手記 ―薔薇の王とスカンディアーニの呪われ子―
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王都の決闘士
作者:ξ˚⊿˚)ξ <ただのぎょー(Gyo¥0-)
の、作者公認・監修のスピンオフ・ファンSSです。
王都の決闘士の約20年ほど前のお話です。
こちら単体でも読んでいただけます。
融けて消えてしまうのではないかと思った。
白く、小さくて、触れてしまえば儚くなってしまうような一重咲きの蔓薔薇の妖精。
その美しい琥珀の瞳に詩のひとつでも諳んじてしまいそうになって、ふと立ち返る。
私の最愛、トゥーリア・スカンディアーニとの初めての出会いは、そんな印象だった。
――少し、私の昔話に付き合って欲しい。
思い起こせば……私、ユリシーズ・ローズウォールの人生は、順風満帆な始まりだったのだろうと感じている。
ブリテン国の貴族位という恵まれた家に、なんの不自由もなく生まれ育った。
両親から受け継いだ金髪と翠眼は多くの人を惹きつけたし、実際周囲の人々から愛されてもいた。
幼少期の出来事をおぼろげに記憶している。
庭師が雑草を処理していたときのことだ。
私は子どもらしい好奇心からその様子を眺め、見様見真似でたんぽぽを引き抜いた。
まあ、子供の手では根から抜くことなどできないのだが。
黄色いたんぽぽは可愛らしい花だが、男児の私が抜いたとて花冠が作れるわけでもない。
「わたげだったらとんでくのに……そうだ」
私はポケットの中から白墨を取り出し、庭石に習いたての魔法文字を書く。
単純な菱形の模様だ。
「うめよーふやせよーちにみちよー」
イングの魔法文字、その意味は新たな命。
ちなみに当時の私はまだ魔術を学んでいない。
ただ、その前提として文字を教わっていただけである。
だが、それでも魔術は発動した。
魔術文字を描いた岩に腰掛けた途端、私の手の中の黄色い花は綿毛と化し、面白がった私はたんぽぽの花を次々と引き抜いては吹き飛ばして遊んだ。
庭師は自分の仕事を増やしかねないその所業に執事へと泣きつき、私がたんぽぽを綿毛に成長させたことはすぐに両親へと伝わった。
早急に手配された魔術の家庭教師は、植物に親和した私の才能をすぐに見抜いた。
「この子は……きっと魔術師として名を成すでしょうね」
その一件から神童とも呼ばれるようになった。
十代には名門サウスフォード全寮制魔術学校に学び、かの高名なミセス・ロビンソンことメリリース・ロビンソンに師事するという幸運にも与った。
在学中に契約を交わした使い魔である蜜蜂のアピスは、植物を操る魔術師としての私の地位を確立するのに大いに活躍してくれた。
「お前はきっと、どこまでも昇りつめるんだろうなあ、ユリシーズ」
羨望が含まれた声でよく学友たちは言ったものだ。
周囲のその期待や想像通りに卒業後には首尾よく魔術塔へと歩みを進め、その数年後に大魔術師となった折には植物系最高位魔術師であるとの誉れをも戴くことになった。
そして、冠された大魔術師としての号は『薔薇の王』。
自分の行く手を阻むものはなにもないように感じていた。
私はその頃、いささか傲慢な若者であったように思う。
二十を過ぎた頃に、生まれて初めての挫折を味わった。
魔術塔での政争に破れたのだ。
これについては多くを語りたくはない。
逃げるようにブリテンを去り、私は大陸への旅に出る決意をした。
「『薔薇の王』が平民にまで堕ちたか」
それまで自分を持ち上げて来た人間たちの揶揄と嘲りの声が私を見送った。
大魔術師であるという自覚だけが、かろうじて私の身と心を守るものとなった。
私はこのときに自省し、以前とは少しだけ違う性質になったのではと感じる。
傷つき、いくらか破れかぶれになっていたことは否めないが、今となってはそれも昔のことと言い切れる。
では、かつてのブリテンでの生活に未練はないのか、と問われると……それはわからない。
その後、終わりが見えないように思えた旅の途上でスティバーレ王国の北方戦役に巻き込まれたことについては、当時は苦い思いでいたものの、今の私がこうしてあるのだから結果としては良かったのだろう。
沢山の見たくないものを見た。
沢山の知りたくないことを知った。
骨の髄まで疲弊しながら、私が戦功を上げたのは二十五のときだった。
