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20「今夜はブギー・バック」

    20


 東側の階段の下で、僕は食糧庫から飲み物を持って帰るのを忘れたから取りに行くと嘘をついて文丈と別れた。本当の理由は娯楽室の扉を見て、そういえば香久耶が夜に其処で待っていると云っていたのを思い出したことだ。

 もっとも、あれは沢子が転落死するより前の発言である。自粛と云うか、気分が変わって彼女はいないかも知れない。それでも、もし待っていたら無視するわけにいかない。

 だが娯楽室の扉を開けると、待っていたのは香久耶ではなく、能面の少年だった。

 照明とミラーボールがビカビカと輝いているなか、彼はバーカウンターの上にこちらを向いて腰掛けていた。

 一瞬驚いたけれど、彼が突然現れることにはもう慣れている。また姿を現すはずだと思っていたし、むしろ僕はそれを望んでいた。

「今回は、すべてを説明してもらうぞ」

 機先を制して宣言する。昼に取り逃がしてから、そうと決めていたのだ。

 訊きたいことは山ほどある。しかし一歩踏み出して最初に思い付いたのは、さっきの文丈との会話だった。そのまま深く考えずに問い掛ける。

「喫煙室で煙草を吸ったのもきみか?」

 少年はヘリウムガスを手にしている。また吸引するつもりだろう。そう思って待っていると、予想に反して彼はスプレー缶を床に放り捨てた。

「吸うわけがないだろ。このオレが」

「え?」

「お前にはガッカリだよ」

 少年の地声だ。はじめて聞いた。意外と低い、成人男性の声である。

 そして妙なことに、僕はこの声に聞き覚えがある……?

「理解に苦しむ。何度も云ったのに、お前はオレのことを誰にも話そうとしないな」

 話し方も、これまでと違う。そしてこの話し方も、やはり……。

「愛想が尽きたよ。お前の正解は、分母から外れることだったな」

 その言葉に、慄然(りつぜん)とする。

 少年は能面を取り去った。

 さらにはカツラまで外した。下は坊主頭で、その顔は!

 理解よりも先に到来する直感と目の前の光景が口をついて出る。

「きみは落涙? 緩やかに?」

「ボケが」

 吐き捨てて、少年はカウンターから飛び降りた。

「ファミリーネームとファーストネームじゃないんだよ。そういう構成の名前じゃないんだ。緩やかに落涙というのはな。英語圏みたいに逆転させるものじゃないんだよ」

 そういう意図はなかったのだが、どうでもいい。

 彼は肯定した――のか? いや、そうでなくとも……。

 僕が見たのは、緩やかに落涙の死顔だ。蒼白くて、絞殺の苦しみに歪んだ顔。じっくりと観察したわけではない。それでも少年の顔を見た瞬間、そうだと思った。〈分母から外れる〉という独特な表現も、その声も、喋り方も、少しだけ電話で話した彼のものだ。

「は、はっきりしてくれ。緩やかに落涙――なんだな?」

「お前、偏差値はいくつだ? ああ、答えるな。答えなくていい。ブタ小屋で育ったのを不憫(ふびん)に思うが、努力しなかったのはお前の罪だ。クソのにおいがこびり付いている」

 自分で質問しておきながら、だが僕はそんなはずがないと気付く。緩やかに落涙は死んだじゃないか。殺されたのだ。瞳孔が開き、呼吸が止まり、脈がなかったのだ。

 頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 ただでさえ不可解な出来事が絡まり合って解けなくなっていたのに、そこにさらに手を突っ込まれて滅茶苦茶に攪拌(かくはん)されたみたいだ。

「呆けているのか? だから早く宮代探偵に代われと、電話でも云ったんだ。同じ失敗を繰り返す。不快に不快を乗じて出てくる背油。それがお前だよ」

 近づいてくる。ヘリウムガスがぱんぱんに詰め込まれたリュックはカウンターの上で放置され、いつになく身軽に見える。少年――いや、少年という歳ではない。かなり小柄だけれど、顔がわかれば成人だ。無精ひげも生えている。

「背味なんて、聞いたことがあるか? サラダ味のせんべいがあるだろう? 野菜の味なんかしないのに。あれはサラダ油を使っているからだ。そっちのサラダなんだ。このくらい嚙み砕いて話してやれば、お前の脳みそでも理解できるのか? おい」

