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36「すべてが成就するとき」

    36


 千鶴は椅子をぐるんと半回転させて、僕の方を向いた。

「香久耶さんや沢子ちゃんと話して、収穫はあった?」

「いいや。事件については特に……」

「そう。この珈琲なんだけど、苦いねえ。青汁感覚!」

 文丈が淹れた珈琲を啜って、顔をしかめる。

 呼んでいたというので戻ってきたが、用件があるわけではないようだ。

「なあ千鶴……」

「んー?」

 僕は座る面が突起でゴツゴツしている椅子に腰掛けて、例の話題を切り出す。

「事件とは別に、ちょっと報告があってさ。まあ聞いても、あっそって感じだと思うんだけど……いま、いいか?」

「いいけど。これ、ほんとに珈琲かな? ゴーヤなんじゃないの?」

「香久耶さんと僕……付き合うことにしたんだよ。恋仲ってことなんだけど」

 ガチャアン! と音を立てて、カップが砕けた。

 千鶴が床に落としたのだ。珈琲と破片が派手に飛び散る。

「お――おい」

 僕は腰を浮かせる。一方の千鶴は椅子から下りて、僕に向かって駆けてくる。床には破片があるのにお構いなしだ。危ない――と口に出すより前に、勢いそのまま飛び付かれた。

「おわっ?」

 背もたれがないので落下しかけたものの、ぎりぎり持ち堪える。

 千鶴は僕にしがみ着いて、胸元に顔を眼鏡ごと押し付けたまま「やだあ!」と云う。

「ち、千鶴?」

「やだ、やだ、やだあ! 香久耶さんのとこに行ったら、やだあ!」

「え? どうしたんだよ、ちょっと」

 本当にどうしたんだ?

「なんでえ! なんで、香久耶さんなんかと付き合うんだよお!」

「なんでって――香久耶さんから、その、誘われたから――」

「誘われたらおっけーするのかよお!」

 両手の拳で叩かれる。痛くはないけれど、僕は当惑する。

 いきなりのことで、対応ができない。こんな千鶴は見たことがない。

「私はっ、私はどうなるんだよっ」

「い、今までと変わらないよ。幼馴染として付き合いを――」

「ばかあ!」

 千鶴は僕のシャツをくしゃくしゃと握る。

 その身体を小さく震わせて――泣いている、のか?

「私がずっと道雄のこと好きなのは、どうなるんだよう……っ」

「え――それって、え? そうなの?」

「当然じゃんかあ。好き、好き、大好きっ」

 ええ……? 本当に?

 二十年近くの付き合いではじめて云われた。感覚が追い付かない。

「千鶴は、僕をそういう、恋愛対象とは見てないんじゃ――」

「いつ、そんなこと云ったんだようっ」

「云われたことは、ないけど」

「なに卑屈になってるんだよう。ばかあ。二十年間ずーっと、ばりばりに恋してるに決まってんじゃんかあ」

「ばりばりにって」

「結婚したいに決まってんじゃんかあ。ムカつくなあ!」

「結婚って」

「そもそも私たちって事実婚の状態じゃんかあ。私、内縁の妻じゃんかあ」

「そ、そうか?」

「なんだよっ。私だけだったの? ラブラブだと思ってたのわあ……」

 さっきから、一発一発が頭をぶん殴られたかのような衝撃だ。

 そうだったのか? そんな雰囲気は、千鶴から一度だって見せたことはなかったはずだ。僕が鈍感だったとか、そういうのではなくて。本当に一切、そんな気配すらなかったのに。

「道雄は、私のこと、全然、意識してなかったのかよう……」

「いや――そんなことない。僕は千鶴のこと……」

 驚いているが、驚いているばかりでもなくなってきた。

 そういうことなら、僕だって云いたいことが山ほどあるのだ。

「僕の方こそ、千鶴をその――異性として意識してたんだぞ。小学校とか、中学のときにも。だけど千鶴がまったくその気じゃなさそうだから、諦めて――」

「それわあ、私が素直じゃないから、恥ずかしがってただけで――知ってるでしょお!」

「知らないよ! 恥ずかしがり? お前が?」

「恥ずかしがりだよっ。アガり症でいつも、人付き合いとかめちゃくちゃ苦手じゃんかっ」

 知らない知らない。本気で云っているのか? そういう自己分析なのか?

「いつも飄々としてるだろ。それか淡々と――」

「それがアガッてんだよう。あーもう、どうでもいい、そんなこと!」

 両手が背中に回されて、渾身の力で抱き締められる。

「他の女のところに、行かないでよお……」

 そんな、純情みたいな声音で……千鶴が……。

 今になって、急激にドキドキしてきた。苦しいくらいだ。

「だ、だけど、探偵と助手が……僕は助手にすらなれてないけど、くっつくなんて……ミステリでは御法度(ごはっと)というか、分かってないというか……」

「うう、うううう……」

「わあ、ごめんっ。なに云ってんだろうな、僕は!」

 千鶴がはじめて、想いを打ち明けてくれたのだ。

 僕の方がアガっていたら、格好がつかないじゃないか。

「ずっと気付かなくて、ごめんな? 僕も千鶴のことが好きだよ」

 物凄い気恥ずかしさが湧き上がるのを押し殺して、僕も千鶴の背中に腕を回した。

 千鶴は涙まじりの声で「結婚、してくれる?」と訊ねてくる。

 結婚……まさか、こんな突然……しかし、断る理由があるだろうか?

 今更、段階を踏むような必要なんて……これだけ一緒に過ごしてきて……事実婚の状態とは思っていなかったけれど、云われてみれば、たしかにそうか……?

 僕は「ああ、結婚しよう」と、精一杯に男らしく応えた。

 千鶴は声を出して泣き始めた。不覚にも、僕の方まで視界が滲んだ。

 こんなふうになるなんて数分前にはまったく予想していなかったのに、こうなってみると、これが当然のかたちとしか思えなくて、一方で夢見心地のようでもあって、とにかく不思議な気持ちだった。

 僕は千鶴の背中を撫でたり、頭を撫でたりして、彼女が落ち着くのを待った。そうやって十分か、十五分か、計っていなかったので分からないけれど経過したころに、千鶴が少し枯れた声で「私もひとつ、報告があるの」と云った。

「少し、云いづらいんだけど……」

「大丈夫だよ。どんな報告?」

「落涙さんを殺した犯人、分かった」

「本当か! え、それがどうして云いづらいんだ?」

「今回も、全然時間かからずに分かっちゃったから。小説にならないでしょ……?」

 普段なら絶対に云わないようなことだ。僕の腕の中で、借りてきた猫のようになっている今の千鶴だから、聞けた言葉なのだろうか。そう思うと僕は嬉しい。

「そんなこと、気にしないでいいよ。僕がこれまで小説がどうとか、探偵がどうとか云ってきたことはぜんぶ忘れて。昨日の夜にも云っただろ? 千鶴は、千鶴のやり方でいいんだ。そうじゃないと意味がないよ」

「うん。ありがとう……」

 頬をすりつけてくる千鶴の頭を、また優しく撫でる。

 つくづく、僕は馬鹿だった。分かっていないのは僕の方だった。

 沢子に教えてもらった、ヒップホップの精神である。他を真似したって、それはリアルじゃない。その人のオリジナルのスタイルを貫くことにしか本当の価値は宿らないのだ。

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