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恵比寿邸

「報酬は八十万。君たちの取り分は五十六万だ」

「えらく低いじゃん」

 あたしたちはいつものように〈ハッピー探偵社〉の安っぽい応接セットで七篠(ななしの)のおっさんと向かい合っていた。

「事情があってな」

「ふーん」

 ちらっと穂澄(ほずみ)を伺うと眉を寄せて難しい顔をしている。

「値段の割には厄介な案件になる可能性が高い」

 七篠のおっさんの言葉に背筋が伸びる。

 この前置き……嫌な予感がビンビンする。

「依頼者は柿畑(かきばた)詩織(しおり)。姉夫婦の様子がおかしいという相談があった」

「おかしいっていうのは?」

「その前に姉夫婦について説明しておく。柿畑詩織の姉は恵比寿(えびす)沙織(さおり)恵比寿(えびす)克太(かつた)という男と夫婦になって暮らしている。一人息子は恵比寿(えびす)(たく)。小学三年生。恵比寿家はその地域では名の知れた良家だそうだ。広い屋敷に家族三人で住んでいて、通いのお手伝いが一人いるという話だ」

 何となく富豪の幸せそうな家庭のイメージが浮かんだ。あんまり富豪の知り合いなんていないので、本当に勝手なイメージだけど。

「家族中は良好だった。少なくとも柿畑の目にはそう映っていた。姉妹中も悪くなく、柿畑と克太の関係も問題はない。そのため、柿畑詩織は月に一、二回、恵比寿家にお邪魔していたそうだ」

「オーケー。理解した。程よく仲のいい家族づきあいってことだな」

「柿畑詩織が異変を感じたのは四ヶ月前。いつものように恵比寿家を訪れたが、どことなくよそよそしい感じがしたらしい。少し違和感を覚えたらしいが、すぐに忘れる程度で、後になって思いかえせば、というレベルだ」

「それで?」

「三か月前、また恵比寿家にお邪魔したそうだが、姉の沙織がずいぶんと上の空だったらしい。話しかけてもぼーっとしていて、返事が遅れたり、なかったりしたと言っていた。体調が悪いんじゃないかと心配したが、本人は大丈夫の一点張り。その日は邪魔するのも悪いと思い、長居はせずに帰った。そして、二か月前は柿畑詩織自身が忙しく、恵比寿家を訪れていない」

 はあー……徐々に着実に雲行きが怪しくなる。

「柿畑詩織は恵比寿家の状態を心配していて、連絡も取っていたが連絡自体にあまり変化はなかった。だが、先月、お手伝いから様子がおかしい、自分の手には負えない、と連絡をもらった。慌てて恵比寿家を訪れたわけだが、お手伝いの言う通り、一家は完全におかしくなっていたらしい。家族三人が全員上の空、こちらから話しかけると返事はあるが、自発的に話かけてはこない。やつれているわけではないが、顔は青白くなっている気がすると。そして、柿畑詩織が最も違和感を覚えたのが、家族三人があまりにも他人行儀なことだった」

「他人行儀?」

「柿畑詩織によれば、まるで家族じゃなくなったかのようだと。三人が同じ空間にいるのに話すこともなく、目も合わせることもない。仲の良かった家族がここまで変わるのかと怖くなったらしい」

「単純に喧嘩してるってわけじゃないんだよな?」

「ああ。彼女もそれを疑ったようだが、そんな雰囲気はない。険悪さはないんだそうだ。その代わりに家族間のつながりのようなものもないと。同じ空間に三人の人間がいるだけ、お互いにまったく意識していないような気がしたと言っていた」

「……柿畑詩織に原因の心当たりはないんですか?」

 穂澄が口を開いた。

「彼女が思いつくところはないと聞いている」

 七篠のおっさんが一つため息をついた。

「問題はここからだ。柿畑詩織とお手伝いの平坂(ひらさか)よもぎによれば、恵比寿家は互いを意識しない代わりに、屋敷にある時計をひどく気にかけているらしい」

「まさか……!」

 穂澄の鋭い言葉。あたしも思わず腰を浮かせた。

「柿畑詩織に送ってもらった写真がこれだ」

 七篠のおっさんがタブレットをこちらに滑らせてくる。あたしと穂澄は頭をぶつけそうになりながらそれを覗き込んだ。

 そこには立派な時計が写っていた。大きな時計だ。振り子式で、童謡にあるような、大きなのっぽの時計。古めかしい木製で、茶色い艶と真白い文字盤。ウサギをモチーフにした飾り彫りと全体の紋様としてあしらわれた薄く虹色の光沢を放つ螺鈿細工(らでんざいく)

久流家(くるいえ)螺鈿(らでん)!」

 あたしと穂澄の言葉が重なる。あたしたちの対面で七篠のおっさんが重々しく頷いた。

「ああ……その時計は久流家螺鈿の作品である可能性が高い」




 久流家(くるいえ)螺鈿(らでん)

 工芸家だ。螺鈿細工を最も得意としていたらしいが、見境なく多方面へ手を伸ばしていて、多種にわたる数多くの作品を残している。具体的な出自はよくわかっていない。明治末期か大正初期の生まれで、激動の時代を生き抜いて享年は百八歳だったらしい。作品は多いが、後世に名を残すような有名な奴じゃない。