「まさに、君はブリテンから来た『英雄』だな」
そう呼ばれるのにも、すぐに慣れてしまった。
叙爵され、他にもいくつか功を労われて領地をあてがわれ、あれよという間に北部フリウール地方の東の都・ウーディネに居を構えてみれば、二年が経過していた。
その間に築いた私設の薔園にて、使い魔アピスを中心とした養蜂を家業として据えたが、そこから生まれた香水と薔薇の蜂蜜が商品としての高い価値を示したことは、『薔薇の王』という私の大魔術師としての号を補強し、事業家としての名をも立たせることになった。
スティバーレ王国で私は揺るぎない地位を得た。
だがたった数年でこれらのことを成し遂げた外からの若造に、旧来のスティバーレ貴族たちが良い感情を持つわけもない。
表立った攻撃がないだけで、水面下で私の足元を掬うための動きはいくらでもある。
「お会いできて光栄です、我が国の『英雄』殿」
ブリテンにいたころには社交をそれなりにこなしていたおかげか、貼り付いた微笑のおべっかも隠された敵意も、笑顔で流してやり過ごすことができたし、幸いなことにそれが苦にもなりはしなかった。
大同盟暦百年という節目の年を目前に、私は、郷里ではない異国の地でただひとりだった。
出奔者と揶揄されているのは知っている。
成り上がりだとか、外様だとか、言いたいやつは言えばいい。
私は、私の前の道を征くだけだ。
だから、その手を取ったのはひとえに打算からだった。
もちろんあちらもそうだっただろう。
それは、子爵から伯爵への陞爵の儀のためにしばらく王都に滞在していた時期のことだ。
いかに当時いくつもの功績を上げていたと言えども私の敵は多く、まだ叙爵されて数年でもあることから、その陞爵は異例のことと言えた。
しかし誰からも異論が出なかった理由は、王家の血統のひとつであるスカンディアーニ公爵家の当主、ファウスティーノ・スカンディアーニ公の推挙によるものだったからだ。
子爵位を拝した際にいくらか言葉を交わしたことがある程度の関わりであり、それほどのことをしてくれるだけの義理もない間柄だった。
スカンディアーニ公から正式な招待を受け、その王都邸を訪れた。
彼は衒いのない瞳で私を見て言った。
「君に、私の末の娘を娶せたい」
単刀直入すぎる言葉に思わず失笑してしまったものだ。
確かにスカンディアーニとしては、北の要衝を抑える力を持つがゆえに脅威ともなり得る私との縁戚関係は、他の勢力に行かれると困るという理由も相まって手に入れて損はなかっただろう。
だから私に恩を売って抱え込み、身分的にも自分の娘と均衡が取れるように引き上げたのだと私は考えた。
よすがなくただ爵位と領地と栄誉だけを得た、広域殲滅魔術の使い手である英雄、北方辺境の守護者、そして、薔薇の王。
ローズウォール魔導伯と呼ばれる身になったその時、私に足りないのは盤石な横のつながり、ひとえにスティバーレ王国の貴族社会で闘い生き残るための人脈だった。
あちらの思惑がどうであってもいい。
私は差し出された手を取った。
私自身にとっても又とない話だった。
中部にある王都ラツィオから、約三百キロ北上してフローレンティアへ。
心変わりを警戒してか、領地に帰らせる時間も惜しいとでも言うかのように、公爵は惜しみなく高位の転移術士すら用いて自領へと私を攫っていった。
「試すようなことを言ってすまない、君の力を見せてくれないか」
公爵邸についてから、スカンディアーニ公は言った。
私は快諾して庭園の土地の一部を借り受け、肌身離さず持ち歩いている薔薇の種を取り出し、そこにいくらかを埋めた。
「〈栽培促進〉、〈豊穣〉」
術式を唱え生長を促すと、〈豊穣〉の養分を受け、目に見える速さで薔薇の芽が出、枝葉が育っていく。
「〈植物祝福〉、〈満開〉」
腰までの高さに育つと、いくつもの蕾をつけ、赤い八重の花を咲かせた。
「……見事なものだな、さすが『薔薇の王』だ」
「ありがとうございます。
こちらは最近当家で開発した新種です、香りが良く棘がない。
切り花と香料の原材料として用いようと思っています、お近づきの印に」
「名はなんという?」
「まだ決めていないのです」
求婚の形としていくらかは整えるため、一輪手折って胸元のフラワーホールに差し込んだ。
訪う以前から、スカンディアーニ公爵家の末娘の噂は聞いていた。
