第四章 触れられるということ
雨の日は、ハゲにとって少しだけ優しい。
光が拡散するからだ。
晴天は敵。
蛍光灯は裏切らない。
でも曇りと雨は味方になる。
その日の放課後、突然の夕立が校庭を叩いた。
アスファルトが濡れ、空気が湿る。
湿気は頭皮に優しい。
反射が柔らぐ。
世界が、少しだけ寛容になる。
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自転車置き場に着いたとき、雨は止んでいた。
でも僕の帽子はびしょ濡れだった。
ニット帽は吸水性が高い。
優しい素材だが、戦闘後は重い。
僕は帽子を脱いで、カゴに放り込んだ。
「乾くまで無理だな……」
つまり今の僕は、完全丸腰。
直射日光はない。
でも曇天の光は、やわらかく僕の頭を照らしている。
つるっぱげ、湿度補正入り。
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鍵を外し、自転車を引き出す。
ガチャ。
ガコン。
嫌な音。
チェーンが外れた。
「は?」
最悪のタイミング。
丸腰状態でトラブル発生。
しゃがむ。
ズボンの裾が濡れる。
油の匂いが鼻を刺す。
チェーンを持ち上げるが、うまくはまらない。
手が黒くなる。
焦る。
丸腰+地面しゃがみ=公開弱点状態。
誰か来ないでくれ、と願う。
「手、貸します」
声。
心臓が跳ねる。
振り向く。
月島澄。
なぜ今。
いや同じ方向だし当然だ。
でもなぜ今。
「いいよ」
即答。
条件反射の拒否。
「汚れるし」
「平気です」
彼女は制服のまましゃがむ。
スカートの裾が地面に触れるのも気にせず。
僕の隣に。
距離が近い。
近すぎる。
僕は無意識に頭に手をやる。
でも帽子はない。
ああ、そうだ。
今日は丸腰だ。
逃げ場がない。
⸻
彼女はチェーンを持ち上げる。
油が手につく。
「汚れるよ」
「後で洗います」
淡々としている。
僕は思う。
この人は本当に、優しさを武器にしない。
見返りを要求しない。
ただ必要だからやる。
それだけ。
カチン、とチェーンが戻る。
「できました」
彼女が立ち上がる。
その瞬間。
バランスを崩しかける。
反射的に僕の肩に手をつく。
そして、指が――
僕の頭に触れた。
つるり。
直接。
帽子はカゴの中。
回避不能。
完全接触。
時間が止まる。
頭皮が、一瞬で熱を持つ。
僕の体が固まる。
彼女も気づく。
「あ、すみません」
すぐに手を離す。
でも。
顔は変わらない。
嫌悪も、驚きも、困惑もない。
ただ、
「あ、当たった」という顔。
それが、衝撃だった。
⸻
僕は、触れられることに慣れていない。
男子にネタで触られることはある。
「マジでツルツルだ」
「ワックス何使ってる?」
「これ曇らない鏡?」
でもそれは展示物扱いだ。
検証。確認。消費。
今のは違う。
偶然だった。
でも、避けようと思えば避けられたはずだ。
彼女は避けなかった。
触れた瞬間に、引っ込めなかった。
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「……平気?」
なぜか僕が聞く。
意味が分からない。
彼女は少し首をかしげる。
「何がですか」
「その……」
語彙力。
「頭」
彼女は少し考える。
そして言う。
「思っていたより、温かいですね」
温かい。
その単語が、胸の奥に落ちる。
今まで僕の頭は、
寒そう、冷えそう、風邪ひきそう、
そう言われてきた。
でも温かいと言われたのは、初めてだった。
「ちゃんと生きてる感じがします」
さらっと言う。
ちゃんと生きてる。
僕はずっと、この頭を“欠けたもの”だと思っていた。
マイナス。
減点。
未完成。
でも彼女は言う。
ちゃんと生きてる。
毛がないだけで。
⸻
僕は思い出す。
小学生の頃。
女子に言われた。
「なんで生えてないの?」
悪意はなかった。
純粋な疑問。
僕は笑って答えた。
「進化の先取り」
女子は笑った。
でもそのあと、少し距離を置かれた。
中学二年。
好きだった子に言われた。
「ごめん、ちょっと無理かも」
理由は言われなかった。
でも分かった。
帽子を取った日の翌日だった。
そのとき僕は決めた。
――触れられたら終わる。
――見られたら終わる。
だから自虐を先に撃つ。
だから帽子を被る。
だから恋はしない。
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でも今。
触れられても、終わらなかった。
むしろ。
何も壊れなかった。
世界は通常営業。
曇り空。
湿った空気。
彼女は油で汚れた手を見て言う。
「ほら、汚れました」
僕は言う。
「だから言った」
「でも直りました」
笑う。
自転車も。
空気も。
少しだけ、僕の中も。
⸻
帰り道。
自転車を押しながら歩く。
彼女は僕の頭を見る。
でもそれは、観察じゃない。
確認でもない。
ただ、そこにあるものを見る視線。
「触れられるの、嫌でした?」
直球。
逃げ場なし。
僕は正直に言う。
「怖い」
言葉が出る。
「嫌われるかもしれないって」
彼女は少しだけ笑う。
「私は、触ったくらいで嫌いになりません」
即答。
迷いなし。
「それで変わるなら」
彼女は続ける。
「最初から好きじゃないと思います」
その言葉が、深く刺さる。
恋は毛量で決まらない。
当たり前のこと。
でも僕はずっと、それを疑っていた。
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「もう一回、触ってもいいですか?」
今度は偶然じゃない。
選択。
僕は息を止める。
怖い。
でも、逃げたくない。
「……いいよ」
彼女の指が、ゆっくり頭に触れる。
確認するように。
逃げない。
僕も逃げない。
つるり。
彼女は言う。
「安心しますね」
意味が分からない。
「何が」
「変わらない感じが」
僕は笑う。
「変わらないよ。毛は」
「そこじゃないです」
彼女は僕を見る。
「ちゃんと、真壁くんだから」
その瞬間。
胸の奥の氷が、音を立てて割れた。
ハゲは欠陥じゃない。
僕の一部。
消えない一部。
でも、僕そのものじゃない。
⸻
家に帰る。
風呂場。
鏡。
湯気。
僕は頭を洗う。
泡立たない。
必要面積が少ない。
でも今日は、少し丁寧に洗う。
触れられた場所を。
嫌われなかった場所を。
そして気づく。
触れられるということは、
許されるということかもしれない。
自分が嫌っていた部分を、
誰かが普通に扱う。
それは肯定だ。
恋は、
帽子を脱いだ瞬間じゃなく、
触れられても逃げなかった瞬間に始まるのかもしれない。
毛は生えない。
でも、
勇気は、少しだけ生えた。




