
距離は、近づくために置くこともある。
でもそのまま遠ざかることもある。
未来は不明。
だから怖い。
「……どれくらい」
情けない質問。
澄は少し考えて、
「真壁くんが、自分を責めすぎなくなるまで」
期限がない。
つまり、僕次第。
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沈黙。
川の水音がやけに大きい。
僕は帽子を取ろうとする。
でも止まる。
今取るのは、違う気がする。
今取ったら、
“失いそうだから慌てて外す人”になる。
それは誠実じゃない。
だから僕は、被ったまま言う。
「分かった」
声が掠れる。
「ありがとう」
それしか言えない。
澄は小さく笑う。
「こちらこそ」
そして、背を向ける。
歩き出す。
僕は追わない。
追えない。
帽子の中で、頭皮が冷える。
でも寒さよりも、
胸の中の空洞の方が冷たい。
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夜。
部屋。
帽子を投げる。
床を転がる。
ころころ。
軽い音。
僕は鏡を見る。
つるっぱげ。
変わらない。
でも今日は、
“恋人がいるハゲ”じゃない。
“距離を置かれたハゲ”だ。
言葉にすると残酷だ。
でも事実だ。
僕は壁にもたれかかる。
考える。
ハゲが原因か?
違う。
帽子が原因か?
違う。
本当の原因は、
自分を嫌いなまま、誰かに愛されようとしたことだ。
それは不公平だ。
自分を否定し続けながら、
相手の肯定だけを欲しがる。
それは、暴力に近い。
澄はそれを責めなかった。
ただ、距離を置いた。
それが優しさだ。
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ベッドに横になる。
天井を見上げる。
頭皮が枕に触れる。
冷たい。
孤独は、頭皮より冷たい。
毛は生えない。
でも後悔だけは増える。
不安だけは増毛する。
そして僕は、理解する。
距離を置かれたのは、罰じゃない。
猶予だ。
自分を嫌いなままの僕に与えられた、時間。
でもその時間をどう使うかは、
帽子じゃ決められない。
僕次第だ。