その名も『スカンディアーニの呪われ子』だ。
まだ十五歳という若さ。
物騒に渾名され、本人はどう思っているのか。
――丁寧に閉じ込められていて、もしかしたらそう噂されているという事実すらも耳に入らなかっただろうか。
生まれてくるときに、魔力暴走を起こして母親を傷つけてしまったのだという。
以来、末娘だけは家族と離れて暮らしているのだ、と。
魔力制御が一切できないがために、周囲の人や物に不随意の、そしてときに甚大な影響を与えてしまう。
お互い一命を取りとめたとはいえ、こうしてその娘に求婚者がやって来たとしても母親であるスカンディアーニ公夫人が姿を見せないことや、珍獣を見物するかのような表情で形ばかりの挨拶にきた幾人かの兄姉たち、そして、公爵自身がその件について多くを語ろうとしないことからも確執の深さを感じさせた。
「私が死んだ後、あの子が……トゥーリアが、どうなるかと思ってね」
ふとこぼれた言葉は、公爵の父としての本音だろう。
彼が末娘を愛していることは確かだった。
彼は隠さずに私に状況を伝えてくれたと思う。
これまでもトゥーリア嬢の婚約を作ろうとしたことがあったこと、またそれが破談になったこと。
そして私が『英雄』ともてはやされたときには私のことを考慮に入れていたし、叙爵の際に近づき会話をしたのは私の人となりを確認するためであったこと。
元は外国籍である私ならば、彼女の幼少期に受けた心的外傷の原因と、それによって生まれた二つ名である『捻る者』について、詳細は知らないであろうこと。
そしてそれを、本人が話そうとしない限り無理に聞き出すことはしない人間ではないかと感じたこと。
さらに、たとえその内容を聴いたとしても、変わらずにいてくれるのではないか、と。
トゥーリア嬢の嫁ぎ先として、私はこれ以上望むべくもない相手に思えたようだ。
先触れは、王都を出立する前になされていた。
長い長い回廊を、公爵自身に導かれて進む。
庭園は美しく、進むにつれてそれは少しだけ寂れた。
館の前で出迎えたのは褐色の肌のエルフ女性だった。
どこにでもありそうな白黒のメイドのお仕着せを着ている。
緑を帯びた銀髪は高く結い上げられていて、鮮やかな緋色の瞳は私を真っ直ぐに見据えた。
その容姿の情報から記憶にひっかかっていた名前がふと脳内で浮上し、私は驚いた。
目が合った瞬間、私は測られている、と悟った。
「お待ちしておりました」
微笑みは是認だった。
どうやら私はそのエルフ女性の御眼鏡に適ったらしいことに気づいて、幾分肩の力を抜いた。
状況から考えて彼女はトゥーリア嬢の専属メイドなのだろう。
礼を取って控え、自ら名乗らないことからも仕える側の人間であることが伺える。
笑ってしまう、そんな器ではあるまいに。
「彼女はアルマ、S級決闘士アルマ・北斗七星の名は、ブリテンにも響いていたのではないかな? トゥーリアの魔力暴走が起きないように対処してくれている」
「ええ、まさかこんな形でお会いできるとは思わず驚きました、全四十戦全勝の女性決闘士の噂はもちろん聴いています。
電撃引退後、まさかスカンディアーニ家に身を寄せていらしたとは」
「お陰でいくらか娘も羽を伸ばせるようになった。
アルマ、こちらはユリシーズ・ローズウォール伯爵だ」
公爵が改めて私を紹介すると、アルマは婉然と微笑んだ。
「はい、ご高名はかねがね。
叶うならばぜひ円形闘技場でお会いしたかった」
「御冗談を、私など貴女の手にかかれば赤子でしょう」
「いえ、本心ですよ、貴方とならいい試合ができたでしょう。
どうやら引退を早まったようです」
嘘か真かもわからぬ声色で言うと、アルマは館へと私を招じ入れ、ひとつの扉の前に導いた。
異様な扉だった。
あきらかに、その扉だけが他のものと違う材質、重々しい金属でできている。
「お嬢様、御館様と、お客様がおみえになりました」
通されて、私はトゥーリア嬢が置かれている状況は想像を軽くしのいでいることを知る。
最初に目に飛び込んできたのは、黒々とした空間だった。
スカンディアーニ家の離れ、内装が鋼で補強された堅牢な、まるで砦のような部屋。
鉄の格子は彼女を捕まえておく鳥籠のようだった。
存在を主張するかのように室内に影を伸ばすその鉄窓は、彼女のためだとでも言うのだろうか?