 ただし、怪異に携わるような人間はその名をよく知っている。

 久流家螺鈿の作品には怪異が宿る。

 そう言われている。

 言われているというか、実際に宿っている。久流家螺鈿の作品は作られた当初はただの工芸品だが、時間が経てばたつほどに、怪異を引き寄せる。そういう性質を持っている。

 久流家の野郎がどんな心持ちで作品を作っていたのかは知らないが、こいつの作品はなんであれ、最終的に呪物に成る。質が悪いのが、基本的に作品は器でしかないので、どんな怪異が宿るのか誰も予想できないところだ。呪物に成ったあとも怪異を寄せ続けるので、いつの間にかハイブリッド呪物が出来上がっていたなんて話もあるぐらいだ。

 あたしたちが高校生の頃、初めて出会った怪現象も久流家作品だった。もちろん、後から知った話だけど、その呪物と化した作品と干渉したことで、あたしたちはこうなってしまっている。

 あたしたちは久流家螺鈿の情報を集めている。これがみかんの意識を覚ますのに役立つかどうかはわからないけど、何かヒントでもあるんじゃないかとそう思っている。

「まだ確証はないんですよね?」

「ああ。確定したわけじゃない。ただ、可能性は高いだろうな。久流家作品の特徴である螺鈿細工の意匠と、ウサギモチーフのかざり。そして怪現象に関わっている時計……おそらく久流家十二支シリーズ〈時計〉の〈卯〉だろう。行方と形がわかっていない〈時計〉は〈卯〉と〈辰〉〈巳〉〈申〉の四つだからな」

「まあ、それは現地で調べればわかるだろ」

「そうだ。そして依頼内容だが、恵比寿家がおかしくなった理由を突き止めてほしいだ。できるなら正気に戻してほしいと」

「依頼者には時計のこと言ってんの?」

「いや。不確実な情報を与えるべきじゃないだろう。時計が原因だと分かれば手を出すかもしれないしな。何が起こるかもわからん以上、何も伝えていない」

「そりゃそうか……」

「そういうことだ。いつものことだが気をつけろ。君たちは久流家作品の怖さを十分に承知しているだろうが、それでも気を張っているに越したことはない」

「当たり前だろ。わかってるよ」





 恵比寿邸にたどり着いた。

 邸と言ってもいいほどに大きな屋敷だった。外観は古めの洋館。おそらく由緒正しい建物なのだろう。七篠さんが言っていた良家という意味がちゃんと分かる程度には大きな屋敷だった。

「こんちは。柿畑詩織さんっスね? あたしはハッピー探偵社のホムラ。こっちは」

「ナギサです」

「こんにちは」

 午後の低い日差しに照らされて、屋敷の前で所在なさげに立っていた小柄な女性に燈火が声をかける。ショートボブに縁取られた顔は三十歳にしては童顔で、実年齢よりもかなり幼く見えた。

「よろしくお願いします」

 ぺこんと頭を下げられた。

「任せといてください。それで、柿畑さん、もう家に入っても大丈夫なんですか?」

「はい。姉には許可をもらっています……ただ、私の説明に対しても上の空で、本当に理解しているのかはわかりません。お二人ことは友人だと言ってあります」

「わかりました。じゃあ、案内してもらえますか?」

「では、こちらにどうぞ」

 柿畑の案内で玄関扉をくぐる。

「お邪魔します」

 玄関に足を踏み入れた瞬間、きぃぃん、という音が微かに聞こえた。少しだけ右手を上げる。燈火(とうか)が目だけで頷いた。


 ××××


「っ!」

「なんだ?」

 燈火と顔を見合わせる。

 何か聞こえた。耳鳴りじゃなくて、何か言葉のようなものが。何と言っていたのかは聞き取れなかった。

「ど、どうかされましたか?」

 柿畑が不安げにこちらを見ている。

「いえ。何か聞こえたような気がしたんスけど、気のせいっスかね。柿畑さんは何か気になりませんでした?」

「いえ、特には」

 困ったように首をかしげている。

 嘘をついているようには見えない。

 柿畑には聞こえず、私たちに聞こえた理由はなんだろう?

 そもそもあの声は一体なに?

 疑問は尽きないが、それ以上、正体不明の声は聞こえなかった。

「姉さん、いる?」

 柿畑が奥に向かって声をかける。しかし、返事はなかった。

「……いるはずなんですが」

「詩織さん?」

 廊下の奥から柿畑よりも歳をとった女性が現れた。

「よもぎさん」

 柿畑がホッとしたように声をかける。

 よもぎ……お手伝いの平坂よもぎね。カジュアルな服装に身を包んだ三十半ばぐらいの落ち着いた女性だった。

「詩織さん、もしかしてお二人が……?」

「そうです。よもぎさん、姉さんはいます?」

「はい、一応、リビングにいらっしゃいます」

 平坂は疲れた表情で言った。

 会話を聞くに平坂にも事情は説明してくれているようだ。

「姉さん?」

 柿畑がリビングに顔を出している。

「姉さん? ほら、昨日言った友達連れてきたんだけど、ちょっと家の中見てもらうね」

「…………」

「姉さん!」

「……ああ、詩織。来てたのね。いいわよ、案内してあげて」

 広いリビングのソファに柿畑によく似た女性が座っていた。

 あれが恵比寿沙織ね。

「お邪魔します」

「…………」

 燈火が果敢に声をかけたが、返事はない。

 確かに上の空で、反応が悪いようだ。というか、こちらに興味がない?

 耳鳴りは微かに続いている。

 恵比寿沙織から視線を外して、リビングを観察する。

 全体的にアンティーク調……いや、これは本物のアンティーク家具で統一されているようね。おそらく部屋をデザインした人間はこういう雰囲気が好きなのだろう。

 あった。

 沙織のソファの対面の壁際に『時計』が置かれている。

「柿畑さん」

「は、はい」

 声を潜めて柿畑に話しかける。沙織に聞かれないようにという配慮だが、そもそも聞こえていないかもしれない。

「あれが例の時計ですね?」

「そうです。ここしばらく姉はあの位置に座ることが多いんです。前は右のソファが定位置だったんですが」

 時計を視界に入れている、ということだろうか?

