34、35「唯一無二のリアルを歌え」
34
千鶴は引き続き録画・録音データを調べている。僕と文丈はなにか手伝えることはないかと訊いたが、特にないとのことだった。沢子や香久耶にも話を聞いてみたらどうかと、適当にあしらわれた。
そういうわけで僕は、調理室で食事の準備をしている沢子のもとにやって来た。
「ポテトサラダだけだと、足りませんよね。なのでキッシュと、クラムチャウダーを……」
「へえ、美味しそうですね」
「ありがとうございます……」
視線を逸らしてはにかんでいる。
彼女の控えめな態度は、こちらが素なのだと分かってもまだ慣れない。
「ラッパーの沢子すくらむが演技だったというのは、驚きました。文丈さんや香久耶さんは、ここまで大きくは変わってないですし。沢子さんは演技派なんですね」
「ありがとうございます……」
またはにかんだ後、彼女は遠慮がちに口を開いた。
「でも、沢子すくらむの役は、演技という感じでもなかったです」
「そうなんですか?」
演技じゃなかったら、なんだというのだろう。
「うち……昔から人前で話すのとかが苦手で。そういう自分が嫌だったんです。なので、役者になれば、別人を演じることができますから……」
「へえ。そういう動機だったんですね」
「だけど、それは結局、演じてるだけなんですよね。演じている間、だけのことです。うち自身は、やっぱりなにも変わらなくて……あっ、迷惑ですよね? いきなりこんな、自分語りみたいなことしたら」
「いえ、気にしないでいいですよ。話してください」
「そうですか……?」
煮込んでいる最中のクラムチャウダーをかき混ぜて、彼女は話を再開する。
「沢子すくらむの役をもらって、ラップを勉強したんですけど、これがすごく面白くて。それに今回の撮影は、いつもと違ったじゃないですか。脚本どおりじゃなくて、アドリブが多くて」
「そうですね。文丈さんから聞きましたよ。前に披露してくれて僕が良いと思ったラップも、沢子さんのオリジナルだって」
「は、はい……ごめんなさい……」
言葉は謝罪だけれど、表情はどこか嬉しそうだ。
「ラップ……ヒップホップは、コンプレックスさえ武器になる音楽なんです。自分のことを、自分の言葉で歌うものなので。借り物の言葉だと、いくら格好つけても安っぽくて。自分のリアルを表現すれば、それが唯一無二のスタイルになりますから……」
「なるほど」
「だから段々と、脚本どおりにするのもやめたんです。本当のラッパーは、会話のときにライム読みなんて変なことしません。そういうのは、リアルじゃないので……」
「あれは、僕もどうなのかなって思っていました。ところで僕、見ているだけになってますよね。なにか手伝えることはありますか?」
「え。じゃあ、あの……キッシュとポテトサラダを、ワゴンに乗せてもらえますか」
「分かりました。遮っちゃってすみません。話の続き、聞かせてください」
沢子は小さく頷く。照れつつも、話すこと自体は嫌そうじゃない。
「そうすると、沢子すくらむは、いつもみたく役を演じてるって感覚とは違ったんです。うちの内面を、さらけ出していると云いますか……そういう瞬間がいくつかありました」
「オリジナルのラップを披露してくれたときとかですか?」
「はい……。うちがやりたいことって、これなのかも知れないって、思ったんです」
「いいじゃないですか。役じゃなくて、本当にラッパーになるということですよね?」
「え?」
思わずといった調子で、顔を上げる沢子。
「えっと、そうできたら、いいですけど……」
「できますよ。やりたいと思ったなら、きっとやるべきです。応援します」
「えっと、あの……ありがとうございます……」
料理をワゴンに乗せ終えた。「広間に運んでおきましょうか」と訊ねる。
「いえ。クラムチャウダーと、あとスイートポテトもつくってから、一緒に運ぶので。芋料理ばかりですけど……」
「そうですか。スイートポテトは嬉しいですねえ。僕、結構好きなんですよ」
「あの、浦羽さん」
「なんですか」
「よかったら……うちのラップ、聴いてもらえませんか?」
それは、勇気を振り絞った一言のようだった。そういえば、僕は前回、状況が状況だったためにその頼みを断っていたのだ。あのとき、彼女は泣き出してしまった。
僕は「もちろんです。聴かせてください」と答えた。
「はい! ありがとうございます!」
沢子は大きく頷くと、携帯を手に持つ。
そのスピーカーから、いつぞやのインスト曲が流れ始める。
「よーよーよー、沢子みのり――『祈り』聴いてくれっ」
彼女はそこに彼女自身の言葉を乗せた。
自分の殻を破って表現をしたい――そんな積年の想いが彼女のバックボーンとともに語られ、それは固いライムと多彩なフローによって、抒情的なグルーヴを生む。
心を揺さぶる、素晴らしいラップだった。
35
香久耶は、広間にあるソファーの上で膝を抱えていた。
僕を目にすると物憂げな表情が微笑みに変わり、「道雄くーん」と猫なで声を出す。
「こっち来て。ぎゅーってしてよ」
「それはちょっと……。誰か来るかも知れないから」
「いいでしょ。もう恋人同士なんだから。遅かれ早かれよ」
僕が斜向かいのソファーに腰を下ろすと、彼女は「もーう」と頬を膨らませる。
「あたしたちのこと、宮代さんには報告したの?」
「いいや。こういう状況だからね」
「それでも、こういうことは早めに云った方がいいわよ」
「そうかな」
「絶対にそう。どうして早く云わなかったのってことになるから」
「うーん……」
千鶴はどんな反応をするのだろうか。まったく想像がつかない。
「宮代さんに報告するのが怖いの?」
「怖いってことはないよ」
「嘘だ。道雄くん、怖いんだ。ビビってるんだ」
「ビビってない。戻ったら云うよ」
「なんて云うの?」
「香久耶さんと付き合うことになったって」
「あー、それ駄目な男の云い方」
「え、どのへんが?」
「付き合うことになったって、なに? 他人事っぽいわ」
「じゃあ、付き合うことにした」
「そう! びしっと云わないとよ」
香久耶は僕の隣に移動して、腕を絡ませてくる。
「ふふふ。もう一度、練習しましょ。ほら云って」
「付き合うことにしたって?」
「そ。もう一度ちゃんと」
「いいよ。練習しなくたって云えるよ」
「そういうことじゃなくて。あたしが聞きたいのよー」
分かってはいたけれど、彼女はかなりの甘えたがりみたいだ。
「うーん、じゃあ……僕、香久耶さんと付き合うことにしたから」
「きゃ~。や~だ~」
足をバタバタさせながら抱き締められる。
僕も「苦しい、苦しい」と笑っていると、南の扉が開いて文丈が這入ってきた。
「きみたち、なに乳繰り合ってるんだ?」
怪訝そうな顔をされる。と云うか、軽蔑の視線か……?
僕と香久耶は抱き合ったまま固まっている。
「まあいい。宮代が浦羽を呼んでいたぞ。じゃれ合うのは後にするんだな」
「分かりました。行きます……」
じゃれ合っていたつもりはないが。咳払いして、僕は立ち上がった。
香久耶が「びしっと云うのよ」と念押しするので首肯し、文丈の客室へと向かう。
それにしても、なぜこんなに緊張しているのだろうか。僕に恋人ができるなんてはじめてのことなので当然、千鶴にそういう報告をするのもはじめてだ。千鶴がああいう性格なので、恋愛絡みのトークさえしたことがない。
普通に「あっそ。だから?」としか云われないかも知れないな……。




