第8話 放課後
ホテルAmaka311号室。外は雪が収まってはいたが、窓には結露がびっしりと発生していた。
「痛っ」
「じっとしとき〜」
暖かい部屋で、臣人は熱いモノを腕に覚えていた。
「まさか、怪我してるとは思わなかったんだけどな……」臣人が呟く。
「アドレナリンのせいで気づかなかったんだね〜。掠っただけで良かったよ〜。銃弾を取り出す作業なんかさ、臣人くんも見たくないでしょ〜」
「まぁ、はい……」臣人は微笑した。
少し安静にしていると、庵藤とアレクサンドラが部屋に入ってきた。
「ARTのデータを見させてもらった。内部構造はお前の写真のおかげで殆どわかった。それには感謝する。だが、単独行動をすると言ってこの失態。まったく、どうしたものか……」
「あ、そういえば」臣人はあることを思い出した。「あの壁内部に日本人がいたんです。日本語を喋っていました」
「なに?本当か、臣人」
「はい、後ろ姿しか見えず顔は分かりませんでしたけど」
庵藤はしばらく眉に皺を寄せ、言った。「こちらで調べてみる。臣人、ペナルティは無しとする」
「え?あの、自分で言うのもなんですが、いいんですか?」
「あぁ、今回に限りな」
「分かりました。ありがとうございます」
「後は莉里に任せる。4日目に備えておけ」
庵藤は身を翻して、アレクサンドラはそれについていくように部屋から出て行った。
それから少しすると、雫月が息を切らして扉を開けて、こちらに近づいてきた。
「臣人くん、大丈夫!?」
「大丈夫、ちょっと銃弾が腕を掠っただけ」
「そっか……銃に当たって怪我したって聞いて心配で……。っていうか、怪我したら治るまで任務できないんじゃ——」
「大丈夫〜、この薬塗ったらすぐに治るよ〜」
そう言って莉里は、ある塗り薬を自前の救急箱から取り出した。
「それは?」臣人は気になって聞いた。
「人の治癒能力、つまり細胞生成を促進させる薬だよ〜。これ塗って包帯巻いとけば30時間で完璧に傷口がふさがるんだ〜」
「そんなのあるんだ」
「まぁ、実際の医療現場ではまだ使われてないものだけどね〜」
「え?つまりこれって——」雫月がまさかと思い、心配そうに言葉を紡いだが、予想は外れることはなかった。
「うん、治験だよ〜」
2人は平常を装おうとしたが、出てきたのは苦し紛れの笑いだけだった。
留学2日目
臣人は腕を締め付けられているのを感じながら、食事場所についた。気温だけでなく視覚的にも温かくなるように、カーペットやテーブルクロスも色が温かみがあるようになっている。単色になることもなく、色が散らかることもなく、いい色合いだ。
「お、噂の明井がきたぞ」ざわめいている中、そんな言葉が耳に入った。カクテルパーティー効果で聞こえたのかと臣人は思ったが、どうやらここにいる殆どの人が臣人の話をしているようだった。
目を彷徨かせると雫月が手招きしているのが見え、臣人は歩いていき、隣の席についた。
「これは、どういう状況?」
「昨日、臣人くんが単独行動したでしょ?その引き返した他の9人が、臣人くんが1人で10人分の働きをした天才って話を周りの人にしてるんだよね……」
「え?やらかしたせいで、他9人を引き返させることになった役立たずとかじゃなく?」
「うーん、なんかね、臣人くんが先に壁内部に入ったから他の人が必要無くなったって思われてるみたい」
「はぁ……なんで……」
ひとりが好きな臣人は、孤独だとよく人に思われるが、臣人自身にとっては孤高だ。そんな孤高は、人の視線に晒されるとある種の恥ずかしさを覚えることがある。ひとり行動も誰にもバレないからこそのひとり行動だとも思え、そのアクションが人目につくと、心の嫌なところがくすぐられるような思いだった。
それに、天才という響きはあまり好きではない。たしかに、サヴァン症候群はその類かもしれない。だが、あれは自閉症の人に見られる一種の病気だ。天賦の才など、与えられるものじゃない。100点を取り続ければ天才か?1位になれば天才か?ノーベル賞を取れば天才か?否、天才は勝手に人が定義するものだ。誰も成し遂げたことがなければないことをすれば天才、一般人とかけ離れていれば天才と人が決める。天に才能を与えられたものなどいないのに、人は誰かを天才と呼びたがる。その思考を止めた者たちが呼んでいる呼び名なんて、欲しくはない。
「困ったな、本当に」
「臣人くん注目されるの嫌な人、だよね」
「そうなんだよね……」臣人は、何故雫月がそんなことを知っているのか疑問を少し持ったが、そんな荷物はすぐに捨ててしまった。
「まぁ無視するしかないかな」
「うん!そうだね」