 もう眼前だ。憎々しげに、僕を睨み上げている。

「お前はせんべいの味にもなれないと云っているんだ。愚図(ぐず)が。なんとか云ったらどうだよ? なんとか、とは云うなよ?」

「……きみも双子なのか?」

 ようやく絞り出したのが、それだった。

 沢子のときと同じだ。能面とヘリウムガスのせいで分からなかった。それに彼自身も喋り方を変えていて、わざとだったのだろうが、実は彼の方がずっと先だったのだ。

 死んだ人間が生きている。

 それを説明するには、双子しかない。彼の場合、緩やかに落涙本人が生きていて、殺されたのが双子の方だったと考えれば……。

「クソが!」

 緩やかに落涙は僕を突き飛ばした。僕は足を後ろにひいて踏みとどまる。

「面白くねえ。面白くねえ。台無しだ。テコ入れなんてことを考えなければ!」

 僕はドキリとする。テコ入れと云ったか?

 彼のことを千鶴に隠したのは、テコ入れのためだった。どんな事件でも瞬時に解決してしまう彼女を、少しでも苦戦させるため。それから僕は、時間が経つほどに打ち明けづらくなって、こんな状態に陥っている。

「美術部の仮入部に行ったことがある。中学に入学したばかりのときだ。漫画雑誌が置いてあって、仮入部生はなんでもいいから模写してみようとなった。オレは人気のキャラクターを描いた。別に、そんなに思い入れはない。てきとーに描いただけだ」

 ビリヤード台の方に歩いて行く落涙。苛立ち混じりの喋り方で続ける。

「翌日も行った。するとオレが描いた絵に、上から下品な落書きがされていた。初対面の、同級生が見せてきた。面白いだろと笑いながらな。そいつはその日、はじめて仮入部に来た奴だ。オレが描いた絵とは知らなかったのだろう。それを描いた人間がまた来るかも知れないと、そういう想像力を持っていなかったんだな。その場の話のネタとしてやったに過ぎないわけだ。オレはそれが自分の絵だと云えなかった。必死に愛想笑いをした。どうでもいい絵だったが、あのときは恥ずかしかったな。美術部には入らなかったよ。絵は好きだったが、あれから描かなくなった。くだらない出来事だ!」

 ビリヤード台をぶっ叩いて怒鳴る。その身長からは子供が怒っているようにしか見えないのに、なにか、危険を感じるほどの威圧感がある。

「さっきから、きみはなんの話を……」

「その顔だよ!」

 遮られた。鬼気迫る形相(ぎょうそう)に、委縮させられてしまう。

「その反応だ。お前の情けないリアクション芸は、オレにはまったく面白くない。馬鹿な素人コンテンツに感性を破壊されたティーンエイジャー向けだな。ええ?」

 絆創膏が貼られた左手を、右手で指差して見せてくる。

「いてえよ。いてえ……。貫通しかけてる。個人賠償責任保険は契約しているか? 今すぐに保険証券で契約内容を確認するか、担当の代理店に問い合わせろ!」

 そのとき、背後で扉が開く音がした。

 振り返って、香久耶が這入ってきたのだと分かる。

「道雄さん、待っていてくれたのね」

 見つかった。まずい――と思って瞬間的に冷や汗を掻くが、しかし僕は緩やかに落涙の味方でもなんでもない。そうだ、これでいいのだ。やっと彼の存在が他の人に知れた。

「飲みましょう」

 香久耶は、バーカウンターに向かって行く。

 あれ……気付いていないのか?

 落涙の方は、ビリヤード台の傍から香久耶を睨んでいる。ぎりぎりという音が聞こえてきそうなくらい歯を食いしばって。

「香久耶さん、あの――」

「なあに?」

 魅力的な微笑を向ける彼女に、僕は落涙の方を指差して示す。

 彼女はそちらに目を向けた後、また僕に視線を戻して首を傾げる。

「ビリヤード? あたし、したことがないわ」

「香久耶さん?」

 落涙が「無駄だ」と云う。

「その女にオレが見えるわけがねえ。声も聞こえねえ。そいつに霊感はないんだよ」

 なんだって?

 その言葉を裏付けるように、香久耶は「道雄さん」と呼び掛けてくる。

「どうしたの? なにか云いたいことがあるみたい」

「いや……ちょっと、待ってくださいよ」

 自分でも不思議な心理だが、口角が上がってしまう。

 香久耶には見えていない?

 霊?

