パヴァーヌ
白い砂漠が広がっていた。
「ここがアイア・サファルだって……?」
黒髪の若者が、息をつく。見渡す限りの砂の海。
風が吹く。砂がさらさらと鳴る。
「何年前だ、枯れたのは。どう見ても十年はたっている。何が任せろだ、役立たずの精霊。カビの生えたような情報しか持っていないくせして」
苛立たしげに言う若者は、恐ろしく整った顔をしていた。つややかな褐色の肌に黒髪、緑の瞳。まだ若く、少年めいた体つきをしている。しかし弱々しさは微塵もない。猫科の動物のように優美に、敏捷に動くと予測できる、しなやかな体つきをしている。
「時間の感覚が違うやつらはこれだから」
ぼやきながら、若者は砂をさくさくと踏んだ。その目が、ふと細められる。
さく、さく。
人影が一つ。大きな荷物を背負って歩いている。白い砂漠を。
さく、さく、さく……。
「何だありゃ」
つぶやいた途端、人影が倒れた。動かなくなる。背負った荷物から白い腕が一本、こぼれた。細い、少女の腕。
若者は眉をひそめた。少し思案する。それから彼は、動かなくなった人影に向かって歩きだした。
* * *
その屋敷には、塔があった。塔の頂上にある一室には、少女が閉じ込められていた。
真っ白な髪。真っ白な肌。瞳の色は青。命をたたえる水の色。けれど大地からも泉からも切り離されたその場所では、輝きを宿す事もない。
何年前から少女がそこにいるのか、使用人たちは誰も知らなかった。ただ主人の言う通り、彼女を閉じ込め続けた。
『あれは人間じゃない』
と下働きの者たちはささやいた。
『魔物だよ。何年も歳を取らない』
『旦那さまがあそこに閉じ込めてくれるおかげで、みんなが無事に生きていける』
ドーロ・ヴィアデ。砂漠の中の栄光の街。英雄ドーロが作り上げた、水と黄金の溢れる街。彼はドーロに仕える兵士の一人だった。与えられた仕事は少女の見張り。何人か同じ仕事をしていた男たちがいて、彼らは交代で少女を見張っていた。決して彼女が逃げ出さないよう。
少女は大人しく、ほとんど口をきかなかった。人形を見張っているようだった。退屈な仕事だと仲間は言った。中にはさぼる者もいて、要領の良くない者に仕事を押しつけ、自分はさっさと遊びに行った。
『たたえあれ、水をもたらした英雄を。彼は街を造り、人々を救った』
人々は彼の主人を称えた。大地に水をもたらし、街を作ったあるじを。
『たたえあれ、魔物を倒し、水をもたらした英雄を』
少女を閉じ込めている限り、街には水がもたらされる。
白い少女。閉じ込められて、打ち捨てられて。
何年も。……何年も。
男が気づいた時、そこは小さな天幕の中だった。
「あの子は」
身を起こし、周囲を見回す。自分の横に少女が寝かされているのに気づいて、男はほっと息をついた。手を伸ばそうとしてやめる。自分の方に引き戻した手を見つめる。
もう若くない、しみが浮きでて筋ばった手。体中、がたがきている。髪も随分白くなった。
少女は変わらない。初めて出会った時のまま。
『ダナ』
自分の名を呼ぶ彼女の声。
『アイア・サファルに。湖に帰りたい……』
青い目からはらはらと、涙をこぼした。彼女の中にあったのは、その憧憬だけ。美しい湖。命あふれるアイア・サファル。
『帰してやるよ』
いつの頃からか、自分は彼女にそう約束するようになった。仲間の目を盗んで。
『いつか。必ず。おまえを帰してやる……』
こんなに時間がかかってしまったけれど。
「気がついたのか」
声がして、男は顔を上げた。そこには一人の若者が立っていた。
「あんたは……?」
「ローラン。旅人だ。倒れていたあんたたちを介抱してやった」
美しい若者だった。態度の端々に尊大なものがあったが、彼の美しさには似合っていた。男は頭を下げた。
「俺はダナ。世話になった」
「そっちの子は?」
「レーナ」