「唐突なお願いで申し訳ありませんが、沙織さんを外に連れ出すことは可能ですか。できれば平坂さんも一緒に……とりあえず二十分程でかまいません」

「やはりあれが何か……?」

「現段階では何とも言えませんが、その可能性はあります。調査にあたって安全のためにも家の中にいない方がよろしいかと思います」

 柿畑は怯えた表情で頷いた。

「ね、姉さん! ちょっと出かけない? 二人のためにお茶菓子でも買いに行きたいんだけど、気分転換に一緒に行こ」

「…………」

 沙織の返事はないが、柿畑は無理やり姉の手を取って立ち上がらせた。連れ出す理由としてはかなり苦しいが、沙織は変に抵抗せずに大人しく連れて行かれた。柿畑はリビングを出る前にぺこ、とこちらに頭を下げる。

 玄関扉の締まる音が聞こえた。

「耳鳴りは小さいけど、継続中よ。気を付けて」

「ああ。こっちもご覧の通りだ」

 燈火の人差し指には小さな火が灯っている。すでに怪異の力場の中にいる。

「外では点かなかったけど、玄関に入ってからは点いた」

「影響範囲は家の中ってことね」

 二人でゆっくりと時計に近づく。カチ、カチ、という振り子の音が聞こえた。

 かなり大きい時計だ。燈火よりも背が高い。目算で百八十センチは越えていそうだ。上部に文字盤があり、下部はガラス戸で大きな振り子か規則正しく左右に揺れている。写真でも見た通り、がわは木製で、ウサギの飾り彫りが見て取れる。その隙間を縫うように渦を巻く螺鈿細工が散りばめられていた。

 文字盤は漢数字の大字で表記されていた。俗にいう『難しい壱』だ。数字は黒い文字だが『四』だけ螺鈿細工が使われていた。

 とても良い時計に見える。まあ、久流家螺鈿は怪異の器を作るという点を除けば、腕は確かなようだし、物としてはこの時計も良いものなのだろう。

「見た目はいいよな……趣があるっていうか」

「確かに」

 不用心に怪異に近づいたと思われるかもしれないけれど、勝算があってこの家を訪れている。この時計は、家に入った瞬間、牙をむいてくるような怪異ではないという判断だ。

 家を頻繁に訪れている柿畑や平坂に影響は見られない。また怪異との接触時間を考えてもお手伝いである平坂に影響が出ていない点は注目すべきだ。

 私たちの推測では、怪異が影響を与えるポイントはおそらく二つ。家に住んでいること、もしくは家族であること。このどちらか、または両方が怪異現象の引き金になっていると考えている。

「触っても大丈夫だと思うか?」

「……たぶん」

 燈火がゆっくりと時計に手をかける。私は耳を澄ました。耳鳴りに変化はない。

「大丈夫そう」

「じゃ開けるわ」

 振り子が収められているガラス扉を開く。扉の内側をじっくりと観察していく。

「……あった。久流家螺鈿のサインだ」

 扉の内側の下の方に、細い針のようなもので『久流家螺鈿』と書かれていた。久流家作品には作者のサインがついている。こうした内側や目立たないところにそれとなく書かれていることが多い。

「確定だな」

「そうね」

 七篠さんにサインの写真とともに『久流家螺鈿の作品でした』と連絡しておく。

「このサインがある以上、これは久流家十二支シリーズでしょう」

 ウサギの意匠に、文字盤は『四』だけが強調されている。『卯』は十二支の四番目だ。

「後はどういう怪異が宿ってるか、だな」

「……気がかりなのは柿畑に聞こえなかった声らしきものが、私たちには聞こえたことね」

「単純に怪異慣れしてるからじゃないのか?」

「可能性はあるわね」

 怪異に触れたものは次の怪異を引き寄せやすい。超常があると知ってしまうと、それに気づきやすくなる。カラーバス効果は怪異にこそ顕著に表れると個人的に思っている。

 知らないものは存在しない。知ってしまったらそれはどこにでも存在している。

 怪異を見つけたとき、怪異もまた私たちを見つけるのだ。

「あたしたちは立場的には柿畑さんとか平坂さんと変わりないはずだ。本来なら直ちに怪異の影響を受けるとは思えないけど」

「わかってるわ。でも注意はしててね。おそらくこれは認識に侵食してくるタイプよ」

「ああ。お互いに異常を感じたら引っ張ってでもすぐに出て行こう」

 ガラス戸を閉めて燈火が立ち上がる。

 玄関の方でガチャガチャと音がした。

「帰ってきたみたいだな」

「ずいぶん早いわね……」

 燈火と私が玄関の方へ顔を向けた瞬間、ふいに耳鳴りが大きくなった。

「っ!」

「穂澄?」

 玄関扉が開く音が聞こえる。

 そして。


 ××ぇ×。


「今のはっ!」

「また」

 さっきと同じような声が聞こえた。あまり聞き取れないが、さっきよりは音が鮮明な気がした。

 よくない兆候だ。

 怪異の力が強まっているのか、私たちが怪異に馴染んできているのか……

 廊下を歩く足音がして、恵比寿沙織がリビングに入ってきた。

 そのまま周りには目もくれず、私たちの方へ歩いてくる。

 燈火が一歩前に出たが、それには頓着せず、沙織は歩みを止めない。

 私たちに向かっている? いや……

「違うわ」

 燈火に避けてもらう。私も道を開けるように一歩引いた。沙織は私たちを気にした様子もなく、私たちの背後にあった時計の前まで歩いて行った。

「ただいま」

 沙織は時計の前で立ち止まり、とても優しい声で、時計に向かって帰宅の挨拶をした。

「姉さん……」

 遅れてリビングに入ってきた柿畑が小さく呟いた。

 私たちは顔を見合わせた。





 恵比寿邸から場所を移して、近くにあった公園に移動した。日は暮れて辺りは暗くなっている。

 辛うじて街灯の明かりが届く、猫の額みたいに狭い敷地に二台のブランコだけがある貧相な公園だった。あたしたちの他には誰もいないので、穂澄とそのブランコを占拠して恵比寿邸での出来事を振り返った。

