19「我々の文化を骨の髄まで」
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夕食の席では、文丈がこの屋敷は新手の心霊スポットになるだろうと語り始め、僕が沢子かるてるを名乗る女と遭遇した話はやはり本気にされず、与太話として消費された。
見つけられなかったのだから仕方ないけれど、千鶴にまで信じてもらえないのは悲しかった。「道雄も疲れてるんだねえ。でも焼きカルボはいつもどおりグッドだよ」と云われただけだった。
「本当に美味しい。道雄さん、お店を開いたらいいのに。宮代さんにだけ食べさせているのはもったいないわ」
「路面スパゲッティの系譜だな。極太麺に濃くて癖になる味付け。たしかに本格派だ。都会で密かに流行中と聞くが、浦羽はどこで覚えたんだ?」
香久耶と文丈も褒めてくれたけれど、僕はうわの空だった。
夕食が済むと、先に女性陣が浴場を使う。僕は文丈からビリヤードの続きに誘われたのを断って部屋で休み、浴場の使用権が男性陣に移る二十一時になって文丈と合流した。
サウナと水風呂によって身体だけリフレッシュしても、気分はあまり晴れない。気掛かりが多すぎる。まるで終わりの見えない知恵の輪と格闘しているかのようだ。
それが表情にも表れていたのだろう。窓の下のベンチで休憩中、文丈が「悩んでいるようだな」と云って肩を叩いてきた。
「沢子の霊を気にしているのか? あいつもラップで有名になるって意気込んでいたからな。事故で命を落とすなんて不本意だっただろう」
「そうですね……」
「一円を笑う奴はなんて言葉があるが、あいつの場合は千円を笑えば、千円に泣かずに済んだ。すべては結果論というわけだ」
「文丈さん……沢子さんと組んで、僕をからかっていませんか?」
説明をつけるには、もうそれくらいしか考えられなかった。
「それはつまり、どういうことだ?」
「沢子さんは死んでいなくて。ロープであの場所に下ろして、死んだふりをしていたんじゃないですか。僕が料理をし始めたころに引き上げて、着替えた沢子さんは僕のところに来た。双子というのは嘘です。それから広間に逃げ込んだ彼女を、貴方は知らないふりをした……」
「ふむ。そう疑いたくなる気持ちも、分からなくないがな」
文丈に動じている様子はない。頭上を覆う造り物の大木を見上げている。
「しかし、あまり愉快な悪戯ではないよな。緩やかが殺されて、橋を爆破されて閉じ込められている状況で、不謹慎が過ぎるだろう。ネタばらしをしたとき、みなが笑えない」
「そうですけど……」
真っ当すぎる反論だ。僕が腑に落ちないのもそこだった。いっそ緩やかに落涙も死んでいないんじゃないかとも思ったけれど、彼の死体は千鶴が確かめたのだ。
そもそも、どうしてそんな手の込んだ悪戯をするのか、見当がつかない。
能面の少年については、相変わらず説明できないし……。
「浦羽、立て」
「はい?」
「立つんだよ、ほら」
促されて立ち上がった途端だ。文丈は「バチコーン!」と云って僕の尻を引っ叩いた。
「いたあ!」
「おら! バチコーン! バチコーン!」
避けようとしても追いかけられて、平手で確実に尻を叩かれる。「バチコーン!」の掛け声とともに、浴場内にべちーん、べちーんという音が反響する。
「やめてください! 文丈さん!」
「バチコーン! おら、もういっちょ……バチコーン! 逃げるな!」
執拗だ。腕を掴まれて、集中的に尻を叩かれ続ける。どういうつもりだ? 元気づけようとしているにしては異様だ。文丈の目には熱がこもっている。
「うら、バチコーン! そら、バチコーン! いよっ、バチコーン!」
「痛いですよ! もう! なんなんですか!」
「ああ? なんだよ、浦羽……」
文丈はようやく手を離した。
真っ赤になった尻をさする僕に、険しい顔で訊ねる。
「バチコーンと云いながら相手のケツを叩く。そういう文化のない地方で育ったのか?」
「なんですか、その文化……」
「そんなわけないよなあ? 俺たちは、同郷だもんなあ!」
「え?」
彼は自分の尻をべちんと叩いて、僕を指差した。
「私立斉唱カレン高等学校。きみと宮代が入学したとき、俺は二年生だったぜ」
「そうだったんですか? ええ?」
「わはははは! わは、わはははは、わははははは!」
口を大きく開けて、豪快に笑う文丈。僕は云いようのない不安に駆られる。
「どうして云ってくれなかったんですか? 初対面だと思ってたのに」
「初対面さ。話したことがあれば、きみたちだって憶えているだろう? だが俺はきみたちを知っていた。有名人だったもんなあ。ほら、二年生のときに殺人事件を解決しただろう?」
文丈は手を振り上げた。またバチコーンがくると思い、僕は身構える。
しかし彼は哄笑するだけだった。
「ぎゃははははははは、はははは! ぎゃははははははははは!」
「なにがそんなに、面白いんですか!」
「ははっ、ははは――面白いさ。ケツを、十発以上、叩いてやった!」
ついていけない。この人はこんな変態だったのか? 少し気難しいところがあるだけで、良い人だと思っていたのに。それに僕らの地元には、バチコーンと云って他人の尻を叩く文化なんてない。聞いたことがない。
「ほら、湯船に浸かろうぜ」
「いいです、僕は」
「二、三分でいいんだよ。身体を温めておけ。ゆっくり眠れるぞ」
「ですが……」
「血流が良くなるし、筋肉や関節の緊張も緩和される。入浴によるストレス軽減には、いくつものエビデンスがあるんだ。悩んでいるなら、いいから浸かれ」
またもや突然だ。先ほどの狂気じみた振舞いなどなかったかのように、文丈はもとの彼に戻っている。
一体なんだったんだ……?
湯船に入ると、叩かれた尻がヒリヒリと傷んだ。だけどそんなこと怖くて云えないし、同郷であるという話を掘り下げることもできなかった。文丈の方は普通に話し掛けてきて、ギクシャクしているのは僕の方だけなのだが……。
ただ、ガウンを着て廊下に出たところで、僕は思い出してひとつだけ質問した。
「煙草を吸うのは、文丈さんですか?」
「いいや。有害と分かっているものを好んで取り込むわけがないな」
左手の喫煙室だ。大捜索のとき、灰皿に吸殻が溜まっていることに気付いた。
「沢子か、香久耶だろう。聞いていないがね」