人らしい生活に足りるものすらない、殺風景な、ただ生きるだけの場所。
牢獄よりは幾分ましな程度だな、というのが私が抱いた印象だ。
「……はい」
返事はどこか不安げな声だった。
視線の先で、椅子に座った令嬢がゆっくりと起ち上がる。
驚いたことに椅子もテーブルも、すべて動かぬよう床にしっかりと固定されていた。
長い白金髪を背に流し、うつむきがちな顔は緊張ゆえか色を失っているように見えた。
とても小柄で、大柄な私と並べばきっと胸にまで顔が届かない。
こちらに向き直り、ていねいに淑女の礼をとる。
「……はじめまして、ローズウォール伯爵。
スカンディアーニの娘、トゥーリアでございます」
向き合って、私はとっさに返事ができなかった。
――融けて消えてしまうのではないかと思った。
白く、小さくて、触れてしまえば儚くなってしまうような一重咲きの蔓薔薇の妖精。
私をじっと見つめる大きな琥珀の瞳は、さながらおしべのように花である彼女自身を引き立て、どうしても視線をそこから外せなくさせた。
私はひと目で恋に落ちた。
物々しいその鋼の世界にあって、彼女はただひとり美しい存在だった。
「……初めまして……ユリシーズ・ローズウォールです」
やっとのことで声を出したが、それはスカンディアーニ公爵がちらりと私の様子を窺ったことに気づいたからだ。
居住まいを正してトゥーリア嬢に向き直る。
愛らしかった。
それ以外に今も昔も言葉がない。
「……この、部屋は……魔力制御のためなのですか」
話題選びが下手な自覚はあった。
「……はい」
どう説明してよいのかわからぬのか、考えあぐねた様子でトゥーリア嬢は少しだけ首を傾げる。
「皆さま、お座りになられてはいかがですか。
ローズウォール印の薔薇果茶を淹れましょう、最近のお嬢様のお好みです」
「いや、私は席を外すことにしよう。
私が居ては、話したいことも話せぬであろうしな」
踵を返してスカンディアーニ公爵は今来たばかりの扉をくぐる。
「隣館で執務でもしている……終わったら声を掛けてくれ」
十二も年下の少女を前に、まるで初心な少年時代に戻ったような気持ちになった。
促されて固定された席に着く。
出された茶は予告通り私の商社で開発し販売しているものだった。
この愛らしくも悲しい少女の心を少しでも慰撫できているのだとしたら、私の仕事もそう見下げたものではない。
そう思うと自然と口元に笑みが浮かんだ。
「この茶の原材料は、なにかご存じですか?」
私が尋ねると、トゥーリア嬢は不思議そうな表情を浮かべた。
少しだけ自信なさげな様子で答える。
「薔薇の果実でしょう?」
「そうです、その中でも、これは自生種である蔓薔薇の果実を用いたものです。
春に淡い桃色の一重の花を咲かせますが、変異種で白や濃い桃色の花もある」
「ええ、アルマが摘んで来てくれたことがあります、かわいらしい花」
「そうですね……私は特に白いロサ・カニナが好きなのです。
小さく、愛らしく、慎ましやかで」
茶を口に運ぶ。
次の言葉を待つように、トゥーリア嬢は私のその姿を眺めていた。
私は茶を卓に戻して真っ直ぐに視線を返した。
「先ほどお会いしたとき……貴女のことを白いロサ・カニナの妖精だと思いました」
言葉の意味が飲み込めなかったのか、白い妖精はその動きを止めた。
しかしすぐに淡桃に色付く。
彼女の手元のカップとソーサーが、人手に依らずに震えてカチャカチャと音をたてた。
後方で控えていたアルマに緊張が走る。
カップを手に取り、彼女も茶を口に含んだ。
ソーサーだけがカタカタと震えている。
うつむいてしまった顔はなかなかこちらを見ない。
「お嬢さん、私は貴女に求婚に参りました」
「……はい」
「どんな女性であっても愛そうと決めていた、それが貴族としての務めだと。
けれど貴女に会って、考えが変わりました」
物問いた気に長い睫毛が少し上向いた。