 馬鹿げた話だ。いま、僕の前で展開されている光景は。

「これは……冗談ですよね?」

「クソ野郎おおおおおおおッ!」

 落涙がビリヤード台の上に立った。僕は唖然として見上げる。

「ファック! ファック! お前のハッスルはなんだ? 張り切りやがって。八百長試合でひとりだけ、マジになってる奴かよ? お寒いんだよ!」

 怒鳴り散らす声にかぶって、香久耶が「道雄さん、どうしたのよ」と訊ねてくる。僕の視線の先をちらちらと見て、そこになにもない――なにも見えないので、疑いの色を濃くしているみたく。

「もしかして、警戒しているのかしら? 昼にあたしが、キスしたから」

「や、やめてください。香久耶さん、こんな冗談は……」

「あたしは本気よ。もう一度する?」

 手に触れてきた。僕は思わず振り払って、後退する。

 香久耶は「ふふ……」と蠱惑的(こわくてき)に笑うだけ。落涙は地団駄を踏んでいる。

「キスしろやあああ! オレの前で、やれよ! お前のリビドーを開放しろ。霊に見られながら――ははあん、そういう性癖かよ、浦羽道雄! こいつはド変態だああああああ!」

 顔を真っ赤にして、こめかみには静脈が浮き出ている。暑くなったのか、()ぐようにして浴衣を脱ぎ、その下にはサラシが巻かれている。

 サラシ! そうか、浴衣の下はサラシだ。もしかして文丈が落涙の霊を見たと話していたのは、本当にこいつを……。

「ほら道雄さん、座りましょう。カウンターに――」

「香久耶さん! 見えているんでしょう?」

「なにが?」

「まだ続けるつもりなら――僕は帰りますよ」

「どうして。来てくれたのに――」

「見えてるでしょう! あいつのことが!」

 堪らずに、声を荒げてしまう。香久耶は目を丸くする。

「もしかして、夕食のときの話? 沢子さんの霊を見たって」

「香久耶さん、頼みますよ……」

 一方で落涙は「あああああっ!」と吠えてビリヤード台から飛び降り、わざとドタドタと足音を立てながら扉の方へ歩いて行く。

「クソつまらねえ! バキュームカーが要らないわけだ! オレはもう知らねえ!」

 ばたんっ! 叩きつけるみたいに、乱暴に扉が閉められた。

 香久耶がはじめて反応を示す。少しだけ不思議そうにして。

「風……? 閉めたと思ったんだけれど」

「……本気なんですか、香久耶さん」

 情けない声が漏れてしまう。僕はもう、なにがなんだか分からない。視線の先は、落涙が出て行った扉と香久耶とを(せわ)しなく往復する。

 香久耶も困っている様子だ。彼女はまだビリヤード台の上を気にしている。

「道雄さんも本気なの? あたしを怖がらせようとしているんじゃなくて?」

「ああ……じゃあ、あれは! 見てくださいよ。カウンターの上」

「リュックのこと? ねえ道雄さん、あたし、心霊系の話は苦手なの。昨日の夜、みんなで怪談を話していたときも、本当はすごく怖くて……」

 僕にすり寄って、腕を絡ませてくる。生地の薄いネグリジェ越しなので、実際に触れているみたいに身体の感触が伝わる。

「だから怖い話は無し。ね?」

 甘えるような声。こんなに近くにいるのに、決定的に断絶しているかのよう。

 分かっている。混乱をぶつけたところでなにも解決しないし、彼女を困らせるだけだ。

「こんなに夢中にさせた、責任とって」

 彼女は僕の首筋に顔を近づける。唇が触れている気がする。

 僕は努めて冷静に、僕から離れるように彼女の肩を押した。

「僕は、部屋に戻ります……」

「やだ。今夜は駄目。お酒、飲みましょう」

「香久耶さん、僕には――どうして貴女がそんなに僕を気に入っているのか、全然分からないんです。まだ互いに、よく知らないじゃないですか! 怖いんですよ!」

 口に出してしまってから、誤ったと気付く。こんな強い云い方をするつもりじゃなかったのに。もう遅い。香久耶は明らかにショックを受けて、身を退いた。

「ご、ごめんなさい……」

「ああ、いや……」

「そうだよね……。気持ち、悪かったよね……」

「いえ……そこまでは、思ってないんですけど……」

 とにかく今の僕は混乱の極致にあり、話せば話すほど墓穴を掘るだけだ。

「すみません」とだけ謝って、僕は娯楽室を出た。香久耶は引き留めなかった。

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