「異常だったな」

「そうね。家族じゃないような気がするっていう意味がよくわかる」

 穂澄がため息をついた。

 気持ちはわかる。あれは不気味だった。

 あの後、息子の恵比寿拓君が小学校から帰ってきたが、その彼もまず時計の元へやって来て「ただいま!」と元気よく言っていた。母親である沙織さんは無視していたし、沙織さんも拓君に何の声もかけていなかった。

 拓君はあたしたちのことも無視して、リビングで宿題を始めた。その頃には沙織さんも夕飯の支度を始めていた。青白い顔をした平坂さんと一緒に。

 そして、その後、恵比寿克太さんが帰ってきたが、これまた同様に帰宅の第一声は時計に向かっての「ただいま」だった。妻も子供の客人も無視して時計に声をかける。

 一家はそのまま何事もなかったかのように夕飯を食べだした。会話はなく、視線は交錯することもない。テレビはついていたが、誰も見ておらず、彼らの視線は時計ばかりを気にしていた。普通なら時計を気にする、という場合、それは時間を気にしているってことだが、彼らはまるで、時計とご飯を共にしているかのように見えた。

 平和に見える、あまりにも歪な家族の形。

 そんな様子を見て、平坂さんは青い顔で逃げ去るように家を出て行ったし、詩織さんも引きつった表情であたしたちを見ることしかできていなかった。

 あの場ではどうすることもできなかったので、詩織さん共々一時退避することにした。

 玄関先で詩織さんと時計関連について情報を共有した。入手先や、外出時の沙織さんの様子を穂澄が詳しく確認を取っていた。

 調査結果をまとめてみると詩織さんに説明し、彼女を自宅へ帰らせた。

「どうかお願いします」

 縋りつくような声音で彼女は頭を下げていた。

「……あの時計は家族に語りかけているわね」

 ブランコを揺らすことなく穂澄が言った。

「ああ。三回目は割とはっきり聞こえたからな。あれは『おかえり』って言ってる」

 そうだ。あの時計は家族が帰宅するたびに『おかえり』と言って迎えている。彼らはそれに応えて「ただいま」と時計に告げている。

 あたしたちにも聞こえていた謎の声は、回数を重ねるごとに鮮明になり、克太さんが帰って来た時には、あたしの耳でも違和感はあったが「ぉかぇり」と聞き取ることができた。

「年老いた女性のような声……何というか、嫌に優しい声だったわ。猫なで声とも違う……獲物に狙っていることを悟らせないようにするための声みたいな、優しいけれど、嫌な感じがした。同時に甲高い耳鳴りが聞こえている以上、悪意というか、家族を取り込もうという意思はあるのでしょうね」

 穂澄はより鮮明に聞き取れたようで、苦々しくそう言った。ブランコの鎖を握る手に力が入っている。

「おそらく、あの怪異の本来のターゲットは『家に住んでいる人間』ね」

「家族じゃなくて?」

「この場合は家族でもいいけど、厳密にはたぶん違う。例えば、あの家に下宿している人間がいたら、同じように取り込まれていると思う」

「その心は?」

「帰宅よ。概ね『おかえり』って言葉は、住んでいる場所に帰って来た時にかけられる言葉だから」

「なるほど……『おかえり』って声をかけられるシチュエーションでこそ、声が聞こえてしまうってわけか」

「そう。家族で括るなら、柿畑にも声が聞こえてもおかしくない。血がつながっているはずの柿畑に聞こえない理由はおそらくこれ。彼女にとって恵比寿邸は『おかえり』と声をかけられる場所じゃない。恵比寿邸を訪れても、彼女には『おかえり』なんて言葉をかけられるっていう意識がない。だから怪異の声が聞こえない」

「じゃあ、平坂さんもだな。あの人にとって恵比寿邸は職場なんだ」

「たぶんね。平坂も『あの家に帰る』意識はないんだと思う。だからこそ『おかえり』が聞こえるとも思ってない。もしかしたら住み込みだったら違ったかもしれないけど」

「あたしたちにも聞こえたけど、それはやっぱり怪異に対する感受性が強いから?」

「そこも確証はないけど、状況を整理するならそうね。私たちにも『おかえり』なんて言われる謂れはないもの……そうなると住んでる人間を狙って、というより無差別に声をかけているのかもしれないわね。万が一、声が聞こえた人間が返事でもしたら大変なことになるかも」

「返事か……」

「聞こえるだけならそこまで大きな問題じゃないんだと思う。現状は私たちにも聞こえているけど、別にあの時計を大切に思う感情なんてわかないしね。『おかえり』に対して『ただいま』と返事をすることによって、はじめて侵食が始まるんじゃないかしら」

「時計の侵食があるとして、あの家族の認識は今、どうなってると思う?」

「そうね……おそらくだけど、家族の一員……みたいな感じかしら。時計をかなり重要視するようになっているのは確かよ」

「あのザマじゃそうだろうな。ただ、時計を気にかけているとは言っても、一定の限度があるよな。なんて言えばいいんだ……こう、時計だけが大事、時計がないと生きていけない、みたいな空気はない気がする」