目が合うとまたすぐに伏せられてしまう。
ソーサーは静かに止まった。
「貴女を愛することが義務なわけがない、不可抗な出来事だ。
貴女に出会うためにスティバーレにたどり着いたのだとしたら、私の人生もそう悪いものではなかった。
私は貴女を妻に迎えたい」
ソーサーにひびが入る。
わかりやすいものだ、と私は微笑んだ。
「受けてくださいますか、トゥーリア嬢。
私は貴女の意志をないがしろにはしたくない」
アルマは待機の姿勢のままいつでも動けるように注視している。
「……ずるいわ、そんなことを言うなんて。
わたしは、わたしの意志なんて……」
言いたいことは十分にわかっている。
彼女にとって私に嫁ぐことはすでに定められたことで、そこに彼女の意志は介在し得ない。
私にも都合がいい縁談であることも間違いない。
スカンディアーニ公がどれだけ娘を愛していたとしても、これは政略のひとつだ。
まして、『スカンディアーニの呪われ子』であるなら。
「それでも、私は貴女の言葉が欲しいのです」
うつむいたまま、トゥーリア嬢はつぶやいた。
両手で包んだティーカップをじっと見る。
「……わたし、あなたのことを知らないわ」
「そうでしょうね」
「……それに、会ったばかり」
「貴女を恋するには十分な時間です」
「……わからない、そんな、物語みたいなこと」
「物語ですよ、ここから始める、私たちの」
自分でもよくこんなにすらすらと浮いたことが言えるものだと思った。
だが本心だ。
おそらく私にはまだ見えていない問題が、この少女を取り巻いているのだろう。
なにも、こんなことを言う必要は、本来はないのに。
「私は貴女を妻として愛したい。
決められたこととしてではなく、貴女の意志で私のもとに来て欲しい」
美しい琥珀の瞳が揺れた。
紅がなくとも色づいている愛らしい唇がかすかに震えて、静かに歌うように彼女は告げた。
「あなた、虹は見たことあるかしら」
突然なされた質問に、私はいくらか面食らった。
「ええ」
「そう、本には書いてあるんだけど、わたし見たことがないの」
首肯した私にそう告げて、彼女は格子が嵌った窓へと目をやる。
私はなにも言えなかった。
「海は見たことあるかしら?」
「ありますよ、渡ったこともある」
「コップの水は透明なのに、なぜ青いのかしら? 本にはそう書いてあるの」
稚い質問に、私は優しい気持ちを覚えて答える。
「それは、水が青以外の色を吸収しやすいからですよ。
たくさんの水が集まると、光が当たったときに青以外の色が吸収される。
残った青色の光が反射して人の目には青く見えるようになります。
コップの水が透明に見えるのは、光の色があまり吸収されないからです」
「光に、色があるの?」
「ええ、人の目には眩しいだけに思えますが、実は赤と緑と青を混ぜ合わせて、何通りもの色になっているんですよ」
私に向き直り、彼女は信じられない、といった表情を見せる。
「あなたは、物知りねえ」
ふわりと微笑んで彼女は言った。
――心の底から……可愛い、と思った。
「アルマがね、いろいろなことを教えてくれたわ」
どこか懐かしむような声色で、彼女は言う。
「でもね、お花みたいに、摘んでは来れないことばかりでしょう。
だからわたし、いつも想像しているの」
カップを割れたソーサーの隣に置いて、彼女はアルマへと顔を向けた。
「アルマ、本をくださらない?」
「どちらをお出ししましょう?」
「『博物学大辞典第七版』『世界遺産地図増補改訂版』」
そう言われるとアルマは歩み寄り、卓上のカップとソーサーをすべてひと撫でして手品のように消した。
私はきっと目を丸くしていただろう。
そして今度は虚空から本を取り出し、卓の上に載せた。
空間を操る魔術だろうか? 一体どうしてこのエルフはメイドをしているのだろう。
「ありがとう、アルマ」
