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穿石の滝

「報酬はいつも通り、三対七だ」

 七篠(ななしの)のおっさんはいつも通りにそう言った。よれた量産品のスーツを痩せた体にまとい、無精ひげの目立つ顎を撫でる。銀縁眼鏡の奥の妙に鋭い眼光があたしたち二人を見つめている。

 あたしはソファにだらしなく座ったまま訊ねる。

「額は?」

「二百五十万。だから君たちの取り分は百七十五万だ」

「うーん……危険度はどんな感じ?」

 考えるふりをして訊ねてみる。どれだけ危険だろうが、あたしたちは依頼を受ける。受ける必要がある。一人頭八十万ちょっとなのは少し渋いけど。

 でも、金が要る。

 あたしたちには金と情報が必要だ。

「今のところ、死者は一人だ」

 七篠のおっさんはそう言いながら肩をすくめた。

 ハイハイ、裏があるってことね。まあ、ここに来る依頼に裏がない方がおかしいのだけど。

 ここは七篠のおっさんがオーナーを務める探偵社だ。〈ハッピー探偵社〉とかいう胡散臭くて、クソみたいな名前がついていることを除けば、地方都市の小さな雑居ビルに居を構えている、殺風景な事務所に過ぎない。七篠のおっさんの安っぽいデスクとあたしたちが座っているソファと低いテーブルという形だけの応接セット。申し訳程度の観賞植物。唯一威圧感というか、違和感があるのは壁際にずらりと並んだ本棚とそこをパンパンにしている資料ファイルぐらいだ。

 総じて、みてくれは何の変哲もない雑居ビルのワンフロアに過ぎないが、取り扱う依頼は普通とは異なる。

 ここは怪異現象専門の探偵社だ。怪異、怪物、心霊、祟り、なんだかよくわからないモノ。そんな不可思議な出来事を専門に調査している。

「一人ね……で、詳細は?」

「その前に、鹿峯滝(ろくほうそう)って知ってるか?」

「ろく……なんて?」

鹿峯ノ滝(しかみねのたき)でもいいが。まあ、通称が一番有名か。『穿石(せんせき)の滝』ってやつだ」

「何、要するにどっかの滝ってこと?」

「ああ。あの穴ぼこの」

 あたしの隣で穂澄(ほずみ)が頷きながら言った。この子はあたしの相棒である御崎穂澄(みさきほずみ)。艶やかな黒髪ショートカットの少し背の低い可愛い女の子だ。あたしと違って大人しい感じだし、あたしの百倍頭がいい。趣味は料理でセンスがいい。

 あたしはまあ、プリンみたいな配色になりつつあるくすんだ茶髪を適当にテールでまとめた、ガサツなヤンキー女だ。いや、ヤンキーだったのは昔の話だけど。名残はある。

「奇観で有名な場所よ。こんなところよ、燈火(とうか)

 穂澄がスマホを差し出してきた。

「うわっ、気色悪っ」

 スマホの画面には小さな滝とその周囲の岩肌に無数に空いた穴が映し出されていた。大小さまざまなタコ焼き器みたいな穴が不規則に並んでいる。集合体恐怖症とかだと一発で気分が悪くなりそうな光景。あたしは恐怖症ではないが、それでも全身がむずがゆくなった。

「気持ちわるー……なんだよこれ」

「滝の水滴が長い時間をかけて石を穿ってできた景色らしいわ。すごいけれど、ちょっとあれね」

 穂澄も苦笑いだ。好きな奴は好きなんだろうが、この景色はどうしても不気味さが先に来る。

「で、ここがどうしたわけ?」

 スマホから七篠のおっさんに視線を戻して訊ねる。

「死体が出た。六日前の話だ」

「警察呼ぶべきじゃん」

「呼んだかどうかは知らないが、たぶん呼んでないだろう」

「ふーん」

 まあ、妥当。ここに来る案件じゃ普通のことだ。

「とりあえず、こっちの説明を聞け」

「はーい」

 七篠のおっさんは表情を変えることなく続けた。

「依頼者は〈鹿峯(ろくほう)景観保全協会〉だ。要するに地元の自治組織なわけだが、自分たちの管理する場所で、死者が出たということでウチに依頼があった」

「はい、質問!」

 元気よく挙手する。七篠のおっさんは視線だけであたしに先を促した。

「過程をすっ飛ばしすぎじゃね? なんで初っ端の依頼場所がここなんだよ?」

「簡単な話だ。保全協会の一部の人員からの依頼だからだ。派閥か、年代による軋轢か、一部の人員の暴走に近い行動でウチに話が回ってきた。依頼者と話した感触では、おそらく年代による軋轢だろう。依頼者は保全協会の中でも若く、正義感にあふれたやつなんなんだろう。事実として、保全協会の副会長から依頼の撤回が来た」

「で、あんたの対応は?」

「撤回は断った。ウチのスタンスではないからな」

 〈ハッピー探偵社〉は依頼者本人からの撤回依頼しか受理しない方針だ。家族だろうが友人だろが、代理人だろうが、今回のように同じ所属の協会員からであろうが、それは変わらない。

「その事実だけでもうすでに臭いよな」

 何かあるっていうのがプンプン臭う。

「依頼者の代表は藤守(ふじもり)という男だ。藤守が言うには、協会上層部は今回の件をもみ消すつもりらしい。地元警察にはすでに手が回っていて、話にならず、上層部からの圧力のせいでなかなか調査依頼ができる場所がない。最終的に、ウチにお鉢が回ってきた、ということだ。事件から日数が空いての依頼なのも内部で揉めていたせいだろうな」

「保全協会ってそんな悪の組織みたいなことすんのかよ」

「金回りはいいんだろう。有名な観光地を管理する団体だしな。バラまいていても不思議はない」

「やな話だねぇ」

「依頼内容は死因の原因究明だ」

 ついに本題だ。正直、依頼者の背景なんてどうもいいけど、ここは真面目に聞かなければならない。隣の穂澄も元々正していた姿勢をより正したのが分かった。

 ここまでの話はあくまで普通だった。薄汚い話ではあったが、常識で語れる話だ。そんな話がここに流れてくるわけがない。ここに来るだけの理由がどこかにあるのだ。協会が隠したい、どこも取り合ってくれないような理由が。

「被害者は保全協会員の一人、座倉圭史(ざくらけいし)。藤守の友人だ。ここも藤守が熱くなる理由なんだろう。死因は頭部外傷。死体は滝の傍で発見された。見つけたのは藤守や座倉と近しい協会員だが、それはどうでもいい」

 七篠のおっさんはデスクの引き出しから中身の入ったクリアファイルを取り出した。

「座倉の頭部には一ヶ所だけ傷があった。周囲の岩肌と同じ、半球状の傷跡がな」

 七篠のおっさんがこちらに近寄ってきて、クリアファイルを差し出した。穂澄が手を伸ばして受け取る。あまり見たくはなかったけど、あたしも隣から覗き込んだ。

 グロ画像だ。被害者の右側頭部のやや後方から、まん丸に穴が開いている。耳の上半分がすっぱり消え、頭蓋骨もきれいさっぱり、灰色がかった脳みそまで丸見えだ。例えとしては最低だが、アイスクリームをすくうやつでぽこん、と抉られたような形。確かにさっき見た景色の穴とそっくりだ。

「完璧にくり抜かれてる……耳も頭蓋骨も関係なく」

 穂澄が食い入るように印刷された写真を見つめている。

「長い年月をかけて形成されるはずの跡と同様の傷跡で死んだ理由。これを解明するのが、今回の君たちの仕事だ」

 ああ、なるほど。そう考えれば、確かに普通じゃない。〈ハッピー探偵社〉の案件だろう。




 次の日。私たちは七篠さんから正式に依頼を受け、現地に向かっている途中だった。朝早くに家を出たのに、もうお昼前になっていた。いくつも電車を乗り継いで、今は山間を走る聞いたこともないローカル線に乗り込んでガタゴト揺られている。

 私の隣には大切な相棒が座っていて、同じように電車に揺られていた。私、御崎穂澄の友人、伊刈燈火(いかりとうか)だ。髪染めが抜けてきているせいでまだらになった茶髪をラフにまとめ、すらりと長い手足を組んでいる。私と違い背が高くて、勝気ではあるけれど、人当たりがいい快活な女の子で、私の十倍は運動能力がある。趣味はボクシングで才覚に恵まれている。私はまあ、地味な感じの、友人以外にはコミュ障などこにでもいる根暗キャラよ。