「言いたいことはわかるわ。恵比寿家は時計をとても大事に思わされている。他者への関心が極度に薄まるほどに、あの人たちの中では時計の存在が大きくなっている。ただし、依存しきっているわけではない。あの人たちは日常生活を続けている。夫は仕事に出ているし、妻は家事をしている、子供はちゃんと学校に通っている」

「そうだ、一定レベルの生活が出来てるんだ」

「それ自体はいいことだけど、これはよくないことでもあると思う」

「というと?」

「日常生活ができるってことは、家を出る機会が多いってこと」

「そうか。その度に家に帰ってこないといけないのか」

 あたしは思わず腕を組んだ。

「むしろ日常生活を続けさせることが重要なのよ。そうすることで確実に人を虜にできる」

 恵比寿家は日常生活を送り、家に帰るたびにあの時計が発する『おかえり』という『毒』を浴びることになる。

「これが、徐々におかしくなっていった理由になると思う。あの時計はゆっくりと着実に人の意識を蝕んでいくんだわ」

「……最終的にどこまでいくんだろうな」

「それはわからないけど、ろくなことにはならないでしょうね」

 それこそ、時計にすがって時計なしでは生きていけなくなる可能性だってある。

「引きはがせればいいけどな。イケると思うか?」

「どうかしらね……もちろん、隔離するなら早い方がいいと思うけど」

 詩織さんの話じゃ、あたしたちの依頼で連れ出された沙織さんは用事を済ませるとすぐに帰りたがったらしい。

「すぐに帰りたがったって話だったから、用事がある場合しか時計から離れていられないってことだよな」

「そこまでは侵食が進行しているって証でもある」

「無理に引きはがして精神持つか?」

「わからないけど、それしか方法がないならそうなるでしょうね。最悪どこかに入院する必要もあるかもしれない」

「ま、それで済めば安いよな」

「柿畑に連絡しましょう。この方向で進めるしかないって。やるなら最速ね」

「わかった」

 いったん帰ってもらった手前申し訳ないが、あたしは詩織さんの電話番号を打ち込む。非通知設定で電話を掛けるが、詩織さんには連絡は非通知になると伝えてある。

 一回のコールで彼女は電話口に出た。

「こんばんは。〈ハッピー探偵社〉のホムラです。柿畑詩織さんですか」

『はい。どうかされましたか?』

「さっき別れたばっかりで申し訳ないんスけど、今後の方針についてご相談があります」

『そ、それはどういった?』

「お姉さん一家を助ける方法についてです」

『……あの、直接話を伺うことは可能ですか。一人で聞くのはちょっと怖くて』

「あー……」

 ちらっと穂澄を伺う。彼女は頷いている。

「問題ありませんよ。場所はお任せします」

『では……』

 詩織さんはここからほど近いファストフード店を指定してきた。

「すぐに向かいますね」

 通話を切る。

「じゃあ、行きましょう」



 夕飯には少し遅い時間のせいか、店内に客はまばらだった。ついでに遅めの晩飯をと思って購入したバーガーを乗せたトレイを持って辺りを見まわす。

「いた」

 隅の四人掛けテーブルで所在なさげに座っている詩織さんを見つけた。

「こんばんは」

「こ、こんばんは」

 声をかけるとびくりと肩を震わせる。テーブルには口をつけていなさそうなジュースだけがあった。

「別れたばかりで申し訳ねぇス」

「いえ」

 穂澄とともに詩織さんの対面に腰かけた。

「調査結果をまとめたところ、早い処置が必要であると判断しました」

 穂澄がトレイを脇に追いやって、詩織さんの目を見つめる。

「一度、簡易的な報告をさせていただきます」

 穂澄はよどみなく、状況と推定される原因について語った。

 穂澄の説明はわかりやすい。依頼人を排したような淡々とした冷たい語り口だが、その方が伝わりやすいだろうという判断だ。あたしたちは普通ならありえないような状況を説明しなければならないことが大半だし、それにはドラマティックさよりもシンプルなのが効果的だ。

「――というわけで、恵比寿家の人々を一刻も早くあの時計から離す必要があると思われます」

「……その、無理に引き離しても大丈夫なのでしょうか」

「わかりません。説明した通り、引き離すことによって、状況が悪化する可能性はあります。時計を探し始めたり、時計がないことに怒りを覚えたりする可能性が考えられます。逆に徐々に落ち着いたり、正気に戻る可能性も高い」

「…………」

「しかし、このままでは状況がよくなることはありません。間違いなく悪化の一途をたどるでしょう」

「な、何か方法はないんですか! 安全に正気に戻す方法はないんですか?」

「保障は出来かねます。現状、我々が相対し、恵比寿家が直面している怪異現象は推定事項ばかりです。状況により一部確定事項としてもいいとは思いますが、何が起こるか予想はつきません。私たちの相手は、常識では測れない異常現象なのです」

