世界の『扉』
「………」
壮太は改めて目の前の少女へと視線を向ける。
涙目で頬をさする彼女は世界の秘密を守るという重大な任務を負った存在……の、はずなのだが、ずっとこんな調子なので気が気ではない。
任務の都合上、あまり目立つ行動は取らないようにはしているようなのだが。それなりに近隣の住民には顔が割れている。彼女の本当の活動を知られてはまずいので、彼女の扱いとしては、表向きは『親の依頼を受けて従妹が世話をしに来た』というなんともベタな体で浮羽はこの部屋に居座っている。
なので、買い物などを除けば基本家からは出ることが少ない。
その設定をある意味忠実に守っている結果が、今の状況……なのだろうか?
(……どう考えても俺のほうが世話してるよなぁ、これ)
これではどっちが監視役なのか分かったものではない。
ほんらいであれば、いつ何時でも対処できるように準備をしておくべきところ……のはずなのだが、重大任務を任されているとは思えないだらけきったふるまいに、むしろ少年のほうがいつボロを出すかと神経をすり減らしているありさまである。
(まあ、人づきあいに関しては問題ないんだけど、な)
とりあえず相手を小馬鹿にしたりするような無神経な真似をする人間ではないし、ずけずけを相手のテリトリーに踏み込むようなこともない。
……颯太以外の相手には。
見てのとおり、浮羽は外面と家での振る舞いの落差が激しい。
ジャージ姿にボサボサ髪という今の風体は、とてもじゃないがエージェントにふさわしい恰好とは思えない。しかしひねくれた解釈をするならば、これも『世を忍ぶ仮の姿』という受け取り方もできなくはない。
まあ、もしそれが事実だとすれば彼女はここ半年ほどずっと世を忍び続けていることになる。
見ていないところでちゃんと任務を遂行しているというのならば、かなり腕利きのエージェントということになるが、何の訓練も受けない民間人に言い負かされ、投げつけられたソファーを真正面から食らう様子を見る限り、少なくともそうは思えない。過去の実績について見聞きしているわけではないが、理解しようとすればするほど新たな疑念が積み重なっていく。
というか、これまで本当に仕事が出来た試しがあったのだろうか。
怠惰が服を着て歩いているような振る舞いに頭を抱えながらも、彼女の挙動ひとつが自分の生活を左右しかねないので、どうしても放っておくわけにもいかず、颯太は毎日のように要らぬ仕事を背負わされることとなるのだった。
ところで。
『異世界の門が開く』などと聞くと、映画や小説などでよく見かける『空が割れ、そこから侵略者たちが現れる』といった壮大なシーンを思い浮かべてしまうだろうが、現実はそうそうドラマティックに運んだりはしない。
颯太が目撃した『扉』。
雑木林の合間に開いたそれは、レストランの厨房にある裏口程度の大きさの、まさに扉サイズの空間だった。
そんなサイズであれば当然通れるものも限られる。人間ならば通れなくはないが、突然車が消えたり、謎の巨大生物が現れるような一大スペクタクルが起こることなど、そうそうありえない。
現実なんて結局はそんなものである。
その『扉』として固定化する原理については、おおよそではあるが以下の理論が公式見解として示されている。
たとえばAという場所とBという場所が別々の世界に存在し、その場所にある物体や空間の構造が奇跡的な確率で似通った状態になっていたとする。
すると、その場所が互いの空間において「同じ空間のブレ」として認識される。
まったくの別空間でありながら、それぞれがほぼ同一の空間組成となった結果、量子力学などでいう「多世界解釈」の一部であるという誤認が生じるのだ。
Aという地点からはBが「Aがとりうる一つの可能性」となり、Bからはその反対の解釈が起こる。ゆえに、AはBであり、BはAであるという重ね合わせの状態になったのが『扉』の正体である、と識者たちの間では解釈されている。
と、あまり問題にはならないかのような言い方をしてしまったが、空間転移が起こりうるスポットであることは間違いない。たまたま訪れな無関係な人間を巻き込んでしまう危険性がある以上、『穴』の存在を無視することは出来ず、派遣されたのが彼らというわけだ。
門の発生は『向こう側』の人々にとっても相当にイレギュラーなことだったようで、浮羽の所属する組織も事態把握後に臨時に編成されたらしい。
向こう側の世界にもいちおう行政機関はあるらしく、彼らもこの門の存在を『危機管理上問題あり』と判断したようだ。
だが、それだけでことがスムーズに運ぶわけではない。
こちらの世界のトップが戸惑いをみせたように、異界側からみてもここ(人間世界)はまさに前人未到の魔境といえるものだったはずだ。
今でこそ一定の共通原則に基づいて融合した世界だということが分かっているから調査もスムーズに行えているが、はじめの頃はどんな生き物が住んでいるのか分からないだけでなく、そもそも生きてゆけるのかさえ判然としなかったはずだ。
そんな得体のしれない場所に足を踏み入れることを希望するような物好きはそうそういない。
向こうの世界の組織がどういう選定基準を設けているのかはわからないが、公的機関に属する人間としてこの説得力のなさはいかがなものだろうかと思わずにはいられなかった。
だからといって、こんなしょうもない人材しか派遣できないというのはさすがに「アレ」ではないだろうか。
リビングの床でのたうち回る女を目の当たりにすればそんな愚痴が飛び出すのも無理からぬ話である。
百歩ゆずってフォローするならば、彼女の立場は決して優遇されているとはいえないものだ。
だから有り体に言ってしまえば、彼女は厄介ごとを押しつけられた中間管理職ということになる。
世界が違ってもお役所という場所はそういう仕事をするところらしい。
そんな生々しい現状を突きつけられてしまうと、どこかキラキラしていた異世界に対するイメージがジェットコースター並みに急降下していく。
とはいえ、すべきことはなにも変わっていない。
「お前もいい加減に任務をこなしたらどうなんだよ」
こんな風に促してみてたところで態度を変えることなど無いのは分かりきっていたが、諦めてしまえばそれでおしまいだ。
「仕事ならちゃんとしてるわよ」
ソファーに横たわったまま、しれっとそんなセリフを吐かれると、辛抱強い颯太もさすがにイラッとしてしまう。
「大ボラを吹くな」
彼女の任務は少年の行動の監視と、空間周辺を許可なく行き来する人物や生命体、ならびに物体がいないかどうかのチェックである。
「吹いてないわよぉ」
と、浮羽はくねくねと身をよじりながら
「だからぁ、こうして『ちゅーもく』してるんじゃないのぉ」
瞬間、自分の中の何かがさあっと引いていく音が聞こえた気がした。
それはもう、潮干狩りどころか干拓事業が出来そうなレベルで。
そんなうすら寒いの空気などまるでお構いなしで、彼女は甘ったるい声をあげながら口を突き出して顔を近づけてくる。
くだらないを通り越して若干の殺意すら覚えるレベルの駄洒落を言い放つこの図太さは、監視という終わりの見えない過酷な任務をこなしていくにはある意味最適といえるのかもしれない。
無論、ちゃんとこなしていればの話だが。
とその時。
――ぴんぽーんっ♪
不毛な言い争いに割り込むように、ふいに玄関先でチャイムが高らかに鳴り響いた。