本当に嬉しそうにトゥーリア嬢は笑って言った。
可愛かった。
「この本にはね、動物のことが書いてあるの」
私は座る彼女の隣に立ち、開かれた本を覗き込んだ。
そうすると本当に彼女がとても小さく感じられて、懐に入れてこのまま持って帰りたいと思った。
「カバってどんなかしら? わたし、猫と鳥は見たことがあるのよ」
その言葉の悼ましさに胸をかき乱される。
彼女はその状況の異常さにすら気づいていない。
私は気持ちを押し殺して笑顔を作った。
「カバですか……成獣になると、私の二倍くらいの大きさです」
「ええ⁉ あなたより大きいの⁉」
「はい、もしかしたら、貴女くらい愛らしい女性なら、丸呑みできてしまうかもしれませんね」
「そんな!」
固定されているはずのテーブルが揺り動いた。
「そんなに大きな生き物がいるだなんて……わからないわ、あなたより大きいのに、動けるの?」
「もちろん、とても速く走ります」
「猫よりも?」
「猫よりも」
呆けたようにトゥーリア嬢はため息をついた。
気を取り直して他の本に手を伸ばす。
「これはね、異国のことが書かれている本。
ほら、地図もあるのよ、わたしたちがいるのはここ!」
開かれたページは現在の人類領域の地図が載っている。
「そうですね、スティバーレ王国です」
「ねえ、あなた、ここ以外を知っている?」
「ええ、この地図に書かれている範囲では、だいたい半分ほどの国を訪れました」
「半分も‼」
驚いて彼女は立ち上がった。
前屈み姿勢の私の胸にやっと頭が届くくらいだ。
私は声を上げて笑ってしまった。
――会って間もないこの少女が、どうしようもなく愛おしかった。
「わたし、知らないことがたくさんあるの」
秘密を告白するように、彼女は言った。
私はその視線に合わせるため、テーブルに手をついた。
「それに、できないこともたくさんあるわ」
遮らずに私はその言葉の続きを待った。
言葉を探すようにトゥーリア嬢は視線をさまよわせる。
並べられている本からして、彼女は一般的な水準以上の読解力や語彙力はあるのだろう。
ただ、その知識を適切に用いる能力を訓練できておらず、自分の気持ちに言葉が追いつかないのだ。
いくらか幼い言葉遣いなのも、無理に難解な言い回しをしないという思慮深さから出るものだと私は考えた。
この若さで、この環境で、その平衡を培えたのは奇跡によるものか、もしくは悲しい労苦によるものではないかと思えた。
何度か、唇を開いて飲み込んで、やっとトゥーリア嬢はその疑問を口にした。
「わたしは……あなたの、邪魔にならない?」
――私はなんと言えただろう。
そのいじましさ、いじらしさに、小さな肩をかき抱くのをこらえるのがやっとだった。
私は背を正し、彼女に手を差し出した。
「トゥーリア嬢、庭に出ませんか」
見るからに緊張が走り、彼女は硬直した。
「…………なにか、壊してしまうかもしれないわ。
去年、生け垣を崩してしまったの」
「私がいます、アルマ女史も」
恐る恐るといった体で、トゥーリア嬢がアルマを振り返る。
アルマは微笑み、うなずいた。
顔を上げて私を見る。
私も作り物ではない笑顔で彼女を見返す。
「お手を、お嬢さん?」
おどおどと逡巡した後、覚悟を決めたようにその小さく白い手を私に預けた。
可愛かった。
薄雲がかかった空は澄んでいた。
緊張の面持ちながら、それでもトゥーリア嬢の表情は明るく、知ってか知らずか口角は微笑みを描いている。
「……きもちいい、とても」
早鐘を打つ鼓動が、すがるように握られた手を通して伝わってくる。
気持ちを落ち着けるように何度か深呼吸をして、彼女はゆっくりと庭園を見回した。
アルマは目の端の視界に入る位置に控えている。
それで安心したのか、彼女は私を見上げて、花ほころぶように笑った。
「ありがとう、とても、うれしいわ」
この少女はどれだけ私の心を射止めれば気が済むのだろう?