「そんな……」

「慰めになるかわかりませんが、類似のケースではうまく行くことも多いことはお伝えしておきます」

 詩織さんはうなだれてしまった。

 あたしは黙って彼女を見つめる。穂澄も表情を変えずに彼女を見ている。詩織さんからは見えない、膝の上で握りしめた拳だけが穂澄の感情を物語っていた。

 依頼人にとってはあまりにも酷な話だ。つらつらと語ったが、要するにどうなるかわかりません、としか言ってない。そう思われても仕方ない。

 でも、あたしたちも嘘は言えない。依頼人にどう思われても、あたしたちは最悪の可能性を伝えなければいけない。

 怪異に相対するならば、本当に何が起こってもおかしくないから。

 極論を言えば、時計から引きはがした瞬間、あの人たちが爆散する可能性だってある。何が起こってもおかしくないっていうのは、こういうレベルの話だ。

 しばらく詩織さんはうつむいて黙っていた。

 あたしたちはずっと何も言わずに、彼女が顔を上げるのを待った。

「……わかりました。こうするしかないんですね」

 顔を上げた詩織さんの目には力が戻っていた。不安を隠しきれてはいないが、さっきまでのように震えていない。

「はい」

 あたしたちは頷く。

「お願いします。あの時計を姉さんたちから引き剝がしてください。よろしくお願いします」

「わかりました。時計を引き取るという形になるでしょう。すべてこちらで手配しておきます。おそらく明日の午前中には準備が整います。準備ができ次第、またご連絡させていただきます」

「はい、よろしく……よろしくお願いします」

 詩織さんは唇を噛みしめ深々と頭を下げた。


「ふー……」

 詩織さんを見送り、彼女の姿が見えなくなったことを確認した穂澄が息を吐いて、背もたれに寄り掛かった。

「お疲れ」

「燈火もね。毎度のことだけど、はぁ……私たちが無力なのを実感するわね」

「仕方ねぇよ」

 あたしたちにできることには限りがある。

 すっかり冷めてしまったバーガーを頬張る。冷めるとうまさが半減する。たぶん今の気分の問題もあるのだろうけど。

「とりあえず、七篠さんに連絡しましょう。たぶん手筈は整えてくれているでしょうし」

「おっけ」

 あたしはスマホを取り出して七篠のおっさんに通話を繋いだ。もちろんスピーカーにしている。

『七篠だ』

「お疲れさんっす」

「七篠さん。御崎(みさき)です」

 穂澄と代わるがわる七篠のおっさんに状況を伝えた。

『状況は把握した。君たちの策が最も効率的で安全だろう。久流家作品だと確定したから〈ホープダイヤ〉の二人に連絡済みだ』

「……わかりました。場所と時間を伝えておいてください」

『わかった』

 それだけ言って七篠のおっさんは通話を切った。

「……まあ、出てくるわよね」

 穂澄が苦虫を嚙み潰したような顔でバーガーを頬張る。

 仕方ない。穂澄はあの二人というか、内一人が苦手だからな。

 大方の予想通り、七篠のおっさんは手筈を整えてくれていたようだし、明日の昼までにはこの件は片が付くだろう。

 どちらに転ぶのかは今のところ不明だけど。






「ども~」

 泊まっていたビジネスホテルの前にでかいワゴン車が止まっていて、その前で派手な服を着たヒッピーみたいな女が手を振っていた。マントかポンチョかと見間違うような無駄なひらひらがはためいて、額には複雑な文様がびっしり刺繍されたバンダナが巻いてあり、飾りとして小ぶりなドリームキャッチャ―が三つほどぶら下がっている。そして、全体的な胡散臭さを倍増させている丸いサングラス。

「…………」

 無意識に燈火の影に隠れてしまう。

 私はこの人が苦手だ。

「ああ、どうもウユウさん」

 燈火が苦笑いしながら前に出てくれる。本当にいつもごめん。

「ひっさしぶりだね~。どう、元気?」

「まあ、ボチボチっスかね~」

「ぼちぼちか~大いに結構だねぇ~」

 ウユウさんはニタニタ笑いながら頷いている。

 年齢不詳。実際のところ、年齢どころか個人情報については大体のところが不詳だ。さして背が高くない私よりも頭二つ分は低い背丈。見た目は子供同然なのに、嫌に鋭く、軽薄な言動とは裏腹に、時々心内を見透かすようなセリフを吐く。

 この胡散臭さの擬人化みたいな女が〈ホープダイヤ〉の主ウユウだ。

 このウユウさんが経営する〈ホープダイヤ〉は骨董屋だ。少なくとも表向きは骨董屋で通っている。ただ、裏の顔をとして呪物を取り扱う専門家としての一面がある。

 収集しているのか破壊しているのかはよくわからないが、そういう超常にどっぷり両足を突っ込んだ妖しい店だ。

 おそらくは七篠さんの古くからの知り合いで、私たちの調査の結果何らかの呪物の類が出てきたときはよく引き取ってもらっている。

「じゃあ、早速行こうか~。二人とも乗って乗って」

 ウユウさんに促され、ワゴン車の後部座席に乗り込む。ウユウさんは助手席に乗り込んでいた。

 運転席には筋骨隆々の男性がいる。〈ホープダイヤ〉唯一の従業員、叙堂(じょどう)さんだ。立派な禿頭。ノーネクタイのスーツがはち切れそうな体格。無表情かつ無口。年齢は不詳だし、たぶん、この人が喋っているところを見たことがない。

