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16「Rei」

    16


 三十分経っても、沢子が戻ってこない。

 洗濯物を取り込んでくるだけなら、十分も掛からないだろう。途中で誰かと会って立ち話しているにしても、僕を待たせている状態で、こんなに遅くなるだろうか。

 おかしいと思い、僕は部屋を出た。とりあえず物干し台へと向かい、必ず通ることになる広間に這入ったところで、能面の少年に出くわす。

「お兄さんはミステリを読むそうだね?」

 ヘリウムガスによって不自然に甲高い声。緩やかに落涙の死体が埋まっている畳の上で、膝を抱えて座っている。身体は僕に対して垂直で、能面だけがこちらを向いている。

「きみは……そんなところにいていいのか?」

 僕が近づいていくと、少年は開いた手を突き出した。黒い革の手袋を嵌めている。浴衣にリュックサックという格好は変わっていないが、その手袋だけが変化だ。

「来ないで。それ以上距離を縮めたら、硫酸を引っ掛けることになる」

 彼はビーカーを手に取って見せた。背後に隠していたものだ。

 中には無色透明の液体が入っている。硫酸だって……?

「いま、這入ってきたのが僕だったから良かったけど、分からないじゃないか。他の人だったら、どうするつもりだったんだ?」

 足を止めて問うた。中央の、畳が外されている箇所の手前だ。

 少年は能面を少しだけ持ち上げて、ヘリウムガスを吸引する。

「訊けば教えてもらえる、そんなことばかりではないよ。世の中はね。だけどフェアプレーは大切だ。ミステリを読むお兄さんなら、分かるよね?」

「どうしてミステリの話なんて」

 たしかに、ミステリでは解決編の前に、謎を解くための手掛かりを読者に提示しておかなければいけない。それでいて読者に解き明かせない、意外な真相を望まれる。

「これはレイの話だよ。お兄さんはただ、大人しく聞いていたらいい。レイが六歳のときに、両親が離婚したんだ。レイは父親に引き取られた。だけど父親は仕事が忙しくて、ほとんど家にいなかった。レイは孤独に育ったんだよ」

「待ってくれ。レイって誰だ?」

「レイは中学三年生になった。部活には所属していなかった。放課後は家に帰らず、あちこちを散歩しながら、自由な空想に(ふけ)っていた。ある日、町外れの豪邸の庭に足を踏み入れて、そこでレイはひとりの男の子に出逢った。男の子はその豪邸の子だった」

「だから、なんの話を――」

 一歩前に出ると、少年がすかさずビーカーを持ち上げる。

 大人しく、聞いているしかないのか……?

「レイは放課後を、その男の子と過ごすようになった。男の子は学校に通っていなかった。豪邸の庭から出ることも許されなかった。男の子は隠し子だったんだ。社会的に存在しないはずの子だよ」

 合間合間でヘリウムガスを吸いながら、少年は意味不明な話を続ける。彼がそこまでして声を変え続ける理由も分からない。

「そして十月三十一日だ。レイは男の子を連れ出して、自分の家に帰った。男の子は押し入れの中に隠れることになった。男の子は不安そうにしながらも、この冒険を楽しんでいた。それだけレイを信頼していたんだ。たったひとりの友達だからね。夜遅くになると、レイの父親が帰ってきた。父親は風呂に入って、すぐに寝た。そのころには男の子も、押し入れの中で眠っていた。レイは家の中にガソリンを撒いて火を点けた」

 少年はスプレー缶とビーカーをそれぞれ持ったまま、立ち上がる。

「レイは中学卒業後、高等工科学校に行くように決められていた。父親はレイを自衛隊に入れるつもりだった。それが嫌だった。だから父親を殺して逃げた。レイも死んだことになった。男の子の焼死体が身代わりだった。男の子は社会的に存在しない子だから。そうやって自由になったレイは、六歳のときから会っていない、母親のもとに向かった」

「なんだ、その話……実話じゃないだろ?」

鈴乃(すずの)レイ。六年前の十月三十一日。此処を生きて出られたら、ネットで調べてみなよ」

「変な云い方だな。生きて出られたら、なんて」

「もうひとつ、憶えておくといい。レイはね、ずっとベジタリアンなんだ」

 少年は顔だけ僕に向けたまま、迂回して、僕が這入ってきた北の扉へと向かっていく。

「待ってくれよ! いい加減、きみは誰で、目的はなんなのか――」

「話は終わりだ。訊けば教えてもらえるばかりじゃないって、云ったじゃないか。お兄さん、ボクよりも今は沢子すくらむを気にした方がいいよ」

「沢子さんが、どうしたんだ」

「彼女は向こうだ。外に出て、確かめないといけない」

 肘でドアノブを下げ、背中で扉を押して、少年は広間を出て行こうとする。

「不幸だったんだ。だけどこれからは、こういう不幸が続くぜ」

 激しい逡巡(しゅんじゅん)が、僕の脳内だけでなく全身を駆け巡った。結果、僕は少年に背を向けて南の扉へ向かった。なにがなんだか分からないけれど、とにかく不吉な予感に急き立てられ、広間を出て廊下を進んで玄関を出て、南東の物干し台へ。

 沢子の洗濯物は干されているままだ。沢子の姿はない。

 しかし、僕はそれに気付いて、心臓が止まったみたいな衝撃を味わう。

〈くりえいてぃ部〉を囲む崖には、等間隔に杭が打ち付けられて、ロープが渡されている。申し訳程度の転落防止だ。そして物干し台の正面、わずか二メートルほど先にある杭が、崖の外側に大きく傾いている。

 恐る恐る、崖のふちまで歩を進める。

 祈るような気持ちで、その下を覗き込む。

 十五メートルほど下に、岩が出っ張っている場所がある。其処で沢子が死んでいた。

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