第二章 冷えますね、頭
恋をしないと決めたのに、
人はどうして通学路を並んで歩いてしまうのだろう。
月島澄と話すようになってから、僕の放課後は少しだけ変わった。
図書室での読書がきっかけで、会話が増えた。
最初は本の話だった。
次に授業の話。
その次に、くだらない話。
「真壁くんって、どうしてそんなに自虐が上手なんですか?」
ある日、彼女が聞いた。
自虐が“特技”としてカウントされた瞬間だった。
「練習してるから」
「何のために?」
僕は少し考えてから答えた。
「先に言えば、相手は二発目を撃ちにくい」
彼女はじっと僕を見る。
「防御ですね」
「そう、防御」
「攻撃はしないんですか?」
その質問に、僕は少し笑った。
「攻撃力は低い。反射は高いけど」
「鏡みたいですね」
「割れやすいけどね」
彼女は小さく笑った。
その笑いは、僕を傷つけない笑いだった。
⸻
高校というのは、風が強い。
校舎の構造の問題か、青春の気流の問題か知らないが、とにかく風が強い。
そして風は、帽子の敵だ。
僕は常にニット帽を被っていた。
夏以外はほぼ常時装備。
夏はキャップ。
体育の時間はタオル。
風呂以外は何かしらの布が頭に乗っている。
帽子は盾だ。
帽子は防具だ。
帽子は安心だ。
でも帽子は、重い。
物理的には軽い。
でも心理的には、重い。
「今日、風強いですね」
帰り道、月島澄が言った。
「うん」
僕は無意識に帽子を押さえる。
彼女は見ている。
押さえる手を。
でも何も言わない。
歩道橋に差しかかったときだった。
突風。
物語の都合みたいな風。
僕の帽子が、浮いた。
「うわ」
間抜けな声が出る。
帽子は空中で一回転した。
くるくると。
まるで見世物みたいに。
時間がスローモーションになる。
僕は両手を伸ばす。
でも届かない。
帽子は地面に落ちる。
そして、転がる。
世界が、静かになる。
歩道橋の上。
人が数人いる。
そのうちの一人が、こちらを見る。
次の瞬間、
視線が跳ねる。
頭頂へ。
僕は立ち尽くす。
完全丸腰。
太陽光、直撃。
蛍光灯がなくても十分明るい。
僕の頭皮は、遠慮なく光る。
反射率100%。
僕は思う。
――終わった。
この瞬間、月島澄の中の“普通”が壊れる。
「あ、やっぱり無理」と思われる。
そういう未来が、一瞬で脳内に再生される。
彼女が、僕を見る。
正面から。
目を逸らさない。
そして言った。
「……冷えますね。頭」
評価ゼロ。
悲壮感ゼロ。
物理現象のみ。
その言い方が、あまりにも普通で。
僕は一瞬、言葉を失う。
「……寒い?」
彼女が続ける。
「風、強いですし」
僕は笑う。
笑える。
「うん、冷える」
自分の声が震えていないことに気づく。
彼女はしゃがんで帽子を拾う。
ぱたぱたと埃を払う。
「はい」
差し出される。
僕は受け取る。
かぶる。
でも、すぐには被らない。
一瞬、迷う。
このままでもいいんじゃないか、と。
でも、まだ怖い。
被る。
布の内側に戻る。
安全圏。
でも、胸の奥が少しだけ違う。
⸻
歩き出す。
数歩。
彼女が言う。
「さっきの」
心臓が跳ねる。
「うん」
「本当に冷えますよ。ちゃんと守った方がいいです」
僕は笑う。
「頭皮の心配?」
「大事な部分ですから」
大事な部分。
その単語が、胸に刺さる。
今まで、僕の頭は“笑われる部分”だった。
“未来の恐怖”だった。
“反射板”だった。
でも彼女は言う。
大事な部分。
冗談でもなく、同情でもなく。
ただ事実として。
⸻
「ねえ」
彼女が立ち止まる。
「気にしてます?」
直球。
逃げ道なし。
僕は少し考える。
正直に答えるか。
自虐で返すか。
「……めちゃくちゃ気にしてる」
言ってしまった。
初めてかもしれない。
笑いに変えずに言ったのは。
彼女はうなずく。
「ですよね」
否定しない。
「でも」
少し考えてから言う。
「私は、あんまり」
僕は目を上げる。
「眩しいとは思いますけど」
それは思うのかよ。
僕は吹き出す。
「正直だね」
「正直が一番楽です」
その言葉に、僕は少しだけ救われる。
楽。
彼女の前では、楽だ。
自虐を構えなくていい。
反射ネタを準備しなくていい。
“先に撃つ”必要がない。
⸻
翌日、教室。
風事件は拡散していなかった。
奇跡だ。
SNS時代じゃなくてよかった。
でも男子三人が集まると危険だ。
「昨日、帽子飛んだらしいな?」
情報網早すぎる。
「風強かったから」
平静を装う。
「見たかったわー」
笑い。
僕は即座に返す。
「有料公開だよ」
笑いが起きる。
成立。
でも、横で月島澄が言った。
「それ、面白いですか?」
静か。
教室の空気が、少し止まる。
男子の一人が言う。
「いや、冗談だって」
彼女は首を傾げる。
「冗談って、言われた人が笑うものじゃないですか?」
静かな刃。
無駄な部分だけ削る。
僕は何も言えない。
胸の奥で、何かが溶ける。
守られた。
帽子じゃなく、人に。
それは、初めてだった。
⸻
その日の帰り道。
僕は帽子を被らずに歩いてみた。
十歩。
二十歩。
風が頭皮を撫でる。
冷たい。
でも、思ったより痛くない。
「どうですか」
彼女が聞く。
「寒い」
「でしょうね」
普通。
評価なし。
世界は変わらない。
視線もある。
でも。
全部が敵じゃない。
そう思えた瞬間、
僕の中で何かが、ほんの少しだけ変わった。
ハゲは変わらない。
でも、
立ち方は変わる。
この日から、
僕の恋は本格的に始まった。
毛は生えない。
でも感情は増毛する。
止められないくらいに。




