1「三田池邸の殺人」
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三田池邸に到着して五分足らず。帯という名前の家政婦は僕らをまず応接間に通そうとしたが、千鶴はそれを断って現場まで案内させた。被害者・足袋の自室だ。
帯に他の家人を呼んで来させている間に、千鶴は室内そして死体を観察する。僕は後にこの事件を小説化するため、家具の配置や死体の位置などを手帳にメモしておく。
這入って右手がクローゼット。その戸に一部重なる格好で、本棚が壁につけられている。右奥には窓に向かって勉強机。椅子に腰掛けると、部屋の入口に背中を見せることになる。左奥には大きな液晶テレビがあり、画面を左手前のベッドに向けている。ベッドが接している廊下側の壁には、高校の制服やシャツが吊るしてある。
死体は勉強机の前で、壁に寄り掛かるようにして倒れている。頭の左側を殴られ、椅子から落ちたらしい。足元に血のついたマリア像が残されており、これが凶器だろう。
「これ、赤本ってやつ? 大変だねえ、受験生は」
千鶴が勉強机の上を指差した。ノートが広げられ、シャーペンも転がっている。
「勉強中に後ろから殴られたみたいだな」
「うん。イヤホンをしてるせいで、犯人の接近に気付かなかったんだね。音楽とか聴きながら勉強するスタイルだったのかな」
彼女はそれからテレビデッキの裏やベッドの下を覗き込む。「なるほどね」なんて呟いて、なにやら得心している様子だ。
そうしているうちに、帯が三田池家の人々を連れて戻ってきた。
「いやいや、すみません。すぐに来ていただいて。わたしが三田池袴です」
小太りの男が頭を下げた。彼は有名な実業家で、テレビ番組に出演しているのを何度か観たことがある。脂ぎった顔をハンカチで拭きながら、続けて饒舌ぶりを発揮する。
「本当に困ってしまいまして。どうやら強盗なんかじゃないみたいです。電話の後も探してみましたが、やっぱりなにも盗られていませんのでね。セキュリティもしっかりしていますし。すると犯人は身内の誰かかも知れんのですよ。しかしみんな、自分じゃないと云い張るんですな。もちろんそうであって欲しいですがね。そうは云っても、もしも身内が犯人なら、警察を呼ぶ前に家族の作戦会議が必要でしょう。世間体がありますから。あるいは強盗とかでなく、足袋に恨みを持った何者かが侵入したなら、そうと知っておきたいわけで。とにかくここはひとつ、探偵さんのお力を――」
「分かった分かった。訊いてもないことをダーッと喋らないで」
千鶴は片手を振ってあしらった。彼女は誰にでもこんな態度だ。
「あとみんな、廊下に溜まってないで這入ってきて。ほら早く。そうそう。これで全員だね? じゃあ道雄、その手帳でいいから、みんなの下の名前と被害者との関係を書いてもらって。袴、父親って感じで。ひとりひとり自分でね」
僕は云われたとおり、みなに手帳とペンを渡して順々に書き込んでもらった。
父親の袴。下手な字だ。表情はずっと苦笑い。息子の死にショックを受けている様子はあまりない。もっとも、この家の主人として、努めて気丈に振舞っているのかも知れない。
母親の羽織。乱れた字だ。うりざね顔の美人だが、いまは目元が赤く腫れていて、啜り泣きを続けている。死体に背を向け、壁に手をついている。
兄の襦袢。雑な字だ。顔も仏頂面だけれど、思いやりの心はあるらしく、羽織の隣に立ってその背中をさすっている。父親と違って引き締まった身体つきだ。
義姉の詩乃。きれいな字だ。襦袢の妻で、年齢は二人とも二十代前半に見える。不安そうな表情を浮かべ、落ち着きなくキョロキョロとしている。
妹の雪駄。ちまちました字だ。前髪が長いうえに俯きがち。肌も白く、普段からあまり活発な方ではないと思われる。歳は十五、六だろう。
家政婦の帯。特徴のない字だ。眉根を寄せて唇を噛み、沈痛な面持ちでみなの後ろに控えている。
以上、六名。しかし千鶴は手帳の字を大して確認せず、みなに質問する。
