9「奇矯な詩人のアバンチュール」
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文丈と別れて自分の客室まで戻ると、扉の前にネグリジェ姿の香久耶が立っていた。顔にはまた化粧をしている。人差し指を唇にあてているのは、静かにという意味だろうか。
「どうしたんですか」と、僕は囁き声で問い掛けた。
「今からちょっと、付き合って」
「なににですか?」
「お話したいの。お願い」
眉を少しだけ寄せて、首を傾げられる。あざとい仕草だけれど、実際に可愛い……。
断る理由もないかと思い「これだけ置いてくるので、待っててください」と答えた。
これと云うのは僕の衣類だ。風呂から上がり、僕も千鶴と同様に備え付けの白いガウンを着ている。その下には、これも備え付けの簡素なハーフパンツ。
部屋に這入ると、光量が絞られており、千鶴はベッドの上で眠っていた。僕はソファーの上に衣類を置いて廊下に戻った。香久耶はなにも云わずに僕の手を取ると歩き出した。
「どこに行くんですか?」
「この下。娯楽室」
手を繋いだまま、階段を下りていく。繋いでいなくてよいと思うが、振り払うのも少し憚られる。この人がどんな人なのか、まだ掴みかねているせいだ。
それにしても、真後ろを歩いていると、ずっと花のような香りがする。
「シャンプーとリンスは、自分のを持ち込んだの。そのにおいよ」
思考を読まれたみたいなタイミングで驚いた。
「良いにおいですね」
「ありがとう。もっと、鼻をくっつけて嗅いで」
「それはちょっと……」
一階に下りて廊下を北へ進み、突き当たりが娯楽室だ。天井や壁にまばらに取り付けられたネオンの灯りがミラーボールに反射し、ダーツやビリヤード台、アーケードゲーム、バーカウンターなどが並ぶ広い室内を妖しく照らしている。
香久耶は扉を閉めたところで立ち止まった。それから繋いでいる僕の手を持ち上げて、まじまじと観察し始めた。
「香久耶さん?」
「手のかたち、きれい……」
その目が、次に僕の顔を見上げる。
「好き」
いきなり抱き着かれた。
「えっ。ちょっと、なんですか」
「思ってたより、がっしりしてる」
すぐに身を離す香久耶。そして奥にあるバーカウンターを指差す。
「一緒にお酒、飲みたい」
色々とついて行けない。僕は困惑したまま、
「お酒は、やめておきます……。もう時間も遅いですし」
「一杯だけ。お願い!」
両手を合わせて懇願された。本当に読めない人だ。
結局付き合うことにして、椅子に座った。香久耶はカウンターの向こう側に回る。
お酒が並ぶ棚があるからバーカウンターだと思ったが、よく見るとおかしなものが混じっている。湯切りやどんぶり、寸胴鍋なんかはいいとしても、なぜか歯医者で見るような器具や照明、ドリルまで並んでいる。
「歯医者と見せかけてラーメン屋、というコンセプトのバーカウンターなの。お飾りだから歯の治療はできないけど、ラーメンならつくれる」
「意味が分からないです……」
「分からないことはないわ。どれも口を使うでしょう? スキー場と見せかけてラーメン屋、とか云われたら意味は分からないけれど」
「なるほど……?」
「お酒、なにが好き? あたしはレッドアイ」
香久耶は壁に掛けてあった白衣を羽織り、三角巾をかぶる。
「じゃあ、ジントニックありますか」
「麵の固さ、味の濃さ、油の量は?」
「え? えー……ぜんぶ普通で」
真面目な顔で冗談を云われるから、反応に困る。
彼女は手際良く、グラスにビールとトマトジュースを注いでカウンターの上に置く。続いてタンブラーに氷を入れると、ジンとトニックウォーターを注ぎ、カットしたレモンを乗せて隣に並べた。
「へい患者様、おまちどう。ちょっと待って。乾杯したい」
三角巾と白衣を脱いで、カウンターを回り、僕の隣に腰掛ける。レッドアイのグラスを掲げると、少し首を傾げて僕を見詰めた。首を傾げるのは癖みたいだ。
「お酒持って。そう。あたしたちの出逢いにプロスト」
「プロスト?」
「ドイツ語で、乾杯よ。ヘルマン・ヘッセは全集で持ってるの」
グラスとタンブラーが触れる。翻弄されたまま、僕も一口飲む。美味しい。
「道雄さん、歳はいくつ?」
「二十二です」
「えっ」
手を口元にあてる香久耶。赤ラメのネイルがキラキラしている。
「二十二で、そんなに落ち着いてるの? うう、格好良い……」
「そうですか? そんなに落ち着いているわけでも――」
「素敵……」
太腿に手を乗せられた。
明らかにアプローチを受けているが、なぜだか分からない。香久耶はモデルみたいに可憐な容姿だけれど、僕は大してモテる方じゃない。からかわれているのだろうか?
「恋愛は宗教だと思うの」
レッドアイを一口飲んで、グラスのふちを指でなぞりながら、彼女は続ける。
「正確には、宗教が恋愛の替わり。ひとにとって、最も本質的なことは恋愛。他は全部、その代替物でしかない。本当の恋ができる相手を見つけられないひとが、神様を崇拝したり、他の趣味に情熱を燃やしたりする。道雄さんもそう思う?」
「いえ……考えたことがなかったですね」
「あたしも考えたことがなかった。貴方と出逢うまでは一度も」
僕を見据えるその眼差しは、とても真剣に見える。
どう応えたものか悩んでいると、彼女はグラスを僕の眼前に掲げた。
「飲んでいいわよ」
「え、いいです。飲まなくて」
「宮代さんとは、幼馴染なんだってね?」
話題の転換が激しい。気まぐれで話しているみたいだ。
「そうですね。幼稚園からずっと一緒なんです」
「宮代さんのこと、好き?」
「好きですけど、それは恋愛感情的なことで訊いてます?」
「そう。恋愛感情的なことで訊いてる」
「そういうのじゃないですね」
「でも一緒に住んでるのよね?」
「はい」
「男女の関係じゃないのかしら?」
「全然ですよ。家族みたいな感覚です」
「良かった」
また抱き着かれた。持っている飲み物をこぼすわけにいかず、拒めない。抱き心地を確かめるかのように頬をすりつけられる。悪い気はしないけれど……。
「や、やめてください、香久耶さん」
「迷惑?」
「迷惑じゃないですけど、困ります……」
「困ってるところも格好良い」
「格好良くないでしょ、困ってるところなんて」
「良いにおいする」
「風呂上がりですから……」
「お酒、減ってないわよ?」
身体が離れた。僕はドキドキしているのを誤魔化すように、ジントニックを呷る。そして空になったタンブラーをカウンターに置く。
「ご馳走様でした。じゃあ、一杯だけという話だったので」
「そう云わずに。もう一杯、どうかしら?」
「香久耶さん、今日はもう遅いですから」
説得のトーンで云うと、彼女は顔を伏せて黙り込んでしまった。
「……香久耶さん?」
「分かった。今日はここまでね」
どうにか了承してくれた。
「明日からも一緒だものね。みんな、逃げられないんだから」
「ああ、困ったことになりましたよね」
「あたしは全然、困らない。関係ないわ」
彼女はレッドアイを飲み干して、椅子から下りた。
僕に振り向いたその顔に、寂しそうな微笑が浮かんでいる。
「憶えておいてね。この世界は貴方と、あたしと、それ以外」
それだけ云うと、先に娯楽室を出て行った。僕はしばし呆気に取られた。
詩人か……。めちゃくちゃ変な人だが、まだドキドキしている……。