「……私の使い魔を、紹介してもいいですか?」
気を取り直して言うと、トゥーリア嬢は思案顔で私を見た。
あ、と声を上げて言い募る。
「本で読んだことがあるわ! 契約して、精霊や魔獣と『お友だち』になるんでしょう?」
「お友だち……そうですね」
少し笑ってしまってから、その言葉も悲しいものだと気づいて私は胸を痛めた。
「華々しい使い魔ではありませんが……アピス、おいで」
すぐに前方の花垣から、こぶし大の蜜蜂が飛んでくる。
大抵の人間は逃げるか追い払おうとするが、トゥーリア嬢は私の横でホバリングしているアピスを真ん丸の瞳で見つめた。
説明を問うようにちらりと私を見上げる顔は、好奇心で輝くようだった。
「私の使い魔、蜜蜂のアピスです。
当家の薔薇園を統括しているのも彼女です」
「……女性なの?」
「ええ、女王蜂ですので、メスですね」
「……近づいてもいい?」
「どうぞ、刺したりしませんので、ご随意に」
手を離して促すと、トゥーリア嬢は恐る恐るといった様子でアピスに近づいた。
アピスも彼女の目線に合わせて低い位置へと移動する。
「手を出してみてください」
言われたとおりに彼女が手のひらを差し出すと、アピスがそこにぴったりと収まった。
一瞬びくりとしながらも、トゥーリア嬢はきらきらとした瞳でアピスを見つめる。
「……こんにちは」
トゥーリア嬢がつぶやくと、アピスは何度か扇ぐように羽ばたいて挨拶を返した。
「……言葉がわかるの?」
「ええ、彼女は使い魔で、特別ですから」
「……かわいい」
「そうでしょう、可愛らしさの点では貴女に次ぎますね」
照れたのか、アピスは羽を開いて閉じる。
私は静かに息を吸い、言葉を選んで伝えようと思いを巡らせた。
「トゥーリア嬢……貴女は、先ほど私に『邪魔にならないか』と尋ねました」
肩を揺らしたトゥーリア嬢は、私を見なかった。
何かを感じたのか、アピスが飛んで彼女の右肩に移る。
うつむいてしまった顔に視線を合わせるため、私は彼女の目前に立ち、跪いた。
不安げな表情の中、私を視野に収めて少しだけ見開かれた瞳には、諦めのような色が浮かんでいる。
わたしは微笑んで、左胸に飾っていた赤薔薇を引き抜いて彼女に差し出した。
トゥーリア嬢は頬を赤らめた。
私の意図がわかったらしい。
赤い薔薇を一本……スティバーレでの意味は『一目惚れ』だ。
「貴女が貴女を愛せないなら、私が愛します」
琥珀の瞳が泣きそうに揺れて、その中には私の姿がある。
「不安なことがあるなら尋ねてください、貴女が納得できるまで答えます。
信じられないならそう伝えてください、信じていただけるまで何度でも言います」
感傷なのかもしれない、それは自覚としてある。
小さくて美しい少女が、どこにも寄る辺なく黒い部屋に閉じ込められている。
その状況に心揺さぶられた、おそらく自分の状況とも重ね合わせての同情も織り込まれた、ひとときの衝動。
それでもいいと言ってしまえるような無責任さはないが、それを否定しないでいるくらいの、若い情動は私にもまだあったらしい。
先ほどのアルマの真似事でもすることにしよう。
私は指を三度鳴らした。
差し出していた一本の薔薇が二本に、二本が四本に、そして八本に。
彼女の瞳が驚きに染まる。
私はその一本を胸に戻し、もう一本をアピスに渡す。
残りの六本を束ね、ハンカチーフで包んで花束として差し出す。
「貴女を邪魔と思う者が居るとするなら、その者こそが私の人生にとっての邪魔者です。
受け取ってくださいませんか、トゥーリア嬢。
私は貴女を『最愛』と呼びたい」
薔薇の色を模したように、トゥーリア嬢の頬は色づいている。
困ったように眉を下げ、目を泳がせて彼女はアルマを見た。
まるで物言わぬ彫像のようにアルマは気配を消していて、助けを得られぬとわかった少女は薔薇へと視線を戻した。