 昔からそう。二十二歳になっても変わらない。

 時間帯のせいか、場所のせいか電車には、私たち以外二、三人しか乗っていなかった。私は天井から吊られて揺れる『穿石の滝が待っている!』という広告をぼんやり眺めていた。

「依頼入って助かったな。これで今月分は足りるだろ?」

「うまくいけば十分足りるわ。これで貯金を崩さずに済むわね」

「減らないに越したことないからな~」

 彼女の言う通りだ。正直な話、私たちはいくらでもお金が欲しい。頑張って貯めてはいるが、それでもいつもまだ足りない気がする。

 ガタン、と電車がカーブで揺れた。私たちはまた同じように体を揺らした。

 燈火がつぶやく。

「……みかんのやつ、いつも通りだったな」

「そうね。寝てるみたいだった」

 幾度となく繰り返されてきた会話を飽きもせずに、私たちは繰り返した。昨日、七篠さんの事務所から帰る途中で、彼女のお見舞いに行った時も同じような会話をした。仕事の前はいつもこうだ。半ば、儀式めいた行為になっている。しかし、この会話は私たちにとって必要なことなのだ。仕事をする理由を再確認できる。きっと燈火もそう思っている。

 みかんは私たちの友達だ。とても大切な友達だ。だからこそ、この確認も大切なことなのだとそう思う。

「とっとと終わらせて、ちゃっちゃと払っちまおうか」

「うまくいったらの話だけどね」

「悲観すんのはやめとこう。とりあえず行かなきゃ何にもわからないしな」

 燈火はいつものように笑った。人を安心させることができる温かい笑みだ。

「そうね」

 私は頷いた。

「もうすぐ着くわ。今回も頑張りましょう」

「ああ」



 もうすぐ着くと言ってしまったが、電車は中々目的の駅に着かなかった。単純にスピードが遅いこと、あとは駅の間隔がすごく長い。山間の線路だからだろうか。やっとのことで目的の駅の名前がアナウンスされ、私たちは第一の目的地に到着した。

 ホームに降りて辺りを見回す。

 古く、寂れた駅だった。ボロボロになったコンクリートと錆が浮いた金網。初夏の前の木々も生憎の曇天でくすんで見える。山間のせいか少し肌寒い。私は開けていたウィンドブレーカーの前を閉めた。

「……荒れ放題じゃん」

 同じように辺りを見回していた燈火が言う。

「観光地だって言ってたから、もうちょっと活気あるかと思ってたけど、想像の十倍寂れてるな」

「ベストシーズンでもないでしょうし、夏場はもう少しマシだとは思うけど」

「それにしてもじゃね?」

「厳密に言うならここは観光地ではないわけだし、仕方ないのかも」

 誰もいないホームを進み改札口を目指す。一応、有人駅らしくかなり高齢そうな駅員が一人だけいて、窓口からこちらを見ている。張り出された時刻表のスカスカ具合を横目に見ながら改札口を通り抜けた。

 目の前には雄大な自然。山と緑が視界を占める。曇天とうっすらかかる霧のせいで、爽快さは感じられないが、その分神秘的にも見える。

 駅前は比較的新しく見えた。大きなロータリーとバス用の駐車スペースがいくつかあり、ここが観光地の玄関口であることを示している。しかし、今のところバスは一台も止まっておらず、タクシーが一台と白いバンが一台停まっているだけだった。

 ということはおそらく、バンの方が迎えなのだろう。

「さーて、依頼者はあのバンにいるってことでいいよな」

「たぶんね。駅で待ち合わせの予定だし」

 時間に遅れたわけでもない。左手首の内側の腕時計にちらっと眼をやる。とある猫とネズミのキャラクターが十一時四十分を指していた。子供っぽいが代物だが、昔、みかんからもらったものだ。とにかく頑丈で、仕事の際は重宝している。

 向こうも私たちに気付いたのか、バンの両側の扉が開いて、二人の人間が降りてきた。男女が一人ずつ。作業着の上から白いレインパーカーを羽織っている。

「こんちわ。藤守サンっスか?」

 燈火が気軽に声をかける。向こうは少々驚いた表情で答えた。

「はい。ハッピー探偵社の方ですね?〈鹿峯景観保全協会〉の藤守です」

 たぶん三十代前半ぐらい。結構大柄で筋肉質な男だった。短く刈り込んだ頭とさわやかと言ってもいい顔つきに黒縁の眼鏡が乗っている。

「こちらは三曽木(みそぎ)です」

 藤守の隣の女性が頭を下げた。きれいに染められた茶色の髪をポニーテールにまとめ、気が強そうな切れ長の目に若干の不信感をにじませてこちらを見ている。

 まあ、いつものことだ。調査に来た人間が、若い女二人だと人は不安になるらしい。

「どーも。あたしは〈ハッピー探偵社〉のホムラです」

 燈火は〈ハッピー探偵社〉を言いにくそうに言った。気持ちはわかる。どう考えても〈ハッピー探偵社〉という名前は胡散臭い。ハッピーじゃない事件ばかりを扱うのに、七篠さんはどうしてこんな社名にしたのやら……。

 そして燈火が名乗った〈ホムラ〉という名前は偽名だ。偽名というと聞こえが悪いが、要は仕事用のコードネームのようなものだ。物騒な仕事なので、私たちは業務期間中、基本的に本名を名乗らないことにしている。

「こっちは……」

 燈火がこちらを示したので、会釈とともに名乗る。

「ナギサです」

「お待ちしていました。はるばるご足労をどうもありがとうございます」

「いえいえ。仕事っスからね」

 挨拶はこの辺でいいだろう。

「ホムラ」

「おう。じゃ、さっそくで申し訳ないんスけど、現場に案内してもらえます?」

 燈火はにこやかに笑って言った。

「はい。もちろん」

 私たちの荷物を積み込んでから、藤守の運転で、バンは駅から出発した。私たちは後部座席に乗り込んでいる。

「現場までどんくらいっスか?」

「車で後一時間ぐらいですね。そこから徒歩で山道を四十五分ほどです」

 むう……分かっていたけれど、山道を四十五分もかかるのね。燈火はともかく、運動が苦手な身としてはやや気が重い。普段から運動してないわけじゃないけれど、体を動かすこと自体が苦手なのよ……。

 心の中でため息をつく。気分は盛り上がらないが、二人とも歩く装備に問題はない。防水の上下に固く締めた作業靴。とにかく動きやすさを優先させている。

「それだけ時間あるなら……すんません、腹ごしらえしてもいいっスかね?」

 燈火が片手を小さく上げて問いかける。藤守は快活に笑って答えた。

「どうぞどうぞ。昼時ですからね。お弁当でも用意しておけばよかったですね」

「いーえ。では遠慮なく……」

 燈火はリュックからおにぎりを取り出した。今朝がた私が作ったおにぎりだ。塩じゃけのほぐし身とちりめんじゃこと三つ葉をごま油で和えたもの。もう一つは塩コショウをまぶし、具にから揚げを使用したもの。

 燈火はラップをめくって、大口でかぶりついた。そして、私に向けて、前から見えないように親指を立てる。

 よかった。おいしいみたい。

 それを見ながら私も自分の分を取り出した。しかし、この時間を食事だけに使うのはもったいない。私はラップを剥きながら問いかけた。あまり人と話すのは得意ではないけれど、仕事だと割り切ればまだましだ。

「藤守さん。事件情報の確認をしておきたいのですが、よろしいですか?」

「はい」

 藤守は少し緊張した面持ちに変わる。

「ではまず……」

 私は七篠さんから聞いた情報を一つ一つ藤守に確認していった。あの人が嘘をつくわけないけれど、確認しておくことに意味がある。

 聞き取りの結果に話に食い違いはなかった。

 不自然な遺体が見つかったこと、警察はほとんど捜査をしていないこと。滑落事故として処理したい上層部と揉めたため、依頼が遅れたこと。

「事故の可能性はねーんスか? もちろん、それも調べますけど。藤守さんの感触として、事故の可能性ってどんぐらいあると思います?」

「……正直わかりません。ただ、普通の転落事故や落石事故とは考えられません」

 燈火の問いに藤守は苦虫を嚙み潰したような表情で答える。

 確かに普通の事故とは考えにくい。あの傷跡を見れば明らかだ。あんなものが自然にできるとは思えない。人為的か超常的な力が働いたとみるべきでしょう。

「落石はなかったように思います」

 助手席の三曽木が言った。

「私が座倉さんを発見したのですが、その時、周囲にはそれらしき岩はなかったと記憶しています。ただ、あの時は動揺していたので、絶対に間違いないかと言われると断言はできませんが」

