第五章 告白は、恐怖の別名だ
恋はしない。
そう決めていたのに、恋は勝手に始まる。
髪は生えない。
でも感情は、なぜか増える。
増える場所を間違えている。
毛根じゃなくて胸の奥に、増えていく。
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雨上がりの日以降、僕は少しだけ変わった。
帽子を“絶対装備”から“状況装備”に落とした。
雨の日や曇りの日、光が柔らかい日は、被らない時間が増えた。
完全に勇気が出たわけじゃない。
ただ、理由ができたからだ。
「被らなくても、嫌われないかもしれない」
その可能性は、育毛剤より効いた。
……効く場所を間違えているが。
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月島澄は、相変わらず月島澄だった。
特別に優しくするでもない。
特別に気を遣うでもない。
僕の頭を“見ない”のではなく、“普通に見る”。
これが難しい。
世の中には二種類の視線がある。
刺す視線と、通る視線。
刺す視線は痛い。
通る視線は、空気みたいだ。
月島澄の視線は、通る。
僕の頭皮は、世界で一番無防備なのに、
彼女の前では無防備でいられた。
⸻
放課後、図書室。
いつもの棚の間。
彼女は本を読み、僕はページをめくるふりをしながら、実際には彼女の横顔を見ていた。
髪が揺れる。
まぶしい。
物理的に、まぶしい。
髪って、光を吸って柔らかく見える。
僕の頭は逆だ。
光を跳ね返して、世界に報告する。
「ここにいます」と。
それが、嫌だった。
でも最近、嫌さの質が変わった。
“見られるのが嫌”ではなく、
“彼女にどう見られているかが怖い”。
恋の症状だ。
⸻
ある日、彼女が言った。
「真壁くん、最近帽子被らない日、増えましたね」
心臓が跳ねる。
帽子の話題は、地雷だ。
被ってるか被ってないかで、僕のメンタルが測定される気がする。
「……曇りだし」
苦しい言い訳。
彼女は頷く。
「曇り、好きなんですか?」
「好き。世界が優しいから」
本音が出た。
言った瞬間、少し恥ずかしい。
でも彼女は笑わない。
「優しい日を選べるの、いいですね」
その言葉が、妙に嬉しかった。
選べる。
僕はずっと、選べない側の人間だと思っていた。
髪は選べない。
頭皮の光沢も選べない。
人の第一印象も選べない。
でも、日を選ぶくらいはできる。
そんな小さな自由が、
僕の中の“生きやすさ”を少しだけ増やした。
⸻
それでも、僕はまだ“恋をしない”つもりだった。
恋は危険だ。
好きになって、
期待して、
触れられて、
そして「無理かも」と言われたら、僕は立ち直れない。
前世でもそうだった。
薄毛が進行した時、僕は鏡を見て、「まだ大丈夫」と言い聞かせた。
でも、本当に痛いのは抜けた瞬間じゃない。
「次も抜ける」と思う瞬間だ。
恋も同じだ。
「いずれ終わる」と思った瞬間、
最初から終わっている。
だから、恋はしない。
それが僕の避難経路だった。
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その避難経路が、崩れたのは、あまりにも普通の日だった。
図書室からの帰り道。
夕方。
風は弱い。
空は淡いオレンジ。
そして僕は、その日も帽子を被っていなかった。
理由は単純。
曇り。
光が柔らかい。
頭皮に優しい。
さらにもう一つ。
最近は、彼女と一緒のときだけ、
被らない時間が増えていた。
それは僕の中の“小さな挑戦”だった。
彼女の前でだけ、少しだけ勇敢になる。
世界と戦う勇気はない。
でも、彼女の前で自分を隠さない勇気なら、少しある。
そういう、小さな前進。
⸻
橋の上に差しかかったとき、彼女が立ち止まった。
「真壁くん」
その呼び方が、いつもより重い。
「はい」
僕の声も、いつもより低い。
彼女は、空を見てから言った。
「私、好きな人がいるんです」
世界が止まった。
音が消えた。
視界が白くなる。
白。
慣れている色。
僕の頭皮の色。
僕は思う。
――ああ、終わった。
恋をしないって決めたのに、
恋をして、
そしてその恋は、相手の口で殺される。
一瞬で、最悪の未来が完成する。
「……そっか」
声が出た。
驚くほど落ち着いていた。
内側は崩れているのに、外側は平静を装う。
自虐の盾の応用。
「……どんな人?」
聞いてしまった。
逃げ道を探す質問。
彼女は、僕を見る。
まっすぐ。
刺さない視線。
でも、逃がさない視線。
「その人、自分のこと、すごく嫌いなんです」
胸が締まる。
「外見も」
息が浅くなる。
「中身も」
心臓が早い。
「全部」
それは、僕だ。
わかる。
わかるのに、確信できない。
怖い。
期待して、違ったら、壊れる。
僕は笑おうとした。
(……月島さん、そういう人、好きなの?物好きだね)
言いかけて、言えなかった。
言ったら、全部終わる気がした。
自分を貶す言葉をここで使ったら、
彼女の「好き」が汚れる気がした。
彼女は続ける。
「その人、いつも笑ってるんです」
僕の喉が鳴る。
「でも、無理してる」
言葉が心臓に刺さる。
「大丈夫って言うけど、目が全然大丈夫じゃない」
見抜かれている。
全部。
僕が必死に隠してきた“弱さ”を、彼女はもう知っている。
そして、知った上で、ここにいる。
「周りに迷惑かけないようにって、先に自分を下げるんです」
やめてくれ。
それ以上言わないでくれ。
それは僕の“最終防衛線”だ。
そこを言語化されたら、僕は逃げられなくなる。
でも彼女は言う。
「でも、それって優しさだと思うんです」
優しさ?