そして朝食は、パン、スクランブルエッグ、ハム、チーズ、生野菜といったものが皿に乗せられ別でスープもついてきて、朝から食欲を刺激した。
「美味しそ〜」雫月は写真を撮り終えると、ハムを口にした。
「いただきます」臣人はいつもの孤食のように、食事前にそう言った。
「あ、い、いただきまふ」
行儀がなってない行為を横目に、臣人はハムを口に運んだ。
食事の半ば、雫月は内にぐるぐると回っていた想いを、理性的に抑えつつ口に出した。
「あの、……臣人くん?」
「ん?どうしたの?」
「その、私……今日任務ないんだよね」
「うん」臣人はスープをスプーンで掬い、口に入れる。
「臣人くんもない……よね?」
「うん、昨日あったからね」パンの最後の一口を口に運ぶ。
「その、えっと、怪我大丈夫だよね?」
「うん、あの塗り薬のおかげで塞がってきてるところ」スクランブルエッグを口に運ぶ。
「それでさ、今日のロシア語の授業が終わったら……その……図書館で一緒に勉強しない?わかんないところがあって……」
「図書館?」
「うん……ダメですか?」
不自然に敬語になりながらも、少し言葉に詰まりながらも、雫月は臣人に要求を伝えた。
「いいよ、全然。じゃあ、4時に授業が終わったらそのまま一緒に図書館に行けばいいかな?」
「いいの?ホントに?」
「うん」食べるのを一旦やめ、臣人は雫月に顔を向けた。
「わ、わかった!じゃあ放課後にね!」
雫月は表情が崩れそうになる前に、席を立った。臣人は雫月に大した疑問も持たず、残り少しの朝食を片付けた。
放課後、授業が終わり皆が席を外して部屋から出て行っている中、臣人は雫月の席に近づいて行った。雫月はバックをちょうど肩にかけたところだった。
「それじゃあ行こうか」
「う、うん!」
外に出ると凍えた空気が全身を覆った。指先は徐々に固まろうとするが、それを防ぐために臣人は手袋をつけていた。雫月も同じくつけており、臣人は黒の、雫月は水色の手袋をしている。
「寒いね、日本のとは比べ物にならないよ」臣人は手袋を擦り合わせながらそう言った。
「本当に寒いよねー」雫月は臣人から借りた防寒着を着て来ていた。
「図書館は確かこの大通りを突っ切って左に曲がった所だったよね」2人はそう確認して、図書館に向けて進み出した。
クリスマスツリーが飾られている所はいまだに無い。たしか、ロシアのクリスマスは1月7日だ。そのまま2月中旬まで飾っているところもあるらしい。ここにくる前に読んだ本にはそう書いてあった。
「ロシアといえばボルシチだよね!ビーツをつかっててね、出汁は牛肉で、牛肉の千切りが入っていてとっても暖まるんだよ!」
何やら雑学を披露し始めていた雫月に、臣人は口を挟んだ。
「ロシアといえばボルシチを思い浮かべる人も多いけど、ボルシチって確か本場はウクライナじゃなかったっけ」
「あ、あれ?そうなんだ」
「うん、確かそう」雫月は寒さとは別に顔を赤らめた。
臣人はふと街を見渡すと、奥の方に色鮮やかな教会が手前の建物のせいで見え隠れしていた。この精錬された街の風景は、自然を意図的に作り出しているようだ。道行く人は全員自然と笑い、自然と話している。それが日本と同じ、普通のように見えるが、何か見落としている点があるようにも思えた。
「着いたね、臣人くん」
「え?あぁ、うん」
考え事をしていると、やはり時間は列車の如く通り過ぎる。この思考、今年だけで何回しただろうか。
その図書館の手前、まず入ると巨大な地球儀が目に入った。実体があるかと思ったが、近くで見ると端が所々霞んでおり、ホログラムであることがわかった。
「すごいね、このおっきな地球」雫月は見上げて口を動かした。
「この奥に図書館があるみたい。行こう」
図書館の中に入ると全体が見渡せるように階段状になっており、進むほどに下がるような構造になっていた。途中真ん中あたりや一番下には、左右に机椅子が設置されており作業ができるような空間ができている。臣人と雫月は作業スペースの椅子に、向かい合うように座った。
「じゃあまず分かんないテキスト出してみて」
と、臣人は小声で雫月に囁いた。
言われるまま、雫月はバックからテキストを出した。てっきり臣人は、ロシア語の薄いテキストを出してくるのだろうと思っていたのだが、予想は外れた。
「これ、学校の冬休み課題?」
「うん、えと、お願いします」
「あー、わかった。まず、分かんないところにこれで付箋つけてくれない?」
臣人は自前の付箋を取り出し、雫月の前に少しの狂いもなく真っ直ぐ置いた。
そして付箋が幾つかついたテキストをその後もらい、臣人は雑紙をバックから取り出して、テキストと雑紙の間を何度も目線を反復横跳びさせて何やら作業を始めた。