 なるほど。藤守が彼女を連れてきたのは、三曽木が第一発見者だったからか。七篠さんが言っていた藤守や座倉に近しい、っていう協会員が彼女というわけだ。確かに状況を把握するには役立ちそうね。

「ご遺体の発見時刻は?」

「午前八時を少し回っていたと思います」

「ずいぶん早い時間に現場に行かれているのですね」

「あの日は私の当番でしたから」

「我々は持ち回りで朝夕の見回りを行っています。普通なら観光客の受け入れが九時からなので、その前に何事もないか確認します」

 藤守からフォローが入った。それはまあ、なんともご苦労なことね。観光地というのも楽ではないみたい。

「ということは座倉さんが事件前夜の見回り担当だったのですか?」

「いいえ。その時の担当者は別で、彼女はきちんと戻ってきました」

 違う?

「……では、座倉さんがその場にいた理由は」

「わからないのです」

「そうですか……」

 気になる話ではあるけれど、これが事件に関与しているのかはまだわからない。単純に座倉という人物が夜の滝が好きな酔狂だって可能性もなくはない。

「心当たりなどもないのですね?」

「そうですね……協会関連の仕事とも思えません。まあ、座倉は『穿石の滝』が大好きでしたから、しょっちゅう登ってはいたようですが、それでもあの時間に一人というのは……」

「座倉さんはしょっちゅうというほど、滝を見に行っておられたのですか?」

「ええ。ほぼ毎日登っていたんじゃないかな」

「それほど? いや、失礼に聞こえたら申し訳ないのですが」

「まあ、不思議な話に聞こえるのはわかりますよ。しかし〈鹿峯景観保全協会〉はそんな者がばっかりですけどね。『穿石の滝』の魅力に取りつかれ、他所から移住して入会している協会員も多いんです。座倉もそうでした」

 ……酔狂な人物だったのかもしれない。さっきの妄想が的を得ているのではないかと思ってしまった。

「実を言うと私もなんですが」

「同じくわたしも」

 藤守と三曽木が照れたように言う。

「そうなんですね」

「ええ。お二人もきっと気に入ってくれると思います。事件なんかの調査でなければもっとよかったのですが」

「『穿石の滝』には言葉では言い尽くせない魅力があります」

 熱っぽく二人は語る。

 その熱意にはついていけそうにない。写真を見た限り、不気味な景色にしか見えなかった。それとも実際に見れば何か変わるのだろうか。

 車が山道に入り、少し気持ち悪くなってきた。山道の車は苦手だ……。私は前の二人に断って、目をつむって耐えることにした。

 代わりに燈火が何か話し始めたが、私はあまり会話を聞く余裕がない。

 後で聞こう。



 幸いにも車酔いはさほど悪化せず、私たちは無事に目的地にたどり着いた。

「大丈夫か?」

 燈火がこちらを覗き込んでくる。私は苦笑いで答えた。

「うん……歩ける程度には大丈夫よ」

 数十台のバスが優に停まれそうな広大な駐車スペースに車は停まっている。砂利にロープで目印を付けただけのスペースではあるけれど、広いことは間違いない。しかし、私たちの乗ってきた車しか停まっていないので、とても寂しい印象が拭えない。

 山道から解放されたので、思いっきり伸びをして体をほぐしておく。

 天気は変わらずの空模様だ。雨が降っていないのが救いね。

「では、こちらへどうぞ。ご案内します」

 藤守に促され、渦中の滝へと続く道へ案内される。山道の入り口には〈鹿峯滝はこちら。受付〉と看板が掲げられた建物がある。本来はここで入場料なりを払うんでしょうね。

「観光名所なのに全然、人いねぇのな」

『穿石の滝へようこそ!』表記され、ソフトタッチな滝の絵が描かれた看板とその下を流れる浅い川を横目に燈火がつぶやく。

「仕方ありません。あの事故の後から一時的に観光客の受け入れは止めていますから」

「それってまずいんじゃねっスか?」

「ホムラさんの言う通り、とてもまずいです。シーズン前とはいえ観光業は大打撃、協会上層部にも厳しい批判を浴びています。ただ、協会員の半数以上が座倉の件を放っておけないと判断しています」

「人死に出てるっスからね」

「ええ。座倉は友人です。このまま原因もわからない事故にはしたくない。あいつのためにも真実が知りたいのです。上層部の対応はあまりにも不誠実だ。このままでは協会がダメになってしまいます」

 そう語る藤守の後に続いて山道へ入った。頭上を木々が覆い、辺りがすっ、と暗くなる。耳を澄ませたが、風に擦れる葉の音や、鳥の鳴き声が聞こえるだけだ。

「しかし、上層部の言うことも一理はあります。確かにこれ以上、観光客を止めるのは難しいのも事実です。この辺りは『穿石の滝』で食っているのですから」

「できる限り頑張ります」

 朗らかに言う燈火が、ちらりと確認するようにこちらを見た。私は微かに首を横に振った。燈火も目だけで頷いて、また前を向く。

 私は山道の横を流れる川に目をやった。川幅は一メートルほど。流れもそこまで速くない。水の透明度が高いので深さは目測ではわからないが、そんなに深くは見えない。おそらくこの川の上流に滝があるのだろう。

 水に不自然なところは見当たらない。もう一度耳を澄ましたが、流れる音が微かに聞こえるだけだった。

 今は問題なさそうね。

 そこからは黙々と歩いた。雄大な自然で、緑は目に優しい。空気は澄んでいるし、景色自体も悪くない。もう少し天気が良くて、事件現場に向かうという目的でなければもっと楽しめたでしょうに。

「もう少しですよ。あの急勾配を越えて曲がった先が『穿石の滝』です」

 どのぐらい歩いたか、藤守の言葉が聞こえた。

 そう。やっとなのね。そう……あれを越えないといけないのね……。

 顔を上げた、その時。

 パチンッ!

 という奇妙な音が微かに聞こえた。何かが破裂したような、何か弾けたような音だ。

「なんだ?」

 燈火にも聞こえたようだ。素早く辺りを見回している。

「ああ、大丈夫ですよ。『岩鳴(いわな)き』ですね」

 藤守が言った。

「イワナキ?」

「この辺りは、比較的脆い地層がある場所でして。転がっている岩の中にも風雨で欠けたりするものがあるんですよ。そういう岩が割れたり、滝から落ちたりして他の岩にあたって鳴る音を『岩鳴き』と呼ぶんです。鹿峯滝ではよく聞く音です」

「へぇー」

 燈火は感心したように頷いているが、その目は周囲を油断なく観察していた。私は彼女に向けてもう一度、微かに首を振った。

 音は一瞬だった。それ以降は何も聞こえていない。

 この地域特有の自然現象ということだろうか?

