32「フィルムノワールの隙間」
32
「低予算映画というのはアイデア勝負だ。正攻法では金が掛かっている映画に勝てないが、アイデア次第でひっくり返せる。この企画ならいけると俺は思ったわけだよ」
文丈の客室である。彼は録画・録音データの確認方法を千鶴に教えた後、PCが乗っているテーブルからは離れたソファーに腰を下ろした。僕もその斜向かいに置いてある椅子に座る。千鶴はヘッドホンを装着し、PCに向かっている。部屋にはこの三人だ。
「こんな状況だからな。ここまでの流れを、浦羽にもきちんと説明しよう」
「お願いします。ちょっと……この椅子は痛いですね」
室内にはいたるところにボルダリング用のカラフルな突起がついており、椅子も例外ではなかった。座る面までそうなっているのは設計ミスだと思う。
「浦羽、きみは昨日、親知らずを抜歯したか?」
「してませんよ。此処にいたじゃないですか」
「なら気にする必要はない。足つぼマットと同じだよ。血流が良くなるぞ。親知らずを抜歯した後なら出血に繋がるがな」
「そうですね、はい……」
香久耶や沢子と同じで、文丈の独特な言動も映画用のキャラづくりだったのだと納得していたけれど、そうでもないようだ。彼は監督であって、役者ではないのだったか。
「俺が企画したコンセプトや、緩やかが書いた脚本の流れは香久耶から聞いたな?」
「聞きました」
「だが、きみが能面をかぶった緩やかとの遭遇を隠したことで、その流れは変わった。責めているんじゃないぞ。きみの想定外の行動は、俺に抜群のインスピレーションをもたらした。そうだな、やはり順を追って話すのが良いだろう」
彼はまた立ち上がり、PCが乗っているのとは別のテーブルへと歩いて行く。
「死体のふりをしている緩やかを発見して、時限式の爆弾で橋を吹っ飛ばしたのは脚本どおりだ。その後は夕食だったな。予定ではこの時点で、きみが遭遇した男がまるで緩やかのようだと云って、霊を見たんじゃないかという話になっているはずだった。それはなくなったが、各々が怪談をするくだりは脚本に沿っていたよ。あれは霊の存在を意識させて、緩やかの霊が出たというミスリードを補強する目的だと、緩やかが話していたからな」
「まあ、云いたいことは分かりますが……」
三文小説のレベルだ。そのくらいでミスリードされるほど、現実は甘くない。
「その後は困った。とりあえず俺と香久耶がそれぞれきみと会話するシチュエーションは脚本どおりだったが、話が前に進められない。そこで軌道修正のため、緩やかがまたきみに接触したわけだ。自分のことをみなに話せと云ってな」
文丈はテーブルの上にあった魔法瓶の中身をカップに注ぐ。
「それでもきみは秘密を抱え続けた。だが俺は待てよと思った。緩やかときみのやり取りはこの部屋でモニタリングしていたが、これはこれで面白いんじゃないかと気付いたんだ。寝ている宮代を起こさないように慌てているきみと、それに対する緩やかの様子が」
カップをひとつ持って、録画・録音データの分析を進めている千鶴のもとに行くと、そのテーブルの上にカップを置く。僕は少し、それが気になってしまう。
結局、この二人は出来ているのか……?