違う。
逃げだ。
自分が傷つきたくないから、先に自分を削るだけだ。
でも彼女は、僕の行動を別の角度から見る。
「真壁くん」
名前。
呼ばれた瞬間、心臓が跳ねる。
「好きです」
――来た。
世界の音が戻る。
風が吹く。
橋の上で、空気が動く。
僕の頭皮が冷える。
でも、不思議と寒くない。
彼女の声が、僕の中の温度を上げている。
「……僕は」
声が震える。
ここが分岐点だ。
受け取るか、逃げるか。
僕は、逃げ道を探してしまう。
「ハゲてるし」
言ってしまった。
ああ、言ってしまった。
自虐の盾。
ここで出すな。
ここで出したら、彼女の言葉が薄くなる。
でも、止められなかった。
「自信もないし」
出てくる。
溜まっていたものが。
「一緒にいると、大変だよ」
本音だ。
僕は僕を信じていない。
だから誰かが信じてくれても、怖い。
信じられると、裏切ったときの罪悪感が重い。
彼女は首を振った。
「知ってます」
即答。
即答が怖い。
知ってる。
全部。
つまり彼女は、
僕の欠けた部分を承知で、選んでいる。
それは、僕が一番怖がってきたことだ。
「全部」
彼女は繰り返す。
「ハゲも」
あ、言うんだそこ。
「自信がないところも」
「自分を下げる癖も」
彼女は息を吸う。
「それでも、好きです」
その言葉で、僕は完全に動けなくなる。
恋をしないって決めていたのに。
恋をされてしまった。
恋を、受け取らなきゃいけなくなった。
僕は、言葉を探す。
「……澄」
呼び方が変わる。
月島さんから、澄へ。
距離が変わる。
「俺さ」
声が震える。
「ずっと、自分が嫌いだった」
言ってしまう。
これを言うのは、告白より怖い。
「ハゲも嫌だし」
「笑われるのも嫌だし」
「笑って返す自分も嫌い」
「強いふりしてる自分も嫌い」
言葉が止まらない。
まるで帽子を剥ぐみたいに、
心の防具が剥がれていく。
彼女は黙って聞いている。
目を逸らさない。
「でも」
僕は続ける。
「澄の前だと、ちょっとだけマシになる」
それは事実だ。
「だから」
息を吸う。
告白は、恐怖の別名だ。
拒絶される可能性。
幻滅される可能性。
同情される可能性。
どれも怖い。
でも僕は言う。
「俺も、好きだ」
言った。
言ってしまった。
頭皮が冷える。
でも心は、変に温かい。
彼女は笑う。
小さく。
「よかった」
その一言で、僕は力が抜けた。
⸻
そのあと僕らは、少し歩いた。
言葉は多くない。
でも沈黙が怖くない。
彼女が言う。
「冷えますね」
「頭?」
「頭も」
僕は笑う。
「頭は常に冷えがち」
彼女は真顔で返す。
「じゃあ、温めます」
「どうやって」
彼女は少し考えて、
「手、繋ぎます」
そう言って、手を差し出す。
僕は一瞬戸惑う。
ハゲは手を繋ぐ前に帽子を確認する生き物だ。
でも今日は帽子がない。
いや、帽子がないことが、今日は正しい。
僕は手を握る。
温かい。
手の温度が、心に伝わる。
頭皮は相変わらず無防備だ。
でも、世界はもう敵じゃない気がした。
少なくとも、
この人の前では。
⸻
帰宅して、鏡を見る。
つるっぱげ。
変わらない。
でも今日は、
鏡の中の自分が、少しだけ違って見えた。
欠けている人間じゃない。
選ばれた人間だ。
毛根はない。
でも、
「好き」と言える口がある。
「好き」と言われて受け取る心がある。
帽子がなくても立てる、
たった一歩の勇気がある。
恋は、毛量では決まらない。
そんな当たり前を、
僕は今日、ようやく自分の体に落とし込んだ。