「単語帳でも見ながら待ってて」
「う、うん」
30分後——
「雫月さん。できたよ、確認お願い」臣人は複数の紙をそれぞれの付箋のページに一枚ずつ挟ませて、テキストを雫月に返した。
「これは?」
「僕が、ほぼすべてのポイントをわかりやすく書いてある。それでも分からなかったら、言って」
雫月は想像していたものと違い、面食らっていた。何か口を曲げながらテキストを見ていたが、その曲がりは徐々になくなっていた。
「す、すごい。殆どわかる」
「殆ど?」臣人はその一言が気になった。
「あの、ここだけどうしても分かんなくて」そう言って雫月は指先をテキストにつけた。
「どこ?」臣人は問題を読もうとしたが、反対から読むのは慣れていなかった。
「見えにくいな」臣人は立ち上がり、回り込んで雫月の席の隣に座って体を寄せた。
「あぁ、ここね、ややこしいよね色々」
「おみ、ひとくん……その…………ちか——」
雫月は心中、顔を手のひらで覆って転がり回っていた。視線があらゆるところを右往左往する。瞬きが多くなる。
「え、ごめん。なんか言った?」
「い……いや、なん……でもない。つづけて……。」
「えっと、ここの問題はね。全体を見て解き方を——」
それから1時間、見えない湯気が雫月の頭上に浮かんでいた。
2人が図書館から出ると、雫月は口を開いた。
「臣人くん、すごいね。やっぱり学校のみんなが言うように学校一の天才だよ」
「みんな?天才?」臣人は自分の耳が不調なのかと思った。
「うん、私もついそう思ってしまう。天才って」
そして何よりそれに驕らない謙虚さがかっこいい。常に論理的な臣人くんが眩しい。そんな臣人くんに……憧れる。
「天才、ね。学校でも言われてたんだ」臣人の顔が陰る。
「え?知らなかった、の?」
「——雫月さん」
「な、なに?臣人くん」
「二度と僕の事を天才だなんて言わないで、あんまり。好きじゃないんだ。ホントに……」
雫月は熱が瞬間冷却され、心臓がひとり跳ねた。その時、外気温よりも雫月の心の温度は低下していた。
「ご、ごめんなさい。心から謝る……」
「そんな大層なもんじゃないよ。大丈夫だから」
「うん……ごめんなさい……」
よく考えれば、わかった事だ。目立つのは臣人くんにとって嫌な事だと分かっていたのに、大丈夫だと思って天才だと担ぎ上げた。もしかしたら、それ以外の理由もあるのかもしれない。臣人くんのことをずっと見てきて分かっていたつもりになっていた。本当に……ごめんなさい……。
バス停までの帰り道、臣人は人生で初めて「気まずい雰囲気」というのを味わっていた。
この空気、どうにかしたいな。気持ち悪い。
そう思って、少し首と目を動かした。
「雫月さん、ちょっと寄りたいところできたんだけど。いい?」
「うん……いいよ……」雫月は目線を下にずっと向けている。空港で目を合わせなかった時とは違う種類のものだと、臣人は認識した。
少しだけ歩き、ふたりはある店に入った。
「ねぇ、雫月さんはどれが可愛いと思う?」
「え?」
顔をあげると雫月の目に映ったのは、様々な種類の、大量のマトリョーシカだった。
「え、っと。どれが、可愛いかな」雫月は戸惑いながら、気づくと足を動かしてじっくりと見ていた。
少しして、雫月は指を指して答えた。「これかな」
雫月が選んだのは、綺麗な模様の青色の服を着た耳飾りをしたマトリョーシカだった。
「これ?わかった」臣人はそのマトリョーシカを手にして会計へと向かった。
雫月が呆然としている間に臣人は、紙袋に入れたマトリョーシカを雫月に手渡した。
「え?」雫月は更なる呆然の穴に落ちながら紙袋を受け取った。
「はい、これで貸し2。お礼待ってる」
「臣人、くん……。うん、待ってて。驚かせてみせるから」
これがきっかけで雫月は、改めて臣人の事を想うことになった。
留学3日目
深夜。水野威尊は待望のものを目の前にしていた。
「とうとう見つけた。この扉が街からでるためのゲート——」
「例の浮く眼鏡、ステルスだ!捕まえろ!!」威尊はネイティブのロシア語を、鼓膜で正確に捉えた。そして舌打ちをして振り返り、見張り5人と対峙した。
「投降しろ!!」
数秒の間を作り出して威尊は瞬時に姿勢を屈めつつ、前傾姿勢で見張りとの距離を縮めた。
「コイツッ!!」
次の瞬間には左ふたりの見張りの腹には拳がめり込んでおり、内臓に深刻なダメージが入っていた。
時が止まったのを威尊は見逃さず、見張りの拳銃を抜き取り、慣れたように残り3人の頭を早撃ちの的にした。
口から白い息が漏れる。
「俺は明井のようなズルはしない」
威尊は戦いでズレた眼鏡を正常な位置に直した。