「あ~叙堂さんもオハザマス」

「…………」

 燈火の挨拶は無視される。いつも通りだ。

 ウユウさんと違って、この人はそんなに苦手じゃない。見た目の威圧感こそすごいが、それに慣れれば黙っていてくれる分、ウユウさんよりずっと好ましい。

「久流家だって?」

 ワゴン車が恵比寿邸に向けて走り出す。

「そっスね。七篠のおっさんから聞いてるでしょ?」

「まぁね~。久流家はいつぶり?」

「しばらく当たってねぇス」

「まあ、あんまりポンポン当たってたらやばいもんね~。んで、問題の〈卯時計〉はどんな感じ?」

 それから車で走ること十五分。その間の会話はすべて燈火に任せ、私は叙堂さんと同じように車内に居座る置物と化していた。

「ここか」

 恵比寿家の前で車から滑り降りるウユウさん。

「でかい家だねぇ~金持ちだ」

 玄関先には詩織さんが待ち構えていて、すぐにこちらに歩み寄ってきた。

「おはようございます」

「オハザマス!」

「どうもどうも~。わたくしめは骨董屋〈ホープダイヤ〉のウユウと申します。問題の品物を安全かつスピーディに引き取らせていただきます」

 ウユウさんの腰は低いが、そのあまりの胡散臭さに詩織さんの顔が若干引きつっている。

「あ~……大丈夫っス。一応、信用できる商売人です」

 燈火がフォローを入れる。不審げな眼差しを向けられてもウユウさんはどこ吹く風だ。

「では、こちらにどうぞ。一刻も早くあれを持って行ってほしいです」

「沙織さんやご家族はどうしてます?」

「克太さんと拓君は仕事と学校で、姉さんは平坂さんに無理を言って連れ出してもらっています。でもいつ帰ってくるか、わかりません」

「了解っス」

 詩織さんの後に続いて玄関をくぐる。前を行く燈火の肩がピクリと震えた。玄関に入ったから時計に声をかけられたに違いない。

 玄関に足を踏み入れると耳鳴りがする。

 そして――


『おかえり』


 柔らかな優しい、それでいて毒々しさが隠れる声音。こちらを気遣っていて、帰ってきたことを喜んでいるような、そんな声だ。何も考えずに返事をしてしまいそうな――

「た――ッ⁉」

 反射的に、叩きつけるように右手で口をふさいだ。

 今、私は何を……⁉

 冷や汗が噴き出る。燈火が慌ててこちらを振り返っている。

「だい、じょうぶ」

 無事だということをアピールするために頷く。

「どうした? 本当に大丈夫か?」

「ええ。大丈夫、今は何ともないわ……でも、口が勝手に動いた気がする」

『ただいま』と言わされかけた。強引に、というよりも、ごく自然に口から挨拶がこぼれ出たような感覚。

 思っていたよりも危険だ。

 声を認識した人間に返事を促す力があるのかもしれない。

「とう――ホムラ」

 立ち止まった私たちを詩織が不安そうに見ている。思わず燈火と呼びそうになったが寸のところでこらえる。

「どう聞こえた?」

「……今までで一番鮮明に聞こえた。ナギサの言ってた嫌に優しいって感覚がわかるぐらいに」

「……気を付けて。次はたぶん、もっと危ない。口を開かされるかもしれない」

 燈火に注意を促しておいて、背後のウユウさんを伺う。玄関の前に立っているが、サングラスのせいで表情は読めない。

 彼女は黙ったまま玄関の敷居を越えた。

 微かなパキッという音がして、ウユウさんの頭のドリームキャッチャーが一つ壊れた。

 ウユウさんは黙ってそれを拾い上げ、何事もなかったかのようにこちらに歩いて来た。

「……何か聞こえましたか?」

「ぃんや? 全然」

 隠しているだけか、それとも本当に聞こえなかったのかわからない。まあ、この人は大丈夫だろう。私たちよりもずっとベテランなのだから。

「こちらです」

 リビングに通される。

 ウユウさんはズケズケと時計に近づいて行った。

「ああ。これですね」

 十秒ほど時計を見つめていたウユウさんだが、突然こちらを振り返った。

「これでしたら今すぐ、問題なくお引き取りできると思います」

「ほ、本当ですか?」

「はい~。ああ、代金は結構ですよ。タダでお引き取りします。叙堂」

 叙堂さんが無言で進み出て、時計の前に梱包用のシーツを広げ始める。そのまま筋骨隆々の体を生かしてテキパキと時計を運び出せるように包み始めた。

 耳鳴りの大きさに変化はない。この表現が適切かどうかはわからないが、時計はされるがままだ。

 ものの数分で時計は搬出準備が整った。

「ホムラちゃん」

 ウユウさんが手招きする。この人は人前では偽名を呼んでくれる。

「あたしっスか?」

「手伝ってあげて」

 叙堂さんと燈火で時計を家の外に運び出す。そのまま何事もなく、時計は〈ホープダイヤ〉のワゴンに積み込まれた。

「こ、これで大丈夫なのですか?」

「そうですねぇ~。元凶はこの通り運び出しましたからね」

「ありがとうございます」

 詩織さんは深々と頭を下げる。

「後は……柿畑さんでしたっけ? あなたにお任せします」

「え? 私が? 何を?」

「お姉さんが帰ってきたら『おかえり』と言ってあげてください。まやかしの挨拶ではない、家族が家に帰ってきたときに言う『おかえり』を玄関で伝えてください」

「……わかりました」

 詩織さんが家の中に戻る。

「あたしらはステイね~。いちおう、結果見てから去ることにする」

 ウユウさんにそう言われて、恵比寿家の外で待機した。

 しばらくすると沙織さんと平坂さんが一緒に帰ってきた。平坂は目礼をくれたが沙織は私たちには目をくれず玄関扉に手をかけた。相も変わらず、こちらを意識した様子がない。

 私たちはその姿を見守る。

 沙織が玄関に入ったところで急に動きを止めた。そこに詩織が声をかける。

「姉さん! おかえり!」

 ビクッと沙織が震える。