「…………はい」
かき消えそうな声でトゥーリア嬢はつぶやき、私の手から花束を受け取る。
六本の赤薔薇の意味は、『婚約』だ。
――後日、私はその薔薇の名を、『私の最愛』と名付けた。
学名は『ロサ・トゥーリア』。
花言葉は『あなたを愛します、秘められぬ愛、告白』として市場に受け入れられ、今やプロポーズの定番の花として恋人たちの間で用いられている。
花束を両手でぎゅっと握りしめて、それで真っ赤な顔を隠しながらトゥーリア嬢は自室へと駆け戻る。
なぜかアピスも薔薇を抱きしめて彼女の肩に止まった状態のままついていった。
隠しきれない笑顔で私はその背を追う。
慌てて閉じられた鋼の重々しい扉の奥でドカンと大きな音がして、館が一度縦に揺れた。
こらえきれずに私は笑ってしまった。
小さな可愛い私の婚約者が、可愛くてしかたがなかった。
「……トゥーリア嬢」
ノックして声をかけた。
部屋の中が静まり返った。
「アピスは貴女を気に入ったようだ。
次にお会いできるときまで、私だと思い傍においてくださいませんか」
そうすればアピスを通して、彼女の様子が私に伝えられるだろう。
「……はい」
か細い返事が聴こえた。
だが私は狡い大人なので聴こえなかったことにした。
「トゥーリア嬢? 聞こえますか? ここを開けてくださらなければ、お話ができません」
たっぷりと数分の時間があって、扉の鍵が外された音がした。
少しだけ開かれた隙間にすかさず半身を入れると、先ほどと同じように少女は真っ赤な顔を薔薇に埋めていた。
なぜかアピスは頭頂に移動していた。
「お父上に、正式な婚約の申し入れをしてきます。
貴女の気が変わらない内に、すべて決めてしまいたいのでね。
その前にひとつ、私にお許しをください」
少しだけ目元が現れて私を見た。
可愛い、本当に可愛い。
「――貴女を名前で呼ぶ許可を……トゥーリア」
声なく彼女は何度もうなずいた。
「私のことも、名で呼んでくださいますか?」
また彼女はうなずいたが、私が笑顔で黙っていると、察したのか小さな小さな声で言った。
「…………ユリシーズさま」
可愛すぎた。
思わず私はその頬に顔を寄せ軽く口付けた。
なにが起こったのかわからずトゥーリアは硬直している。
そのまま耳に口を寄せて、ささやいた。
「……全力で甘やかすからね――覚悟していて」
アピスと視線を交わすと、了解というように彼女は脚をあげた。
「それではまた後日。
手紙を書きます」
扉を閉めてその場を立ち去ると、館を出る際にまた爆発音がした。
笑顔が止まらない。
出たところにアルマが呆れたような顔で立っていた。
「ブリテンの紳士は、もっと硬派だと思っていました」
「まるで私が軟派みたいな言いようですね」
「そうじゃないとでも? よくもまああそこまで、つらつらと歯の浮くようなことを……」
「しかたがない、トゥーリアが可愛すぎる」
「貴方にお嬢様を任せるのが不安になってきました」
「そう言わないでください、婚約ができて浮かれているただの男です」
「心配でたまりませんね、今後も要観察です」
「もちろんです、アルマ、貴女にも来ていただかなければ」
私が手を差し出すと、アルマはそれを受けた。
もう一度小さな爆発音がして、微笑みを残してアルマはトゥーリアの元へと向かった。
スカンディアーニ公の元へ行こうと足を踏み出したとき、なぜか庭園内にその姿をみつけた。
「こちらにいらしたんですか、公爵」
びくりと肩を揺らして公爵は振り返った。
「あ、ああ……外の空気に当たりたくてね……」
「先ほど、トゥーリア嬢と婚約ができました。
すぐにでも成文化したいのですが、今から可能ですか?」
「……わかった」
その後のスカンディアーニ公が、やけに冷たかったことだけ、書き記しておく。