「想定外の事象に対する役者の反応は、ときとして演技を越える。この企画の真に面白いところがここだ。これが映画だということを知らないきみがいることで、みなが常にアドリブを要求される。それが一流の役者が演技するのとは別の、新鮮なリアリティを引き出すんだ。映画監督の最大の興奮はな、想像を超える画が撮れた瞬間だよ」
僕もカップを差し出されて受け取った。中身は珈琲だ。
「俺が持ってきた豆だ。奥深い苦みが冴え渡りやがる。たまらん!」
「ありがとうございます」
「緩やかはヤキモキしていたが、俺はいっそこの路線に舵を切ってみようと考えた。なあに。使えなかったらカットすればいいんだ。そこで翌日の朝食では――いや、その前に沢子のことがあったな。あいつの部屋でラップを聴かされたのを憶えているか?」
頷く。実は珈琲が苦すぎて、平然を装うのに必死だ。
「最初に披露したラップは酷かっただろう? 緩やかの脚本に書かれていたのがあれだ。プロの監修を受けるような予算はないし、沢子すくらむというのは素人ラッパーの設定だからあんなもんでいいと、緩やかは話していた」
文丈ももとの椅子に座り、珈琲を一口啜った。「うまい!」と唸ってから続ける。
「しかし沢子の役者魂と云うのかな、あいつは役づくりを凝るタイプだ。これまでラップなんて聴いたこともなかったそうだが勉強したらしい。それでのめり込んだんだな。自分でもオリジナルのリリックを書いていた。だから脚本どおりのラップを披露してきみの反応が悪かったのを見た瞬間、我慢できなくなった。次に披露したのが、あいつが書いたラップだよ。予定にはなかったし、俺も知らなかったものだ」
「それで、全然違ったんですね」
「俺も驚いたよ。そして素晴らしいと思った。沢子の演技は優等生すぎると云うか、なにかが足りなかったんだがな。あのときのあいつは弾けていた。やっぱり脚本に縛られないで、瞬間瞬間の化学反応に焦点を当てた方が、この映画は良くなると確信した」
さらに珈琲を一口。また「うまいな!」と云っている。
僕の方は二口目にいく気になれないが。
「宮代と香久耶がチャーハンをつくっているときに、緩やかを調理室に送り込んだのも俺の思い付きだよ。前の晩が面白かったから繰り返したんだ。今度もきみのリアクションは傑作だった。もちろん、宮代と香久耶は気付かないふりをしていた。あんなの気付かないわけがないからな」
「そうですね。たしかに……」
いま思い返してみると、もはやコントである。
「朝食の後、俺は緩やかと香久耶と沢子に新たな方針を説明した。宮代にも携帯にメッセージを送ったな。各々、キャラクターの解釈に基づくことは重要だが、もっと自由になっていい。アドリブは大歓迎。俺もそのつもりで、演出やシーンを足していく。小さくまとまろうとするのはやめようと、まあそんな内容だ」
つまりはテコ入れだ、と文丈は云う。
「テコ入れ……」と僕は思わず復唱した。
僕が千鶴に嘘をついたのも、テコ入れと思ってのことだった。それが切っ掛けとなって、文丈もまたこの映画にテコを入れようと考えたのだ。
「とはいえ、ストーリーの方も進める必要がある。予定どおりに着地できるか分からなくなってきたが、事件は推進力だ。とにかく沢子のことは殺すことにした。その展開自体は、二日目の夕方に起きるものとして脚本にあったとおりだ」
「あの転落死ですね」
「そうだ。しかし変更した点もある。沢子当人に死んだふりをしてもらうはずだったのを、マネキンにしたんだ。緩やかと同じく、死後の沢子までがきみの前に現れたら、きっと面白い画が撮れるはずだと踏んだからだよ」
「じゃあ、あれは予定外だったんですか」
「うむ。脚本では、あくまで緩やかだけが双子で、霊を装いながら連続殺人を実行したという筋だ。実は途中、沢子犯人説が持ち上がるというくだりもあったが……この部分も結局なくなったな。軽く説明すると、緩やか、沢子、香久耶の死体発見現場には、ライミングが隠されているんだよ」
「それ、気付きました! 煙幕で転落して、洗濯が原因とかですよね? あとは香久耶、かるた、えーっと……サウナ、丸太とか」
