夏休み3
俺たちは岸へ戻り、少し早い時間だったが、みんなで別荘へ引き上げることにした。
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夜。
テラスでバーベキューが行われた。
肉や海鮮が焼けるいい匂い。そして女子たちの楽しそうな声。
だが、俺の心臓の音だけが、ずっと嫌なリズムを刻んでいた。
(あの壁……そして、ノイズ……)
この世界は、俺が思っている以上に脆いのかもしれない。
ふと後ろから声をかけられた。
「愛羅武くん、焼けたよ。ほら、口を開けて」
「え?」
目の前に、肉が差し出された。
箸を持っているのは、少し顔を赤くした秋だった。
「ほら、さっき海で元気なかったから。精をつけてもらおうと思ってね」
「あ、ありがとう……」
俺は秋から肉を受け取り、口に運ぶ。
……味は、とてもしっかりしていた。
この世界が偽物だとしても、この美味しさと、彼女の優しさは本物だと思いたい……。
そう、ネガティブな感情に浸ってしまう。
食事が一段落し、百合と薔薇崎の二人は片付けをしにキッチンへ向かった。
俺は一人、夜風に当たるため、テラスに残った。
真っ暗な海。
昼間、あそこで「壁」を見た。
夜の闇に紛れて、その壁が迫ってきているような錯覚に陥る。
「……やっぱり、何か隠してるね」
隣に気配を感じた。
秋だった。彼女は缶ジュースを二本持ち、一本を俺に手渡してくる。
「ありがとう」
「どういたしまして。
……で、さっきの海でのことだけど。本当にクラゲだったのかい?」
彼女は手すりに肘をつき、俺の顔を覗き込む。
その瞳は、悪戯っぽく笑っているようで、どこか真剣だった。
「ボクはね、愛羅武くん。
君が思っているより、君のことを見ているつもりだよ。
あの時、君は何か……もっと恐ろしいものを見たような顔をしていた」
鋭い。
秋はボーイッシュでサバサバしているように見えて、実は誰よりも観察眼がある。
俺は少し迷ったが、嘘をつき通すのも不誠実な気がした。
「……ああ。
ちょっと…、な。うまく説明できないけど……すごく嫌な予感がしたんだ」
「予感、か」
秋は夜の海に視線を移す。
「ボクもね、たまに感じるんだ。
この世界が……ふとした瞬間に、すごく薄っぺらく見えることが」
ドキリとした。
彼女も、この世界やバグの事について知っているのか?
「でも、今は大丈夫だ」
秋は俺の方を向き、ニッと笑った。
「愛羅武くんがいるからね。
体育祭の時も、君がいてくれたから勝てたんだ。
君が隣にいると……なんだか、世界が鮮やかになる気がするよ」
「秋……」
「だからさ。もっと頼ってくれていいんだよ?
ボクは薔薇崎さんみたいにお金持ちでも、夢見さんみたいに可愛くもないけど……
背中くらいなら、支えられるから」
彼女の健気な言葉に、胸が熱くなる。
俺は彼女の肩に手を置こうとした。
その時だった。
「……お客様」
庭の方から、声が聞こえた。
低く、抑揚のない声だった。
「誰だい? ああ、管理人さんか」
秋が不思議そうに身を乗り出して覗き込む。
テラスの下、庭の植え込みから現れたのは、昼間に挨拶をした初老の管理人だった。
人の良さそうな笑顔で、俺たちを出迎えてくれた男性だ。
「どうしたんですか? こんな時間に……」
秋が声をかけようとした、その時。
俺は気づいてしまった。
管理人の首筋や手首に、黒いモヤが血管のように浮き上がり、脈打っていることに。
そして、彼の瞳が――白目を剥き、焦点が完全に死んでいることに。
「秋、離れろッ!!」
俺が叫ぶと同時に、管理人がテラスの柱を駆け上がってきた。
初老の男性とは思えない、まるで獣のような動きだった。
「え……?」
秋が反応するより早く、管理人がテラスに飛び込んでくる。
その手には、庭の手入れに使う大きな枝切りバサミが握られていた。
「ハイジョ…………ハイジョ……」
壊れたラジオのような声を漏らしながら、管理人が無表情で秋を見据える。
管理人が、錆びついたハサミを振り上げ、秋の頭めがけて振り下ろそうとした。
「させるかよッ!!」
俺はとっさに秋の前に飛び出し、彼女を抱きすくめるようにして庇った。
ガッ!!
鈍い衝撃と、肉が裂ける熱さが、俺の左肩に走る。
「ぐぅっ……!!」
「あ、愛羅武くん!?」
ハサミの刃先が、俺の肩を浅く切り裂いていた。
激痛が走るが、骨まではいっていない。
俺は痛みを堪え、管理人の腕を掴んだ。
凄まじい力だ。普段の温厚な老人からは想像もできない、リミッターの外れた怪力。
「離れろ……このから、離れろ!!」
俺は叫びながら、管理人の胸元に渦巻く黒いモヤを、手で鷲掴みにした。
『ギギギ……ギャァァァァ……』
モヤが嫌な音を立てて暴れる。
指先に、激しいノイズと静電気が走る。
俺がさらに強く握り込むと、黒いモヤは断末魔のような音と共に弾け飛び、霧散した。
ガクン。
モヤが消えた瞬間、管理人は糸が切れた人形のように崩れ落ち、その場で気絶した。
「はぁ……はぁ……」
静寂が戻る。
聞こえるのは、俺の荒い息遣いと、波の音だけ。
「愛羅武くん……! 肩が、血が……!」
秋が真っ青な顔で、俺の肩を押さえる。
彼女の手が震えている。
「大丈夫だ……かすり傷だよ。
それより秋、怪我はないか?」
「ボクのことなんてどうでもいいよ!
君が……ボクを庇って……」
秋の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は自分の服の裾を破り、俺の傷口に強く押し当てて止血をしてくれる。
「ごめん……ボクが、ぼんやりしていたから……」
「謝るなよ。秋が無事でよかった」
俺は痛む腕で、震える彼女の頭を優しく撫でた。
「来た時は、良い人だったのに……」
秋は涙を流しながら呟いた。
「管理人さんも、きっと目を覚ませば元通りになってるはずだ」
俺の足元で倒れている管理人は、穏やかな寝息を立てていた。
黒いモヤの痕跡は、もうなかった。
「……愛羅武くんは、強いね」
秋が涙を拭い、俺を見上げる。
その瞳には、恐怖よりも強い、信頼と熱が宿っていた。
「ボク、決めたよ。この借りは、絶対に返す。
君が何に巻き込まれているのか分からないけど……
ボクは、君の味方だ。何があっても、君だけは信じるよ」
彼女の胸元を見る。
紫色のコスモスが、月明かりの下で揺れている。
その花弁の一枚が、
血のような、あるいは燃えるような、鮮やかな赤色に染まっていた。
俺たちは、気絶した管理人を部屋に運ぶため、互いに支え合いながら立ち上がった。