「ほら、着きましたよ。〈鹿峯滝〉通称『穿石の滝』です」

 最後の関門を乗り越えて、目の前に現れたのは目を疑うような光景だった。

 写真では見たけれど、実際に見ると感じ方も違うものね。

 滝自体はそこまで大きくない。滝としては水量も少ないし、落差も五、六メートルといったところか。滝の上部は細い岩が張り出し、樋のようにせり出している。そこを流れる水は弧を描き、落ちていく。そして、滝の中腹辺りから突き出した巨大な岩にあたり、周囲に水飛沫を上げている。飛沫を上げ流れ落ちる滝は岩の下でまた合流し、さっきまで見ていた川に連なる。

 何より異様なのは、やはり滝の周囲だろう。辺り一面、滝の飛沫が届く範囲一面に、あの穴ぼこが空いている。半球状のつるりとした穴。滝つぼを取り囲む岩、滝の後ろの岩肌、少し離れた苔むした岩、果ては倒木や立ち木にまで、大小とりどりの穴が開いていた。

「うおう……実際見ると、やっぱとんでもねぇな」

「そうね……」

「すごいでしょう? これぞ自然の神秘ですよ!」

 藤守は興奮したように言うが、私はそこまで感心できなかった。確かにすごい光景ではある……けれど、はやり神秘を感じるよりも不気味さを感じてしまう。見ていると不安になるような光景だ。

 私と燈火はしばし立ち尽くした。そんな私たちを藤守は満足げに見ていたけれど、彼の思惑と私たちの感想にはかなり隔たりがある。

 まあ、知らぬが仏ね。

「……じゃあ、ホムラ。調査を始めましょう」

「ああ。わかった」

 燈火が体の前で、右手の人差し指を立てる。私は藤守と三曽木にそれが見えないように、さりげなく体を割り込ませる。

「…………」

 変化はない。ちら、と燈火の顔を伺うと、今度は彼女が微かに首を横に振った。

 なるほど。今のところ、ここに超常の気配はない、と判断できるってことね。

「では藤守さん、調査を始めます」

「はい。お願いします。なんとか座倉の死の真相を、お願いします」

 少し不安げに藤守は言った。それはそうだと思う。何しろ、私たちの調査がどのようなものなのか、彼には何もわからないのだから。

 それにしても、藤守は〈ハッピー探偵社〉をどう思っているのだろうか。ここまで話した感じでは、怪奇現象専門なんて微塵も思っていなさそうなのだけれど……単に不思議な謎を解決してくれるとでも思っているのだろうか。七篠さんは藤守に対して、意図的にそのあたりをぼかしているような気がする。もしくはどこも調査を受けてくれなかったから、受けてくれた探偵社に飛びついただけ?

 ただ、七篠さんが依頼を受けた以上、ここには何かある。それは間違いない。

 私はリュックからタブレット端末を二台取り出して、一台は三脚に固定して定点で、周囲の録画を始める。もう一台は持ち歩いて録画するためのものだ。

「ちなみに、座倉さんはどのあたりで倒れていたのですか?」

「あの岩の辺りです」

 三曽木が滝の近く、飛沫が届くあたりにある、穴だらけの大きな岩を指さした。そこに近づくには山道から外れ、立ち入りが制限されているであろう木造の柵と黄色と黒のロープを越えなければならない。

「近づいてもいいっスか?」

 燈火が藤守に許可を求める。藤守は数舜、迷った後で答えた。

「荒らさないようにお願いしますよ。必要以上に触れないでください」

「そりゃもちろん」

 燈火は作業用の手袋をはめて、柵をまたぐ準備をしている。彼女の手袋は改造されており、人差し指の部分がチャックで開くようにできている。今は指がむき出しだ。

「ホムラ。気を付けてね。間違っても滑ったりしないでよ」

「わかってるよ。大丈夫」

 燈火がロープを越える瞬間を凝視していたが、幸いにも彼女の右人差し指に変化はなかった。

 ふむ……あのあたりも安全、ということでいいはずだが、少し腑に落ちない部分もある。しかし、今は判断材料が少なすぎる。

 燈火の身に差し迫った危険がなさそうだと判断し、私は周囲の状況を録画しながら、じっくりと観察し始めた。

 まずは場所について。歩いて来た山道はここで途切れている。滝を鑑賞できるように、道の突き当りは少し、開けた構造になっている。今、私がいる場所だ。観光客がいればにぎやかなのでしょうけれど、今は滝の水音しか聞こえない。

 そして、広場の周囲を柵とロープが取り囲んでいる。この辺りまでは飛沫が飛んでこない。それを越えると穴の空いた岩が目立ち始める。そして、滝つぼと川の源流があり、上から滝が流れている。後ろは切り立った岩壁。そこからは登れそうにない。壁にも穴が開いているので、とっかかりはたくさんあるが、滑って掴めやしないだろう。

 できれば滝の上の方も確認したいのだけれど……。山道の方から大きく迂回すれば登れるだろうか。私は無理だが、燈火なら登れるかもしれない。

 周囲の観察はこんなものでいいでしょう。私は録画を回しながら、燈火の後を追った。まずは近場にある例の穴ぼこを観察する。

 耳を澄ませるが、滝の音以外は聞こえない。……大丈夫そうだ。

 アップで録画した後、自分の目で穴を観察する。

 切り口はきれいな円形。跡はきれいな半球。とても滑らかだ。まるで研磨したかのようにつるりとしている。時々、水飛沫が飛んでくるので、表面は湿っている。

 ……本当にこれが自然にできるというの?

「ナギサ」

 座倉が倒れていたという辺りを調べていた燈火から呼ばれた。穴から顔を上げて、そちらを見る。燈火は折り畳み傘をさしていた。あの辺りは結構な頻度で飛沫が届くのだろう。

「何かあったの?」

「いや。何もない。血痕もないし、倒れてたとわかる痕跡もない。あの姉ちゃんが教えてくれなけりゃ、絶対わかんなかったと思う」

「……そこはあまり重要ではないけれど、火は?」

「まだどこもつかない」

 私たちは小声でやり取りする。

「音はどうだ?」

「何も」

「そっか。なんだろうな、時間帯か? 期間、天候とか?」

「わからないわ」

「うーん……いったん、上を調べようかと思うんだ」

「いいけど、気を付けてね。怪異がらみはなくても、落ちたら大怪我じゃすまないわよ」

「わかってるさ。こんなとこで死ぬわけにはいかないし」

 燈火はひらひらと手を振って、藤守のもとへ駆けていった。上に登れるルートを確認するのだろう。滝の音のせいで会話はあまり聞こえないが、しばらくやり取りした後、燈火は三曽木とともに山道を戻っていき、途中で道なき道を登り始めた。

 あっちは任せましょう。

 私はまた周囲の観察に戻った。岩肌を仔細に観察し、藤守に許可を得て、苔や水を小さなスピッツに保管したりした。これで何かがわかるとは思っていないが、調査らしさを演出するための小道具だ。場合によっては何かわかるときもある。

 川にせり出した木に空いた穴を録画していると、燈火の声が聞こえた。

「おーい」

 声のする方を向くと、さっきいた道なき道の辺りから燈火と三曽木の姿が見えた。燈火はこちらに駆け寄ってくる。

「どう――」

 燈火に声をかけようとした瞬間、低い機械音のような「ぶぅううううん」という耳鳴りが響いた。思わず顔をしかめる。

「っ!」

 燈火が慌てて駆け寄ってこようとしたが、私はすぐに左手を上げた。

 それを見て燈火の足が緩まる。

「なんだそいつらは‼」

 静かだったこの場に突然、怒号が響き渡った。山道の方から藤守や三曽木と同じ作業着を着た初老の男が、怒りに顔を歪ませながら近づいてきていた。

「なんだ、貴様らは‼ 藤守‼ これは何の真似だ⁉」

天野(あまの)さん……」

 藤守が苦々しげにつぶやく。

 おそらく協会の上層部の一員なのだろう。藤守とは反目している集団の一人。

「三曽木までっ……。まったくお前はっ!」

 三曽木はバツが悪そうに眼をそらす。

「藤守、勝手に外部の人間を呼ぶなと言ったはずだな⁉」

「調査を依頼すると言ってあったはずです」

「わしは許可した覚えはない!」

「協会の規定に則って、必要な人数での決議がありました! 座倉は協会の人間ですよ? 有耶無耶にしろというんですか?」

「有耶無耶になどなっておらん! 事故だ! 転落か落石かはわからんが、事故だったんだ! 警察もそう判断しただろう!」

「それはあんたらが誘導したせいでしょう!」

 二人はだんだんとヒートアップしていく。私は耳鳴りに耐えながら、猿のように喚く二人を見ていた。

「貴様らも貴様らだ! 依頼は断ったのに、勝手にやってきおって! どこの馬の骨とも知れん小娘どもが、この場を汚すんじゃない‼」

「あたしらは正式に依頼を受けて来てんだよ、クソジジイ。すっこんでろ」

「なんっ」

 天野とかいう爺さんは一瞬言葉を失った。あたしたちをひるませようと怒声を浴びせたのだろうが、燈火がひるむはずもない。私は受け流すだけだが、燈火はそうじゃない。

「依頼人はちゃんといる。許可は得てる。誰にも文句を言われる筋合いはねぇな」

「ワシはここの協会の副会長だぞ⁉ 神聖なこの場を汚されているんだ。文句を言う権利がある‼」

「この場を汚してんのはお前の暴言じゃねーの?」

「知った風な口をきくな、お嬢ちゃん。ここは有名な観光地なんだ。ただの事故にわけのわからん理由をつけられて、評判が落ちたらどう責任を取ってくれる?」

「悪いけど、それはあたしの知ったこっちゃない。協会の副会長様なんだろ? 責任はあんたがとるんだ、おじいちゃん」

 爺さんの頭から立ち上る湯気が見えるようだった。

「帰れ‼ 今すぐに‼」

 負け惜しみにしか聞こえない遠吠えで、爺さんは喚く。燈火が何と返すか気になるところではあったけれど、あまり長引かせてもいいことはない。ここらで私が口を挟むべきだろう。

