第七章 帽子は、盾にも檻にもなる
帽子は軽い。
でも、被ると世界が遠くなる。
それが良いときもある。
でも、恋をしているときは――少し違う。
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就活の不採用が三十社を超えた頃、
僕はほぼ毎日帽子を被っていた。
面接会場では被らない。
それはルールだから。
でもそれ以外は、ほぼ常時装備。
駅まで。
コンビニ。
澄と会うときも。
最初は気づかなかった。
でも、澄は気づいていた。
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カフェ。
窓際。
以前なら僕は窓を避けて座った。
でも今日は窓側。
なぜなら帽子があるから。
物理的な防御があると、人は大胆になる。
澄は僕を見る。
「今日はずっと被ってますね」
言い方は柔らかい。
でも問いは鋭い。
「うん、最近風強いし」
嘘だ。
今日は無風。
彼女はそれを指摘しない。
その代わりに、コーヒーを一口飲んでから言う。
「取ってみませんか」
静か。
責めない。
でも、逃がさない。
僕の心臓が強く鳴る。
この問いは、物理の話じゃない。
帽子の話じゃない。
“今の僕”の話だ。
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「……無理」
即答だった。
自分でも驚くほど早かった。
澄の表情が、ほんの少しだけ変わる。
怒らない。
でも、悲しそうでもない。
ただ、静かに受け止める顔。
「どうしてですか」
問いは穏やか。
でも深い。
僕は言葉を探す。
本当の理由は、単純だ。
怖い。
落ち続けている今の自分を、丸裸で見せるのが怖い。
ハゲを見せるのが怖いんじゃない。
“負けている自分”を見せるのが怖い。
でもそれをそのまま言えない。
「今、余裕ない」
それが限界だった。
澄は黙る。
コーヒーの湯気が、ゆらりと揺れる。
「私の前でも?」
その一言で、胸が締め付けられる。
僕は気づく。
これは帽子の問題じゃない。
信頼の問題だ。
でも口が動かない。
「……ごめん」
謝罪。
謝ることしかできない。
澄は首を振る。
「謝らなくていいです」
でも、その声は少しだけ遠い。
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帰り道。
二人の間に、微妙な距離ができる。
物理的には数十センチ。
でも心理的には、もっと。
僕は帽子を押さえる。
それは癖でもあり、防御でもある。
澄は、僕の頭を見ない。
見ないというより、触れない。
以前は自然に触れていた。
雨の日の自転車。
橋の上。
曇り空。
あのときは、僕が丸腰でも怖くなかった。
今は僕が自分から檻に入っている。
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夜。
鏡。
帽子を取る。
つるっぱげ。
変わらない。
でも今日は、はっきり分かる。
僕は帽子で“頭”を守っているんじゃない。
自尊心を守っている。
面接で落ちる。
社会に弾かれる。
平均から外れる。
そのたびに、
「やっぱりな」と自分で自分に言う。
その声から逃げるために、帽子を被る。
帽子は盾だ。
でも盾は、同時に檻だ。
檻の中にいる限り、安全だ。
でも、誰も入ってこられない。
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数日後。
公園。
ベンチ。
澄が言う。
「真壁くん」
呼び方が少しだけ硬い。
「私、支えるためにいるわけじゃないです」
胸がざわつく。
「一緒に歩きたいんです」
真っ直ぐな言葉。
「でも今、真壁くんは一人で戦ってます」
その通りだ。
就活という戦場に、僕は一人で立っているつもりだった。
でも実際は、澄を遠ざけているだけだ。
「迷惑かけたくない」
本音が漏れる。
澄は言う。
「迷惑って、誰が決めたんですか」
僕は答えられない。
僕だ。
僕が勝手に決めた。
ハゲであることも。
落ち続けることも。
弱さも。
全部、僕が“迷惑”と定義した。
澄は続ける。
「帽子を取るかどうかは自由です」
「でも、心まで隠さないでほしい」
その言葉が、深く刺さる。
心まで隠している。
自覚はあった。
でも見ないふりをしていた。
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その日の別れ際。
澄は僕の帽子に手を伸ばしかけて、止めた。
触れない。
選ばない。
僕の選択を尊重する。
それが、逆に痛い。
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部屋に戻る。
帽子を机に置く。
見つめる。
布の塊。
軽い。
でも、重い。
恋をしたとき、僕は帽子を脱いだ。
就活で傷ついたとき、僕は帽子を被った。
つまり今の僕は、
社会よりも、自分を怖がっている。
毛は生えない。
でも、恐怖だけは増える。
増毛するのは不安ばかりだ。
そして僕は、分かっている。
このままだと、澄との距離も増える。
物理じゃない。
心の距離。
帽子は、盾にもなる。
でも檻にもなる。
僕は今、檻の中にいる。




