10「魂の牢獄に囚われた少年」
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午前一時を回ってしまった。千鶴がベッドを使っているので、僕はソファーで眠ることにする。デザイン重視の飾りみたいなソファーで、寝心地は最悪だが仕方がない。
まぶたを閉じる。静かだ。なんの音もしない……いや、
プシュー……プシュー……
僕は弾かれたみたく起き上がった。オレンジ色の微弱な照明に照らされ、不気味な陰影が膨張し折り重なっている部屋の中でいま、確かに聞こえた。
ソファーを下りて、木馬の間を歩いて行く。音がした方向で、人が隠れられる場所……そんなはずがないと思いながら、衣装箪笥の両開きの扉を開ける。
僕は――よく声を洩らさなかった。
中には、能面の少年が窮屈そうに座っていた。
「残しておいてくれて、ありがとう。明日からも頼むよ」
ヘリウムガスによって、歪に高くなった声。彼は少量のフライドポテトが乗った皿を膝に乗せ、右手にフォーク、左手にスプレー缶を持っている。
「な、なにしてるんだよっ」
「夕食だよ。見て分かることは訊く必要がない」
声を潜めて問うても、少年は遠慮なく普通の声量で答える。僕はベッドで眠る千鶴へ振り返る。彼女は大人しく眠り続けているが……。
「待て、待て。静かにしないと」
「なぜ? その探偵さんが起きても、ボクは困らない」
ヘリウムガスをプシューと吸引。なにを考えているんだ。
「それより見てよ。ボクはフライドポテト回しができる」
がちゃんと音を立ててフォークを皿の上に放り出し、人差し指の上に乗せたフライドポテトを、ペン回しの要領でくるくると回転させる少年。
「特技なんだ。おおよそ棒状で持てる重さなら、どんなものでも回せる。ソーセージとか、リコーダーとか、アイスピッ――」
「だから、静かにって云ってるじゃないか」
扉の隙間を狭めて、声が千鶴まで通りづらいようにする。しかしこんなの気休めだ。
「お兄さんはなぜ、ボクのことを他の人たちに隠すの?」
「それは……」
一度隠した以上、隠し通さないといけないだろう……。最初に隠した理由なら、千鶴の探偵活動にテコを入れようと思ったためだが……。
「ボクをかばっているの? 落涙を殺したのはボクじゃないよ?」
「もう少し、静かに……。じゃあきみは、誰なんだ」
「〈くりえいてぃ部〉に囚われてる亡霊」
「ああもう……出てきてくれる? 別の部屋で話そう」
「それよりお兄さん、ボクの特技の二つ目を見て」
少年は残っていたフライドポテトをぜんぶ鷲掴みにして口に押し込むと、皿の上に左手を乗せた。そして右手ではフォークを握り込む。
「大丈夫。ボクの集中力なら、失敗はあり得ない」
「ちょっと、きみ――」
カンカンカンカンカンカン! 指と指の隙間に、順々にフォークを突き立てていく。目にも止まらないスピードで、激しく音を立てながら!
「やめろそれっ!」
僕はその手を掴もうとして、直後――手と手がぶつかり、フォークが少年の親指の付け根あたりに突き刺さった。
「だああっ!」
「うわああっ?」
皿の上に血が跳ねる。少年はそれどころじゃないのに、スプレー缶を能面の下から突っ込んで律儀に変声し「いだいっ! 痛いじゃないか!」と騒ぐ。
「ごめんっ。ごめんだけど静かにっ。お願いだからっ」
千鶴を見る。眠っているが、いつ起きてもおかしくない。騒ぎすぎだ。
「お兄さんが邪魔したせいだ。それがなければボクは失敗しなかった!」
「ごめんって。だけどきみが――ああ、それより大丈夫? その手」
「一生残る傷だ。どいて。出られないよ」
ヘリウムガスを吸引しつつ、少年は衣装箪笥から出た。僕は少年と千鶴とを交互に見ながら、だいぶパニックになっている。
「お兄さん、ボクのことをみんなに話して。ボクが云いたいのは、それだけだ」
「いいのか……? 捕まっても?」
「捕まらないよ。お兄さんは勘違いしている。ありとあらゆることを」
少年は千鶴の方に向くと、両手をメガホンみたくして、露出した口元にあてた。
僕は悪い予感がして、すぐに的中する。
「おっ、はよおおお――ございまあああああああああああああああ!」
なにしてんだよ!
千鶴が「んええ?」と云って、目を開ける。僕は慌てて駆け寄る。
「道雄お? なに。うるさいよお?」
「あーごめん、なんか――無性に叫びたくなって!」
少年を見られたらまずい。視界が僕で塞がるように、顔を近づける。
千鶴の両目はとろんとしていて、完全に覚醒している様子ではない。
「なに、云ってんのお?」
「ごめんな、起こして。まだ夜中だよ。ほら、寝てていいから」
「どうしたの? なんか、変だよ……」
ふわああと欠伸する千鶴。僕はちらりと後ろを振り返る。部屋の扉が開いている。少年は逃げて行ったようだ。滅茶苦茶なことをしやがる。
「もお……寝るよお、道雄……」
「ああ、そうだな。おやすみ」
離れようとしたが、ガウンの襟を掴まれた。
「千鶴?」
「寝るんでしょお? ほら……」
引っ張られる。
「僕はソファーで寝るよ」
「なに云ってんの。寝たらいいじゃん、ベッドでえ」
「寝惚けてるんだな。とにかくおやすみ、千鶴」
手を離させる。千鶴は「もお……」と云って、そのまま目を閉じた。ガウンの前がはだけて、だいぶ無防備な格好になりかけている。僕は掛布団を彼女の首の下まで引き上げて、部屋の扉を閉じて施錠してから、ソファーに戻った。
少年はこの屋敷に残っていた。
緩やかに落涙を殺害して、橋を爆破したのは、彼ではないのだろうか?
たしかに殺人犯という感じはしない。僕に見つかったのはほとんど自分からだったし、呑気にフライドポテトを回したり、千鶴をわざと起こしたり……殺人犯でないにしても、その目的はまったく分からないけれど……。
彼は何者なんだ?