「わかりました。今日は引きあげます。藤守さん」

「え、はい」

「私たちは一度、戻ります。探偵社に試料を持ち帰って、明日一日かけて分析し、結果を明後日伝えに来ます。それでよろしいですか?」

「え、あ、はい」

 燈火が録画していたタブレットや三脚を片付け始めている。

 さっさと歩き始めた私と燈火の後を、慌てて追いかけてくる藤守と三曽木。その後ろから爺さんの怒号が追いかけてきた。

「二度と来るな‼」




 あたしたちは藤守サンが手配してくれていた宿泊施設の前に立っている。さっきの滝から車で二十分ほどの場所に立つ戸建ての宿泊施設だ。この辺りには協会が管理している宿がいくつかあるらしい。流石、観光地ってことなんだろう。

 傍若無人なジジイとやりあって、山道から戻ったあと、あたしたちは藤守サンの車でここまで送ってもらった。

 さっき駐車場でした会話を思い出す。

「すみません、ウチの協会の者が」

「まあ、いいっスよ。あれが無礼なのは藤守サンのせいじゃないんで」

 ずっと恐縮していた藤守サンに適当な言葉を返す。

「それで、もう帰られますか。駅までお送りします」

「いえ。それには及びません。申し訳ありませんが、宿泊できる場所はご存じですか? 知っていれば教えていただきたいのですが」

「え?」

「さっきの発言は嘘です。ああ言っておけば、天野さんは私たちがもう一度来るのは明後日だと勘違いするでしょう? その隙を利用して、明日はご遺体の発見時刻にもう一度滝へ行って調査します」

「あ、そうですか」

「元々、二日は調査できるように準備してきたので、問題はありません」

 穂澄は平然と言った。ナチュラルにジジイを騙したわけだが、まったく心が痛まないね。

「それと追加で、協会には事故の記録なんかはありますか? この辺りの死亡事故や行方不明などの記録があるならば調べてきてほしいんです。個人情報は不要なので、どこで何があったか程度でかまいません。お願いできますか?」

「はあ、その程度であれば調べることは可能ですが……」

 藤守サンさんは不審げだが頷いてくれた。

 そのあと、いくつかやり取りがあって、明日の集合時間なんかを決めたあと、迷惑をかけたという理由で、この宿を紹介してもらったのだ。

「大丈夫か?」

 玄関口で藤守サンから預かった宿の鍵をもてあそびながら隣の穂澄を伺う。

「ええ」

 ここに来るまでの車酔いとジジイの敵意に晒されたせいで若干顔が青いが、大丈夫というからには問題ないんだろう。

 扉を開けて、宿泊用に持ってきてた荷物を引っ張り込む。パワープレイはあたしの担当だ。穂澄はというと、無言で扉を閉め、そのまま両手を耳に当てて、聞き耳を立てる体勢を取った。あたしは黙ってそれを待つ。穂澄はそのまま靴を脱いで、部屋の中へ進んでいった。部屋の中で聞き耳を立てていた穂澄は三十秒ぐらいでこちらを向いて言った。

「大丈夫。何も聞こえない。盗聴も盗撮もないわ」

「オッケー」

 あたしも穂澄に続いて部屋に入った。

 穂澄には一つ、能力がある――正確には後遺症だが――それは『悪意や敵意、害意を向けられると耳鳴りがする』というものだ。耳鳴りなので聞き耳を立てる必要はないはずだが、穂澄は集中して感知したいときによくそうしている。

 此岸の存在、生きてる人間、その他生物、通常範囲の悪意は低い耳鳴りがするらしい。あの滝でジジイが登場する前に顔をしかめたのは、あのクソジジイの敵意が耳鳴りとして感知されたからだ。そして、彼岸の存在、超常、怪異、幽霊、心霊。この世ならざるモノからの悪意は甲高い耳鳴りとして感知される。穂澄が左手を上げたら低い耳鳴り、右手なら高い耳鳴りが聞こえた合図だ。その精度はすこぶる高い。こうして部屋に仕込まれている盗聴器なんかも発見できる。盗聴するってことは、侵害されるってことで、それに穂澄の耳が反応する。

 なんでこんな超能力じみた力があるのかと言えば、これは後遺症だからだ。あたしたち三人は高校生活の終わりに怪異現象に巻き込まれた。

 いや、正確じゃないな。怪異現象に好奇心で足を突っ込んだ、が正しい。その結果、あたしと穂澄には後遺症が残り、みかんは意識不明になった。

 苦い苦い後悔だらけの記憶だ。今も悩まされる。穂澄は生き辛いだろうし、みかんは今も昏睡状態で入院中だ。

 くそったれめ。

 今はやめよう。ほかに集中するべきことが山積みだからな。

「1LDKか。いいね」

 部屋を眺める。ダイニングキッチンと畳の居間。たぶん奥の押し入れに布団があるのだろう。普通に観光客が使うだけあって、立派なもんだ。

「風呂もトイレも異常なし。まあ、あるとは思ってないけどね……あの爺さんの敵意が強烈だったから、警戒だけはしておきたくて」

「おう、ありがと」

「先にシャワー浴びるね」

「いいよ~ごゆっくり」

 穂澄はお風呂セットと着替えを持って、着ていた登山装備を脱ぎ散らかしながら、風呂場へ向かった。明日も同じ服を着ることになるので、散らかしたままなのが効率的って考えなわけだが、単純に無精なだけだな。

 あたしは服を脱いで、適当にハンガーに引っ掛けた。インナー姿で荷物をあさり、自分の風呂セットを用意してから、食料をテーブルの上に並べていく。風呂から出てきた穂澄が適当に準備してくれるだろう。と言っても、ほぼレトルト食品だけど。

 穂澄が風呂から出てくるまで少し時間がある。タブレットを取り出して、この辺の死亡事故について検索をかけて時間をつぶした。どうやらあの滝以外にも、登山で有名な山があるらしく、そこでは年一、二回の滑落事故が起こっているらしかった。これが多いのか少ないのか、あたしには判断できないな。ただ、ニュースになるのがこれだけなら、実際はもっと多いんじゃないかと思った。まさかすべての事故が報道されるわけじゃないだろう。しばらくネットサーフィンして、いくつかの記事をまとめ、タブレットを対面の座席の前に滑らせた。

「お先」

 頭にバスタオルを乗せたまま穂澄が風呂から出てきた。緩いパーカーとはきつぶしたスウェット姿。顔にはレンズの大きい黒縁眼鏡がかかっている。

「じゃあ、あたし入るわ」

「うん……ああ、ありがとう」

 テーブルの上のタブレットに気付いたのか、穂澄はそう言った。

「暇だったからな」

 あたしはそう言って風呂へ向かった。

 風呂から上がるとコーヒーのいい香りが部屋中に広がっていた。穂澄は大のコーヒー党なので、当然と言えば当然だ。

「あーさっぱりした」

 脱ぎ散らかされていた服は申し訳程度に部屋の隅にまとめられていた。あたしは髪の毛をバスタオルでひねり上げた、水色のジャージ姿で穂澄の対面に座った。テーブルには熱々のパックご飯とレトルトカレーの袋が置かれている。中央には小さなタッパーがあって、いくつかのミニトマトが入っていた。

