夏休み4
「きゃああああ!!」
別荘のリビングに、百合の悲鳴が響き渡った。
無理もない。俺たちが運び込んだ管理人は気絶しており、俺の肩からは血が流れているのだから。
「優くん!? その血……!!」
百合が真っ青な顔で駆け寄ってくる。
薔薇崎も目を丸くして驚いていたが、すぐに令嬢としての冷静さを取り戻し、指示を出した。
「百合さん、タオルと救急箱を持ってきて!
愛羅武さま、こちらへ座ってくださいまし!」
テキパキとした指示で、俺はソファに座らされた。
秋が俺の隣に寄り添い、震える手で俺の無事を確かめるように、服の裾を掴んでいる。
「管理人さんが……庭で倒れていてね。
介抱しようとしたら、寝ぼけて錯乱したみたいで、枝切りバサミを振り回したんだ。
それを止めようとして、ちょっと切っただけだよ」
俺は、あらかじめ考えておいた嘘をついた。
「黒いモヤ」の話をしても信じてもらえないし、無用な混乱を招くだけだ。
「そんな……お父様の雇った方が、そんなことを……」
薔薇崎が痛ましそうな顔をする。
彼女の手際よい処置で、傷口は消毒され、包帯が巻かれた。
やがて、管理人が目を覚ました。
「う……うう……?
わ、私は……一体……?」
彼は完全に記憶を失っていた。
なぜ自分がここにいるのか、ハサミを握っていたことすら覚えていない。
やはり、モヤに乗っ取られている間の記憶はないようだ。
「疲れていたのかもしれませんね。今日はもう休んでください」
薔薇崎が気遣い、管理人は恐縮しながら自室へと戻っていった。
その夜は、少し重く、苦しい空気のまま過ぎ去った。
俺たちは予定を切り上げ、夕方に帰るはずだった行程を変更し、翌朝一番で帰路につくことになった。
⸻
帰り道。
車の窓から見える海は、相変わらず美しかった。
だが、俺にはもう、それがただの「書き割りの絵」にしか見えなかった。
隣に座る秋が、そっと俺の小指を握ってきた。
誰にも見えない位置での、秘密の接触だった。
「……ありがとう」
口の動きだけで、彼女はそう言った。
その後、来た時と同じ駅でみんなは下ろしてもらい、
俺たちはそれぞれ自分たちの家へと帰っていった。
家に帰った後、俺はベッドで行く前よりも軽く感じる手帳を確認した。
空白だったページを開くと、新しい文字が浮かび上がっていた。
隠しクエスト
『海での思い出を作る』
『報酬:記憶のかけら(小)』
『受け取りますか?』
隠しクエスト?そんなのもあるのか。
そしてこの手帳にミッションが現れることもあるんだな……。
そう思いつつ、自分の部屋だった俺は、迷わず受け取るを選択した。
小さな光の粒子が、手帳から溢れ出し、俺の額へと吸い込まれていく。
『……ねえ、――くん』
女性の声だ。
誰かは分からない。けれど、胸が締め付けられるほど懐かしい響き。
視界が白く染まり、古いフィルムのような映像が脳裏に浮かぶ。
場所は……どこかの白い部屋のようだ。消毒液の匂いがする。
俺はベッドで眠っているらしい。体が動かない。
その傍らで、誰かが花瓶に花を生けている。
顔にはモヤがかかっていて、やっぱり見えない。
『今日はねコスモスを持ってきたよ。
秋桜って書くけど、夏から咲く種類もあるんだって』
彼女は、眠っている俺の手に、そっと自分の手を重ねた。
その温もりだけが、リアルに伝わってくる。
『コスモスの花言葉……「乙女の真心」。
……ふふ、私には少し可愛すぎるかな?
でもね……「調和」って意味もあるの。
私とあなたが、穏やかに過ごせる日が来ることを……信じてるからね』
プツリと、記憶が途切れた。
「……誰だ」
俺は天井に向かって呟いた。
名前を呼ぼうとしたが、喉の奥がつかえて出てこない。
大切な人だということは分かるのに、名前と顔だけがどうしても思い出せない。
ただ、彼女の残した
「コスモス=調和、真心」
という言葉だけが、強く印象に残った。
俺は手帳の空きスペースに、それをメモした。