「……詩織? あれ? あたし今何を……あんた、なんでここに」

 背後からでもわかる。今までのぼんやりした言葉じゃない。

「姉さん‼」

 詩織が泣きながら姉に飛びついた。




「じゃあ、行こっか」

 正気に戻った沙織を確認した後、諸々の説明を(私と燈火が)行った。まだ沙織は多少ぎこちなさが残っていたが、おそらく日にち薬でよくなっていくはずだ。

 おそらく息子と夫も同じような経過を辿れるだろう。

 しきりに頭を下げてくれる詩織を適度にかわして、恵比寿邸を後にすることになった。〈ホープダイヤ〉の車を回してもらう。

 後部座席のドアに手をかけたとき、助手席の窓が開いて、ウユウさんが顔を覗かせた。

「穂澄」

「な、なんですか」

「唇は噛んでおくといいよ」

「はい? 何……っ!」

 まさか……。

 言われた通り、唇の内を噛みしめて車に乗り込んだ。


『おかえり』


 まだ聞こえる。

「…………」

 声が出ることはなかったが、唇が震えるのがわかった。

 なんていう強制力。しかも強制を感じさせない最も質の悪いタイプ。

「燈火……気を付けて」

 私の様子から察しはついていたのだろう、燈火も口を真一文字に結んで車に乗り込んできた。

「……思わず答えそうだ」

「家に帰ってくるのを待つような上品な手合いじゃなかったのかもねぇ。一定の空間で手あたり次第に呪いをまき散らしているのかな? それとも一回聞こえたら見境なしかねぇ?」

 ウユウさんが平然と言ってのける。

「この車ですら帰る場所に認定するとはたまげたね。流石、久流家作品ってとこだねぇ~」

「…………」

 少なくともまた乗り込むまでは大丈夫なはずだ。

 正直、できるならすぐにでも時計から離れたい。こんな呪いを何度もまき散らすようなえげつない呪物と一緒に居たくない。

「ま、依頼は解決でいいんじゃない? 原因は突き止めたし、あの家族も元に戻ると思うし、丸く収まるってもんだよ」

 ウユウさんの言うことはわかる。気分的にはすっきりしないけれど。

「……嫌な呪いだ」

 燈火がポツリと呟いた。

「おかえりって言葉は、安心できる言葉だろ。それが時計に心酔させて、依存させることに使われるなんて」

「はは。感傷的じゃあないか。むしろ、だからこそ、だろう? 捕食者は獲物の安心に付けこむもんだからねぇ。実に久流家作品らしい呪物だよ。久流家の中期作品群としてはオーソドックスだ」

 バックミラー越しの丸いサングラスの奥で『知ってるだろう?』というように眉が持ち上がる。

 知ってはいるが、あえて返事をしたい話題でもない。

 気のせいだろうが、背後からねっとりとした空気を感じる。後ろに積んである時計から何かが伸びてきているような。

 私はシートに体を預けることができず、背筋を伸ばしたまま座るしかなかった。


「んじゃ、またね~」

 〈ホープダイヤ〉の車で駅まで送ってもらってウユウさんたちと別れた。時計は静かなもので、車から降りても何も言わなかった。もちろん、迎え入れるときに発動する怪異なのだから当然なのだろうけれど。

「はあ……疲れた」

「お疲れさん」

「燈火も」

「まったく、薄気味悪い呪物もあったもんだ。だから久流家の案件は嫌なんだよな」

「そうね。でも、あの時計がなにか、みかんの件で役に立てばいいんだけど」

「だな」

 わかっている。望みは薄い。あの時かけられた呪いと、今回の時計は無関係だ。同じ製作者の手を経たというだけ。内容も何もかもが違う。

 それでも、と願わずにいられない。

「たぶん、そのうちなんかわかるさ、きっと」

「……私たちの『おかえり』の出番はもう少し先になりそうね」

 気味の悪さや毒々しさの欠片もない、純粋な喜びだけの『おかえり』を言おう。燈火と二人で、みかんが帰ってきたときに。

 また三人で笑い合うために。


ハッピー探偵社調査報告書(保管用 №509)〉

 名称:おかえり時計


 カテゴリー:呪物


 危険度(S~D):A


 報告: 被害者宅にして発見された時計。恵比寿邸に住む家族は〈おかえり時計〉の呪いにより時計への依存度が極度に高まっている状態であった。家庭に対する帰属意識が薄れ、時計に対して愛情を注ぐような行動が見られた。


推察: 家のような一定の空間に対して帰属意識を持った対象が足を踏み入れることで呪いが発現する。『おかえり』と声をかけ『ただいま』と返答させることで呪いを深め、徐々に意識を侵食し、時計に対して依存させる。返答には無意識的な強制力が働いており、口を開かないよう意識する必要がある。帰属意識がなくとも感応性の高い対象には声が聞こえるケースが確認されており、一度声が聞こえた対象に対しては見境なく声をかける続ける。状況から呪いが完全に浸透するにはかなりの時間がかかることが予測されるが、侵食力は強く、静かに進行するため発見が困難である。


対処: 家庭内から〈おかえり時計〉を撤去。呪いが完全に浸透していなかったおかげか、依頼者の家族は正気を取り戻している。〈ホープダイヤ〉の管轄下に移行。


 特記: 久流家螺鈿の作品。中期作品として作製された〈久流家十二支シリーズ 時計〉の〈卯〉である。〈ホープダイヤ〉の追加調査により、時計の前の持ち主であった一家は衰弱死していることが確認された。いくつかの家を転々としながら、ことごとく破滅へと追い込んでいる。最も古い記録では枢木花子という人物が持ち主になっている。当該人物は自らの屋敷で孤独死している状態で発見された。


 調査担当:伊刈燈火。御崎穂澄。

 補足:〈ホープダイヤ〉ウユウ。


 依頼:完遂にて終了。


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