「じゃあ、ご飯にしましょう」

「いただきまーす」

 あたしと穂澄は同じタイミングで、パックご飯の中身を半分に折り、空いた空間にカレーを流し込んだ。

「うん、イケる」

 たまに食べるレトルトカレーっておいしいよな。

「燈火、食べながら始めよう」

「ああ」

 いつものように事件の検討会が始まる。



「あたしから。まずは一番重要なことだけ伝えとく。滝の上の画像は見ただろう?」

「ええ」

 行儀は悪いが、あたしと穂澄の間にはタブレットが三台置かれている。あたしと穂澄、それと定点で録画していた分。それを見ながら話を進める。

 滝の上は洞窟のようになっていた。水流はその洞窟の奥から流れて来ていた。ただ、洞窟といっても実際は、ただの横穴だ。人が通れる大きさもないし、入り口には覗き込めるだけの空間があったが、あとは水で埋まっていた。あたしは滝の上で撮った画像を呼び出して続けた。

「この洞窟っていうか、穴の中で、小さいけど火がついた」

「そうなの?」

 穂澄の片眉が持ち上がる。

「ということは、怪異の大本はそこってことからしら? あの穴ではなく上なのね」

 これがあたしの能力、後遺症だ。あたしは、怪異現象が発生する場において、指先から火が出る。火と言ってもライター程度なのだが。怪異現象が直接起きていなくても、ただその場が、何らかの神霊的、怪異的な力場であれば私の指先は点灯する。

 正直、穂澄やみかんと比べると、後遺症というのはおこがましい。二人は日常生活に影響が出ているが、あたしはそんなことない。そういう場に近づかなければ何の問題もないからだ。どうしてあたしだけがこんなもので済んでいるのかはわからない。

「たぶんな」

「オーケイ。あの場は何らかの怪異があって、七篠さんの見立て通り、この事件は怪異がらみで引き起こされたと確定させていいわね」

 まあ、七篠のおっさんが見誤る可能性は無茶苦茶低いだろうけどな。

「それ以外はいたって普通の光景だった。あの穴ぼこも空いてないかったし」

「大本は別だとしても、やっぱり、あの穴ぼこが怪異現象の結果なんでしょうね。どう考えても、あの景色はおかしい。あまりにも形が整いすぎている。大きさの差はあれど、形には目に見える差違がなかった。どれもこれも大きいか小さいだけ」

「だからこそ、不気味なんだろうな」

「そうね。そんな景色が自然にできるはずがない。あの光景が自然由来ではない、超常現象であるという根拠を上げていくわ。意見があれば言って」

 あたしは頷く。

「まず、世界に滝は数あれど『穿石の滝』と同じ光景が見られる滝はない。少なくとも私が調べた限りヒットしなかった。根拠一、『あの奇観は『穿石の滝』特有である』」

「たぶん、ないんだろう。だって、ここが有名なら、似たような場所が便乗しないはずがない。不気味だろうが観光資源にはなるし」

「根拠二の前に、前提確認。あの穴の来歴は滝の飛沫によって時間をかけて作られたものっていうのが藤守の説明だったし、どこで調べてもそう書いてある。普通、水滴が岩に穴をあけるなら、同じ場所に何度も何度も、気が遠くなるような時間をかけてぶつかり続ける必要がある。でも、これを見て」

 穂澄がタブレッドを差し出してきた。穴の一つが拡大されて映され、飛沫がかかる様子が映っている。早送りの映像だが、しかし、これは……

「……同じ場所に当たってるとは言えないな」

「そう。この映像は十五分ぐらいだけど、それでも飛沫が一定の場所だけに当たっている様子はないの。間違っても、こんなきれいな形になるような当たり方じゃない。本来ならもっと歪な穴になるはずなのよ。ゆえに、根拠二。『この穴は飛沫で形成されていない』」

「異論はない」

「この穴は岩だけじゃなく、木にもできている。これは極めて不自然よ。現場では違和感を覚えなかったけど、木は岩と違って成長する。長い年月をかけて、同じ場所に飛沫が当たり続けるなんて天文学的確率だわ。そして被害者の頭の傷も同様の穴だった。これも長い時間がかかるっていうことはあり得ない」

「そりゃそうだ。一晩で死んでるわけだしな」

「だから、根拠三。『穴をあける原因は対象の材質に関わらず、同様の痕跡を残す』。そして、被害者の状態から推察を重ねれば、『穴が形成される時間は、早ければ一瞬、遅くとも一晩で形作られる』」

 穂澄は指を一本立てた。

「以上を以って結論。あの滝には物体に穴をあける怪異が存在する」

 そこまで言って、穂澄は難しい顔で腕を組んだ。

「ただ、この結論は前提のようなものなのよね。怪異が原因だとして、一体なぜ穴が開くのか全く分かってないってのが問題だけどね。今回の依頼は穴が開く原因を見つけることだから」

 確かに穂澄の言う通りだ。今の話は、怪異の性質を突き止めたに過ぎない。

「しかしまあ、あれが自然現象ではありえないって結論がでたのは悪くない。あたしらが動く大前提だからな」

 七篠のおっさんが依頼を受けた時点で、九割九分は怪異がらみのはずだが、確認は大切だ。

「とにかく何かがあるってことはわかった。滝の水がおかしいのかと思ったけれど、反応はなかった。水に異常があるなら、私の耳か、燈火の火があの場で反応してもいいはず。観察した限り、水は普通に見えたのよね」

「水が穴をあけるんなら、もっと穴だらけになる気がするな」

「そう。それも水自体が怪異じゃない証拠なのかなって思ってる」

 穂澄がカレーをかきこむ。

「燈火は? 何か気づいたことある」

「気づいたことというか……なんか違和感があんだよなぁ」

 基本的に話をまとめ、推察するのは穂澄の役割だ。あたしは補強をするだけなんだが、何かを見逃している気がする。

「いつから?」

「いや、具体的にはなんとも……」

 あたしは自分で撮った写真をスワイプしながら、カレーを口に運んだ。

 暗くなった外が一瞬、強烈な閃光に晒された。間を置かずに轟く雷鳴。そして叩きつけるような雨音が聞こえ始めた。

「雨、降ってきたわね。明日の朝までに止めばいいけど……まあ、調査中に降り出さなくてよかったわ。この雨脚だと、調べるのも苦労したと思うし」

「確かに。滝の上に登るもの一苦労だっただろうぜ」

 そんなことを言っていると、ちょうど写真が滝の上から撮ったところに入った。滝の上から真下を撮った写真には張り出した岩と、その下で作業している穂澄が映っていた。

 ん? なんか変だ……何がおかしいんだろう? 違和感が……

「あ」

「どうしたの?」

「これ見てくれ」

 あたしはタブレットを穂澄に差し出した。

「上から撮った写真ね。これが?」

「岩がきれいすぎる」

「……なるほど。確かに」

 タブレットを食い入るように見つめていた穂澄が呟く。

 あの滝には中盤に巨大な岩が突き出ている。写真に写っている岩がそうだ。その岩に滝が当たって、飛沫を上げている様子が映し出されている。その下には穴だらけの岩が転がる中に穂澄がいる。問題なのは中盤の巨大な岩だ。

 この岩には激しく水流がぶち当たっているが、岩肌には穴ぼこ一つ空いていない。つるりとして滑らかだ。

「この岩がきれいなのが違和感の正体だと思う。周りが穴だらけなのに、こいつが無事なのはおかしい。なんか理由があるはずだ」

「そうね。岩の見た目は下の穴が開いている岩と違うように見えない。となると、下の岩にだけ穴が開く理由があるはず。何かしらの法則が……待って、これは……」

 ブツブツと穂澄は呟き始める。頭がフル回転している証拠だ。

「この範囲で……となると、上の状況は……いや、それより下が……」

 穂澄が自分のタブレットを引き寄せてスワイプしまくる。

「あ、やっぱりそうだ」

 目当ての一枚を見つけたらしく、画面を凝視している。

「……燈火の言う通り、この岩が怪しい。見て」

 二つのタブレットが差し出される。一枚はあたしが撮った上からのもの。もう一枚は穂澄が撮った滝を下から見上げたもの。

「穴はこの岩の下に、この岩から飛沫が飛ぶ範囲に集中している。たまに外れているものもあるけど、よく飛んだと考えれば許容範囲。でも、この岩の上の壁には極端に少ない。そして極めつけは、岩の真下よ。この岩から飛んだ飛沫が絶対にかからない場所」

