転校生2
「席は……そうだな。あいにく、教室は埋まっているか」
先生が教室を見渡す。
「先生、席がないなら私の隣とかどうですか?」
百合が手を挙げるが、先生は首を横に振った。
「いや、通路を塞ぐのは消防法的にまずい。
……仕方ない。愛羅武、少し前へ出ろ」
「はい?」
「お前の後ろに席を作る。余っている机を運んでくれ」
まさか俺の「最後列の特等席」というアイデンティティが、今まさに崩壊しようとしていた。
俺は渋々、机を前にずらす。
前の席の秋が、面白そうにクスクスと笑っていた。
「愛羅武くん、残念だったね。これでボクとの距離も縮まったようだ」
「うるせーよ……」
その間、小夜は無表情で立っていた。
机が運び込まれ、俺の背後に「新しい席」が完成する。
つまり、彼女は俺の真後ろの席になったわけだ。
「よし、椿。そこを使え」
「わかりました」
小夜が教室を歩き出し、俺の横を通り過ぎる。
その瞬間、ふわりと香りがした。
香水のような甘い匂いではない。
雨上がりのアスファルトのような、あるいは消毒液のような……冷たく、無機質な匂い。
彼女は俺の後ろに鞄を置き、静かに座った。
「……よろしく頼む」
俺が背中越しに小声で声をかけると、彼女はこちらを見ずに、小さく呟いた。
「……視界が良好です」
「え?」
振り返ると、彼女は俺ではなく、俺の「背中」越しに教室全体を見渡していた。
その瞳は、まるでカメラのように冷徹だった。
キーンコーンカーンコーン――。
チャイムが鳴り、休み時間になった瞬間、教室が爆発したような騒ぎになった。
「ねえねえ、前の学校どこ!?」
「椿さんって、彼氏いるのー?」
「連絡先交換しようよ! LINEやってる?」
クラスメイトたちが一斉に、俺たちの席――つまり最後列に押し寄せる。
俺と百合の席も巻き込んでの大混雑だ。
「うわ、すごい人気だね」
前の席の秋が、背もたれに腕を乗せて振り返る。
「まあ、あの美貌だからな。当然だろうな」
「むぅ……優くん、鼻の下伸びてるよ!」
隣の百合が、俺の二の腕をつねった。
「い、いてっ……伸びてねーよ」
「ほんとかなー? 転校生ちゃん、すっごく可愛いもんねー。でも!
私だって負けてないんだから!」
百合が対抗意識を燃やしている背後で、小夜は淡々と質問に答えていた。
「……前の学校は、遠方です」
「……恋人は、いません」
「……携帯電話は、持っていません」
淡々と、事務的に答えている。
その声には感情の色がなく、周囲の熱狂とは対照的に、そこだけ気温が下がったような錯覚を覚える。
携帯を持っていない?
この現代設定のゲームで、それは珍しい。
攻略に必須の「連絡先交換イベント」が発生しないじゃないか。
(……攻略難易度が高いキャラってことか?)
ふと気配を感じて振り返ると、小夜と目が合った。
至近距離。
彼女の漆黒の瞳が、俺を射抜いていた。
ゾクリ。
背筋に冷たいものが走る。
彼女は俺を見ているようで、俺の「奥」にある何かを見定めているような……そんな不気味な視線だった。
「――愛羅武」
突然、先生に名前を呼ばれ、俺は前を向いた。
「はい」
「悪いが、椿はまだ学校の構造がわかっていない。
今日の放課後、校内を案内してやってくれないか?