「前はこの位置にベッドが置いてあったみたいだね?」
彼女が指でなぞるように示したのは、フローリングの床に残っている痕だ。勉強机が置いてある窓際から縦に長く、日焼けをしていないために色が周りよりも薄い長方形の痕がある。たしかにベッドと同じくらいの大きさだ。
少し間をおいてから、帯が遠慮がちに「そうですが……」と答えた。
「ベッドを動かしたのはいつ?」
「えっと……一ヶ月ほど前だったと思います」
「帯さんの他にそれを知っている人は?」
手を挙げる者はいない。袴が「息子の部屋に這入る機会などないですからなあ」と頬を掻いたが、そこで詩乃が「雪駄ちゃんは?」と訊ねた。
「お兄ちゃんと仲良いでしょう?」
「……だけど、最近はあんまり。部屋には」
雪駄は俯いたまま、ぼそぼそと喋った。
千鶴が「ふうん」と目を細める。
「帯さんがこの部屋を掃除するのは毎日のこと?」
「はい。毎日しております」
「でも、いちいちベッドをどけてまでいないよね?」
「えっと……そうですね。そうですけど……」
「道雄、そのベッドをどかしてみて」
僕はまた指示どおりにする。ベッドが壁から離れると、千鶴はその裏に回り込み「やっぱりねえ」と云った。
「埃が全然たまってない。一ヶ月あったら、たまるはずなのに」
「あっ、いえ――ベッドをどかして掃除しました。つい最近」
慌てた様子を見せる帯に、千鶴は半笑いで返す。
「つい最近って云うか、ついさっきでしょ?」
「え?」
「死体を発見してから、袴さんに報せに行くまでの間に、家具の配置と死体の位置を変えたんでしょ? バレないように、でてきた埃はきれいに掃除して」
全員の視線が帯に集中した。彼女は口を半開きにして固まっている。
「キモいんだよ、この配置。勉強机が窓に向かっていたら、日差しが顔に直撃して集中できないじゃん。あと本棚がクローゼットの戸にかぶってるのもキモい。壁にかかってる制服も、これじゃあベッドに乗らないと取れないし」
千鶴は僕の手から手帳とペンを取り上げてなにか描き込むと、みなに見せた。
僕が先ほど描いた図の下に、新たなそれが追加されている。
「足袋さんが殺されたときは、下の配置だったんだ。それを帯さんは動かした。テレビ専用コンセントが左奥にあるせいで、テレビデッキの位置は変えられない。すると、勉強机は窓に向かうこの位置にするしかないんだよね」
「待ってください。どうして帯は、そんなことをしたんです?」
袴の問いに、千鶴は事もなげに答える。
「犯人が左利きなのを隠すためだよ。足袋さんは頭の左側を殴られた。いまの配置なら、椅子に座った足袋さんのすぐ右側が壁だから、右利きだったとしても左から殴るしかない。だけど、もとの配置は左右どちらも空いているから、犯人はあえて左から殴った、つまり左利きだったと分かっちゃうでしょ? さっき手帳に名前を書いてもらって確かめた。このなかに左利きは、雪駄ちゃんしかいないね」
今度は雪駄に視線が集中した。袴が「そうなのかい、雪駄……?」と訊く。彼女は顔を上げない。ブラウスの裾を両手でぎゅっと握り、小さく震えている。
「帯さんは雪駄ちゃんをかばったんだ。犯行に居合わせたのか、後から相談されたのか、死体を見て自分で気付いたのか、いずれにしてもこのままじゃあ唯一の左利きである雪駄ちゃんが犯人だとすぐにバレちゃうから、配置を変えたんだね」
「ああ!」と声を上げて、帯が床に崩れ落ちた。雪駄は「ううっ……」と泣き始めた。
他の者はまだ真相を飲み込めていないのか、唖然としている。そのなかで、羽織がとうとう耐えきれなくなって叫んだ。
「い、いやあああん! あんあんああん! こんなの、いやああああん!」
両手をバタバタと動かして暴れている。襦袢が落ち着けようとして抱き締める。
千鶴は呆れたような顔で、打ち切るように手を叩いた。
「雪駄ちゃんが兄を殺した理由とか、帯さんがそれをかばった理由とかは、家族の作戦会議で聞いてください。じゃあ私たちは帰るんで。道雄、袴さんに小切手を書いてもらって」
三田池邸に到着して三十分足らず。事件は解決した。