「ほう! やるな!」
文丈は腰を浮かせて、その拍子に珈琲をこぼした。
「ああ、くそっ!」
「だ、大丈夫ですか?」
「まあいい。どうせ衣装だ。もとから汚れているしな……」
スモックの珈琲が掛かった箇所を、手でくしゃりと丸める文丈。
「ああ……それで、現場に隠された押韻から、ラッパーの沢子が怪しいと宮代が推理するくだりが、脚本ではあったんだよ。転落死体はマネキンじゃないかと云ってな。俺が実際に下りて、本物の死体だと確かめて、その推理は否定される予定だった。犯人が沢子に容疑をなすり付けるために施した工作だってことで」
「うーん……やりたいことは、分からなくもないですけど」
やっぱりイマイチだ。死体が本物だと確かめられたらお終いなミスリードを、犯人がわざわざ仕掛けるだろうか? 映画の観客向けと云うか、劇中でそれが必要だという説得力に欠ける気がする。
「それは、やらなくてよかったかも知れませんね。こう云ったら悪いですが、千鶴がそんなお粗末な推理をするとは思えないので……。推理の暴発ですよ、そうなったら」
「ほう。推理の暴発、と云うのか?」
僕は力強く、首を縦に振る。
「推理の暴発です。推理の暴発……推理の暴発なんですよ」
「なんだ。気に入っているのか? その表現……。まあ話を戻すぞ」
別に気に入っているわけではないけれど。推理の暴発であることは確かだ。
暴発した推理。すなわち、推理の、暴発ということだ…………。
「実際はマネキンだが、沢子の死体が発見されて、屋敷の大捜索だったな。これは本来、もっと早い段階でやっているはずだった。きみに続いて俺まで緩やかの霊らしきものを目撃したと云えば、霊じゃなくて誰か潜んでいるんじゃないかという疑いが起こるからな」
「あのときは、落涙さんは畳の下で死体のふりをしていて、沢子さんのことは皆さんで逃がしていたんですよね。僕に見つからないように」
「そうだ。結果、何者も発見できずに、霊の存在をより信じることになる」
「ならないと思いますけど……でも、どう説明するつもりだったんですか? 脚本では、落涙さんの双子が潜んでいたという真相なんですよね? なら発見できなかった理由は……劇中でも誰かが共犯者で、上手く逃がしていたという設定だったんですか?」
「いいや。脚本では、緩やかの双子は単独犯だ。大捜索は図書室でかわしたと説明される予定だった。あそこは本棚が迷路みたくなっているだろう? 挟み撃ちされないように動いてやり過ごしたというわけだ」
ちょっと無理がないだろうか……?
もしも緩やかに落涙の脚本に完全準拠していたらと思うと、少し恐ろしい。
「そして大捜索の後、料理中のきみのもとに沢子を行かせたわけだが。これがまた予想を覆す波乱の展開となったよ。ははは! きみが双子を推理しちまうんだからな!」
「そりゃあ、そうなるでしょう」
推理と云うか思い付きだが。僕じゃなくてもそうなると思う。
「あれを霊だとは思いませんよ。それに沢子さん、すくらむさんとして演技していたときと全然違うんですもの。素でしたよね、あのとき」
「なるほど。たしかに。それも別人、つまり双子を思わせる一助になったわけか。まったく脚本から外れたシークエンスで、俺もあえて演技指導せずに沢子を行かせたからな。しかし俺は後から映像を見て拍手喝采だったぞ。番狂わせすぎる!」
「どうも……」
文丈と僕とで、かなり温度差がある。
妙に気まずくなって珈琲を啜ろうとしたが、やっぱりやめた。
「その後は夕食か。そうだな……浴場で俺がきみと同じ高校だとカミングアウトしたのも脚本にはなくて、きみのリアクションに期待した俺のアドリブだ。そういう細かい点はいくつかあるが、重要なのはその後の、娯楽室の一幕だな。俺たちにとっても、生きている緩やかが確認された最後の時間だ。殺されたことと関係があるかは分からないが……」
彼は表情、語調ともに真面目なそれとなった。
楽しい映画撮影は、今となっては過去のこと。殺人事件は現実で起きてしまった。