席も一番近いしな」
「あ、はい。わかりました」
これも、お決まりのイベントだ。
「えー! じゃあ私も行く!」
百合が手を挙げるが、先生は首を振った。
「夢見、お前は日直だろ。学級日誌を書いてから帰れよ」
「あう……そうだった……」
百合ががっくりと肩を落とす。
「残念だったな。じゃあ、俺が案内してくるよ」
俺はそう言って、再び後ろを振り返った。
小夜はもう、俺の方を見ていなかった。
ただ、胸元の白いツバキだけが、教室の空気の中で異質な存在感を放っていた。
⸻
俺は約束通り、小夜を連れて校内を回ることになった。
「ここが図書室。あっちが特別教室棟だ」
俺が前を歩き、説明をする。
小夜は三歩ほど後ろを、足音も立てずについてくる。
「……」
会話がない。
俺が説明し、彼女が無言で頷く。その繰り返しだ。
気まずい。
ゲームなら、ここで選択肢が出て、「趣味を聞く」とか「好きな食べ物を聞く」とかが出るはずなんだが、ウィンドウは沈黙したままだ。
俺たちは渡り廊下を通り、別棟へと向かった。
夕日が差し込み、廊下がオレンジ色に染まっている。
「……愛羅武くん」
不意に、背後から声をかけられた。
初めて、彼女から名前を呼ばれた。
「ん? どうした? 歩くの速すぎたか?」
俺が振り返ると、小夜は立ち止まっていた。
彼女は俺を見ているのではない。
渡り廊下の窓から見える、中庭の風景を見ていた。
「……ここには、いないのですね」
「え? 何が?」
「虫です」
彼女は無表情のまま言った。
「セミの声もしない。鳥も飛ばない。
風が吹いても、木の葉が擦れる音が……あまりにも単調です」
心臓が、早鐘を打った。
彼女は、気づいているのか?
この世界の描写に。
あの海で見た「書き割りの背景」と同じ違和感を、彼女も感じ取っているのか?
「……今日はたまたま、静かなだけじゃないか?」
俺は平静を装って答える。
小夜は、ゆっくりと視線を俺に移した。
「……貴方は、優しい嘘をつくのですね」
「え?」
彼女が一歩、俺に近づく。
白いツバキの香りが、微かに強くなる。
その奥にある、ツンとした刺激臭と共に。
「貴方からは……『鉄』の匂いがします」
「鉄……?」
俺は思わず、自分の制服の袖口を嗅いだ。
柔軟剤の匂いしかしない。
鉄?
さっき技術室の横を通った時に、錆びたフェンスにでも触れただろうか?
それとも十円玉でも握りしめていたか?
まさか……朝に握ったバットか。
そんなことを考えながら、返事をする。
「……いや、そんな匂いはしないと思うけどなぁ」
「いいえ、します。
古びて、赤く錆びついた鉄の匂いです……
あるいは、キカイ」
彼女の言葉に、俺は首を傾げた。
鉄の匂い?
何を言っているんだ、この子は。
独特な感性を持った「不思議ちゃんキャラ」なのだろうか。
彼女は俺の目の前まで来ると、じっと俺の瞳を覗き込んだ。
その瞳の奥には、黒いモヤとは違う、もっと根源的な「暗闇」が広がっていた。
「貴方は……それを受け入れる人ですか?
それとも……抗う人ですか?」
「は? 受け入れるって、何を……」
意味がわからない。
だが、彼女がただのヒロインではないことだけは、確信できた。
その時。
ピコン。
俺の目の前に、ウィンドウが現れた。
『クエスト発生』
『椿小夜の役目を知る』
『報酬:???』
俺がウィンドウに気を取られている間に、小夜はふいっと視線を外し、歩き出した。
「案内は、もう結構です。
大体の構造は把握しました」
「あ、おい! 待てよ!」
俺が呼び止める間もなく、彼女は黒いリボンを揺らしながら、廊下の角を曲がって消えてしまった。
その場に残されたのは、夕焼けの赤さと、ぽかんと立ち尽くす俺だけ。
「……役目、か」
俺は拳を握りしめた。
彼女は、この世界の「バグ」について何か知っている。
それに、あの「鉄の匂い」という謎の言葉。
もしかすると、あの「黒い手帳」についても、何か知っているのかもしれない。
俺は彼女を追いかけることはせず、
まずは情報を整理するために、家に帰ることにした。
この転校生……。
俺の平穏な学園生活を、根底から覆す存在になる気がした。