 穂澄の方のタブレットがスワイプされ、その場が映し出される。

 そこには周囲にあるはずの穴がなく、ごつごつした武骨な岩が転がっていた。

「この岩に触れた水が穴を作るのかもしれない。上の洞窟で火が出たのも、この岩が壁の奥深くに食い込んでいるからだとしたら? こいつが怪異の大本かも」

 穂澄はそう言って、写真の中の巨岩を指さした。





 翌朝、私たちは頑張って早起きして、宿を撤収した後、藤守の迎えを待っていた。

「ねむい……」

 燈火が目を擦っている。

「しっかりして。原因かもしれないモノと相対するんだから」

「わかってるよ~。それまでには目を覚ますから……」

 燈火は相も変わらず朝が弱い。

 昨日心配していた雨は上がっていたが、周囲には霧が出ており、あまり遠くまで見づらい状況だった。滝に着く前にはもう少し晴れてくれるといいのだけれど。

 車のライトが霧をかき分けてきた。

「おはようございます」

 運転席の窓が開いて、藤守が顔を出した。どうやら今日は一人らしく、三曽木の姿は見えなかった。

「おはざっすっ!」

 眠気を覚ますためなのか、燈火が大きな声で挨拶を返した。

「おはようございます。早速ですが、滝へ向かいましょう」

 私たちは挨拶もそこそこに車へ乗り込んだ。

「そう言えば藤守さん、昨日は確認し忘れたのですが、今朝の見回りはどなたが?」

「担当には私と代わってもらいました。一応、邪魔が入らないようにと思ったのですが」

「ありがとうございます。助かります」

「ナギサさん、昨日頼まれていた件です、こちらをどうぞ」

 藤守はクリアファイルに挟まれた数枚の紙を差し出してきた。ちらっと確認すると『穿石の滝』周辺の事故リストのようだった。

 ……すぐにでも確認したいところだけれど、この山道を走る車内で文字なんて読んだら、三十秒でグロッキーになることは確実。酔い止めは飲んだが、効果を貫通するだろう。

「後で拝見します」

「はい」

 藤守は苦笑いを浮かべている。私が車に弱いことはすでに気づいているのだろう。

 しばらくの辛抱だ。私は目を閉じて我慢することにした。


 昨日の駐車場に到着した。酔い止めのおかげか、昨日よりはいくらか気分がましだ。

「では行きましょうか」

「いえ、藤守さん。一つお願いがあります」

「なんでしょう」

「昨日お会いした天野さんでしたか? あの人に私たちは始発で帰ったと伝えてください。少しでも時間を稼ぎます。たぶん、あの人は私たちの言葉を信用していないでしょう。念のため今日も来るかもしれない、それを防ぎたい」

「しかし、それではあなた方二人で滝まで行くことになりますが」

「問題ねっス。昨日も行きましたし」

「これは藤守さんにしかお願いできません。あなたの立場を悪くする可能性もあるとはわかっていますが……」

 藤守はしばし思案していたが、意を決したように言った。

「わかりました、天野さんにそれとなく伝えておきましょう」

「ばれた場合は裏切ってください。私たちは始発に乗ったふりをして、タクシーでここまで来たという筋書きです」

「はい。くれぐれも気を付けて行ってください。雨上がりの道は滑りますし、川が増水している可能性も高い。私もすぐに後を追いかけますが、お気をつけて」

「はい。後でお会いしましょう」

 車で走り去る藤守を見送った。

「なんでまた追い出したんだ?」

「邪魔が入らないように調査したかったから」

「まったく。悪いことを考える」

 燈火はニヤニヤ笑っている。

「じゃあ、行くか」

「五分だけ待って」

「ん?」

 私は藤守から渡された事故リストに目を走らせた。数十件に渡り現場と状況がまとめられている。

 ……概ね予想が的中していると思う。流し読みだが、それらしき記述がいくつか見つかった。今はこれでいい。

「終わった。行こう」

「おう」

 燈火と二人、足早に山道を登り始めた。うっすらと霧がかかる中を黙々と歩き続ける。道はぬかるみ、昨日よりは歩き辛い。川の水量も少しだけ増えているように見える。あの量の雨が降ったにしては、増加率が少ない気もする。それに透明度もあまり変わっていない。雨上がりの川は茶色く濁るイメージなのだけれど、滝が洞窟のような穴から流れてきているからだろうか。

 登り始めて三十五分を過ぎたころ、ようやく最後の急勾配にたどり着いた。

「ふう」

 最後の関門を越えるために息を整えていると、昨日も聞いたあの音がした。

 パチンッ!

 何かが破裂するような音。

「岩鳴き……」

 滝が増水しているから石なんかも一緒に落ちてきたりしているのだろうか。

「変な音だ。穂澄、行けるか」

「ええ。大丈夫」

 私たちは一息に急勾配を登り切った。

 昨日とあまり変わらない光景。穴だらけの奇観とやや増水し、飛沫をたくさん上げる滝と、あの中腹の巨岩。

 あれを詳しく調べないと。

「穂澄っ‼」

 歩き出そうとした瞬間、肩を掴まれた。

「何、燈――っ!」

 燈火に向き直った。彼女の右手の人差し指の先端に小さな火が灯っている。

 これは……!

「まずい! 力場が広がってる!」

 昨日はここで火がつかなかったのに? なぜ?

 思考が深まる前に、滝の音をかき消すように甲高い音が耳の奥で鳴り響いた。

「うっ」

 怪異の耳鳴り……燈火に注意を……

 私は呻きながらも反射的に右手を上げていた。

「穂澄⁉」

 パチンッ!

 あれは、岩鳴き……

 耳鳴りが止んだ。

「止んだわ!」

「何?」

「岩鳴きがなったら、耳鳴りが止まった。タイミング的に偶然じゃない!」

「……岩がぶつかるか、割れるかする音だって藤守サンは言ってたな」

 言うが早いか、燈火はこぶし大の石を拾って、滝つぼの岩に向かって投げた。

 ガチンッ、カンッ、ボシャ!

 石が岩にぶつかり、耳障りな音を立ててバウンドして、滝つぼに落ちて飛沫を上げた。

「……全然違う」

「……投げたせいか? 大きさとか?」

「そんな話じゃない。あの破裂音とは音の質が違う」

 また耳の奥で甲高い音が鳴る。そして……

 パチンッ!

「岩鳴きは怪異現象よ。あれが鳴る前に耳鳴りがする」

 耳鳴りがするってことは、何らかの害意があるってこと。でもすぐに鳴りやむってことは一瞬の悪意……状況を考えれば……

 パチンッ!

「っ!」

「なっ!」

 私たちの目の前の岩が、岩鳴きの音とともに半球状に抉れた。

「やっぱりこれが原因……!」

 音がしただけで、岩の一部が消滅した。欠片も残っていない。

「水滴だ……岩に弾かれて飛んできた水滴だ。当たった部分が消えたぞ」

 燈火の目は私よりもはっきりと現象を見定めたらしい。

「やっぱ岩に触れるせいか?」

「……いいえ。それは間違ってたかも。耳鳴りの状況から推測すると、たぶん、滝の水の中に何か交じってるんだわ。それが、あの岩に当たって『覚醒』する。岩じゃなくて衝撃じゃないかと思うわ」

 私たちが推測したように、岩に原因があるのだとしたら、弾ける飛沫がすべてああならないとおかしい。でも、岩鳴きが出る飛沫は一部だけだ。そして、流れてくる時点で岩鳴きの効果があるならば、あの岩に穴が開いていないのはおかしい。

「下がりましょう。間違っても、あれに触れられるわけには行かない。そうなったら……」

 あの頭に穴をあけて死んだ座倉と同じ道を辿ることになる。

「貴様らっ!」

 燈火と共に滝から距離を取ろうとしたとき、後ろから聞き覚えのある怒声が聞こえてきた。

「ジジイ」

 天野の爺さんだ。その後ろからはバツの悪そうな藤守となぜか瞳を輝かせた三曽木が付いて来ていた。

「すみません、お二方。天野さんはすでにこちらに向かっている途中でして、止められませんでした」

 藤守は頭を下げているが、天野は気にも留めずに、焦りを浮かべながらこちらに唾を飛ばしている。

「あれほど近づくなと言っておいたのに!」

「仕事で来てんだから仕方ねぇだろうが!」

「余計なことをするなと言ってるんだ!」

「天野さん」

 反論しようとする燈火を制して天野へ声をかける。この辺りなら飛沫は飛んでこないだろう。しゃべっても大丈夫なはず。

「知っていましたね?」

「なに⁉」

「ここで起こるかもしれないことを知っていましたね?」

「な、にを」

「座倉さんの死が初めてではなかったのでしょう? 過去にも同様の事例があったはずです。あなたは――いや、あなたたち上層部は知っていたはずだ。何件も証拠を、死体を、隠してきたのだから」

「何を根拠に!」

 天野は気色ばむ。しかし、さっき一瞬だけ言葉が詰まった。畳みかけよう。

 私は藤守からもらった事故リストを振って見せた。

「探偵社の伝手で手に入れたものです。この辺り一帯の山岳事故リスト。いくつか興味深い記述がありました」

 いけしゃあしゃあと嘘をつく。これで藤守に迷惑をかけずに済むだろう。

 天野が黙り込む。

「滑落事故として処理された遺体の一部に奇妙な円形の損壊が見られたと。その他にも同様の事例が複数ある。別の場所で起こった滑落事故に円形の傷跡が残るなんて不自然です。そんな死体はここでしか出ないはず」

「…………」

「ナギサさん、一体何の話ですか?」

「要するに、座倉さんと同じような死体が出たとき、何者かが秘密裏に死体を移動させ、処理したってことです。いいですか、藤守さん。この場所は非常に危険です。この滝は――いえ、この滝のしずくは触れたものを穿ち飲み込む性質を持っています。常識では測れない怪奇現象です」

「何をおっしゃっているのですか?」

 不審げな藤守に答えようとした瞬間、にわかに滝の音が大きくなった。背筋が凍り付きそうな感じがして、慌てて振り向くと滝から、奇妙に膨らんだ水の塊が落ちてくるところだった。

「マジかっ……!」

 同じように振り返っていた燈火が呻く。

 水塊が滝の中腹の岩に当たり、しずくが大量に飛び散った。あの量! まずい!

 頭が裂けるかと思うような甲高い音が耳の中で反響する。

 やっぱりあれが怪異だ。

「とう…かっ! にげ、てっ!」

 必死で燈火の名を呼ぶ。あまりの音にめまいがして、周りが見えない、まともに立っていられない。

「穂澄っ!」

 体に衝撃を感じて吹き飛ばされた。背中が地面に打ち付けられる感触がある。

 連続する破裂音が静寂に包まれた山の中に響き渡る。

 破裂音が静まった後、耳鳴りは止まった。山の中に静寂が戻ってくる。

「燈火……」

 燈火が私に覆いかぶさっている。とっさにタックルでもして、飛沫から庇ってくれたのだろう。

「無事か⁉ 怪我は⁉」

「大丈夫……あなたは?」

「なんともない」

 自分の体をあちこち見回してから彼女は言った。私もゆっくりと体を起こした。まだ頭の奥に違和感が残っている気がする。あのレベルの耳鳴りは久しぶりだった。

「これは……」

 辺り一面にあの半球状の穴が開いていた。私たちの倒れていたところまではぎりぎり届いていないが、かなり広範囲に新たな穴が開いている。

「こいつはひどい……そういや、あの三人は無事か?」

「大丈夫そうよ。奇跡的に無傷みたいだし」

 藤守たちは私たちより滝に近い位置にいたようだが、飛沫は浴びていないらしい。呆然と突っ立っているように見える。

「おい、あんたら大丈夫――」

 燈火が近くにいた三曽木の肩に手を伸ばしたが、途中で固まってしまう。三曽木の様子は普通ではなかった。

「ああ……すごい。神様……また会えるなんて、あの朝と同じで神々しい。これを調べる……? 冒涜だわ、申し訳ありません神よ。あぁ……すごい、すごい……」

 三曽木には燈火の声が聞こえていないらしい。熱に浮かされたような表情で祈るように手を組んで、滝を見つめている。

「神様……? 何言ってんだ……? 藤守サン! こいつの様子がおかしい」

 燈火は藤守にも声をかけたが、彼は燈火の言葉を無視した。

「……素晴らしい。素晴らしい光景だった。『穿石の滝』は本当に素晴らしい」

 三曽木と同じように恍惚とした表情で、ブツブツと滝をほめちぎっている。

「そうか……座倉もこうなったんだな。そうか……それなら本望だろう。よかったな、座倉。心配して損した……素晴らしい」

「おいおい……」

 燈火が無意識に一歩後ずさる。

「おい、爺さん、どういうことだ?」

「……はあ。もういいだろう。もう十分だ。貴様らは帰れ。これは我ら協会の問題だ。外部の手助けなど要らん」

「いいわ。もう帰りましょう。調査は終わった。原因ははっきりしたから」

 何か言いたげな燈火を制して、私は言う。

 天野は二人に比べて落ち着いているようだったが、瞳の奥に宿る意志は二人よりも圧倒的に滝への信奉に染まって見えた。

 これは言い争っても無駄だわ。

「しかし、仕事は仕事。後ほど調査報告書は提出させていただきます。……受け取った後はご自由にしてください」

「……好きにしろ」




 私たちは二人で山を下りることになった。三人は未だにあの滝の前で突っ立っているかもしれない。

 別れの挨拶もない。私たちは振り返ることもしなかった。ただ黙々と山を下りた。

 山道の入り口で呼びつけたタクシーを待つ間、一度だけ燈火が山道を振り返った。

「気色わりぃ」

「……そうね」

 彼らは憑りつかれているのでしょう。あそこに棲みつく〈なにか〉と、奇妙極まりないあの奇観に。協会には『穿石の滝』に憑りつかれている者が多いと、自分で白状していたから。

 どうでもいいが、座倉も同じだったのだろうと思う。『あれ』に魅せられ、ついには喰われた。三曽木はそれを見ていた。第一発見者どころか目撃者だったに違いない。そして彼女もまた魅せられた。

 そのうちに『穿石の滝』は観光を再開し、『あれ』は人知れず穴を穿ち続けるだろう。そして時折、人を殺す。遺体は秘密裏に処理され、『穿石の滝』は協会によって守られ続ける。

「……まあ、どうでもいいこと、ね」

「だな。あたしらにゃ関係ない話だ」

 依頼は達成した。後は七篠さんに報告を上げればそれで終わりだ。藤守が今さら調査結果を重要視するとも思えないが、それこそ私たちには関係ない話。

 私たちは依頼を完遂し、お金を手に入れる。そしてみかんの入院費をまかなう。

 今回の依頼で、わたしと燈火にとって大切なことはそれだけだ。

 私たちは怪異を追い続ける。どれだけ危険でも怪異を追い続け、みかんの目を覚ます方法を見つける。彼女が目覚めるまでのお金を稼ぐ。燈火と二人で、何としてもやり遂げる。

 タクシーがやってきた。

 もう二度と訪れることはない場所をちらっと振り返る。

 滝の音は聞こえない。岩が鳴く音も。

 暗い山道はただそこにあり、川はただ静かに流れていた。



ハッピー探偵社調査報告書(保管用 №502)〉

名称:穿ち水(仮称)


カテゴリー:未分類(現象または生物)


危険度(S~D):平時Ⅾ 覚醒時C


報告:遺体の頭部創は「穿ち水」によるもの。滝に混ざり落ちてきた「穿ち水」は中腹の岩に当たる衝撃により覚醒し、飛沫状に変化する。そして、次に触れた物体を破裂音とともに穿ち、半球状の跡を残す。原理不明。一度、穿った後は消失するため危険性は低い。


推察:現在の情報では確定できない。穴をあけるだけの現象なのか、飛沫状の生物なのか。本体から流れた一部なのか判断できない。


対処:滝への接近の禁止。飛沫が当たらない距離を保てば安全である。 


特記:一部人間に対し、洗脳に近い魅了作用が確認されている。詳細不明。


調査担当:伊刈燈火。御崎穂澄。


依頼:完遂にて終了。


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