一瞬、躊躇したがそう言う。ただの旅人なら、ドーロ・ヴィアデの魔性の事など知らないだろう。そう思っての事だったが、ローランはふんと鼻を鳴らした。
「ドーロ・ヴィアデの水妖か。あんた、ドーロの兵士のひとりじゃないのか? 体つきがその辺の使用人とは違う」
ぎくりとして剣を探す。ローランはふーと息をついた。
「慌てなさんな。あんたらをどうこうしようとは思ってないよ」
「信用できん」
レーナをかばう位置に移動して、ダナは言った。ローランは呆れた顔になった。
「そのつもりなら、あんたがのびてる間にとどめをさしてるさ。恩人に牙をむくのがあんた流の恩返しかい」
「俺は、レーナを守らねばならん」
「契約主でもあるまいに。あんたらの間には何にもないだろう」
「何の話だ。そんなものは知らん。ただ俺は彼女に約束した。守ると」
「だから、彼女を盗み出した? 英雄ドーロに逆らって」
ローランに言われてダナはびくりと身を震わせた。
「ドーロに忠誠を誓ったはずの兵士が?」
「わが君への忠義は、かわらずある」
苦しげにダナは言った。
「だが俺は。レーナと約束したのだ。いつか必ずアイア・サファルに連れて行くと」
閉じ込められている白い少女。若いダナは、彼女に語りかけるようになり。その境遇を哀れと思うようになった。
湖に帰りたい。
そう言って泣いた少女に、いつか連れていってやると約束した。
若かったからこその、愚かな約束。
少女を封じる事によって繁栄している街の者が、許すはずがない。英雄ドーロですら、彼女を封じ続けている。
けれど。
何年も、何年も、その約束をダナは胸の内でそっと温め続けた。ドーロの目に止まって出世をしても。少女の事を忘れる事ができなかった。
レーナ。
いつか彼女を解放しよう。それが駄目でもせめて。彼女の帰りたい場所へ連れてゆこう。そう思って。
彼は準備を整え、彼女を奪い、ここまで逃げてきた。追手をかわしながら。
「約束か」
ダナを見つめていたローランは、ひそりと微笑んだ。
「おまえのような男が相手なら、水妖も幸せだったろうに」
その瞬間、若者は王者のような威厳をまとい、輝きを放った。人ならぬ美しさを香りのように放って。ダナは知らず身震いした。これは何者だ?
しかしすぐに若者から放たれる気配は、元のものにもどった。美しいがあくまで、人間のものに。
「何の話だ」
震えを抑えてそう言うと、若者はふ、と笑った。
「あんたらの事情に興味はないよ。行きたい場所があるんなら、とっとと行きな。俺には関係のない話だ。干からびようがどうなろうが、放っておくさ。元々アイア・サファルに寄るつもりじゃなかったんだ」
「アイア・サファルを知っているのか? どこにあるんだ」
ダナが思わず言うと、ローランは目を丸くした。
「知らずにさまよってたのか」
「俺は……ドーロ・ヴィアデ近辺の事しか。レーナの言葉からこちらだと……」
気まずくなってダナが言うと、ローランは息を吐いた。
「ここだよ」
「え?」
「この砂漠が、湖がかつてあった場所だ」
ダナは白い砂漠を見渡した。朽ちた石の柱が転がり、砂に半ば埋もれている景色を。
「どれぐらい前からこうなってるのかは知らないがね」
ローランが近寄ってきて言った。ダナは呆然とした風に言った。
「一面の湖だと聞いていた。美しく青い、命をたたえた場所だと」
「昔はな」
「これではレーナが生きていけない。あの子は水がないと」
「そうなれば、それも運命だろうよ」
ローランの言葉にダナは、きっとした顔を向けた。
「何を勝手な事を……!」
「勝手じゃない事が今までにあったか? 人間のしてきた事で」
ローランはふん、と鼻を鳴らした。
「勝手に水妖を湖から連れだし、勝手に封じ込め、勝手にその力を使って街を造った。あんただってそうだ。約束とやらはあんたの勝手だろ。契約したわけでもなし。そうして勝手に約束を果たそうと、あの子を引きずって来たわけだ」
むっとしてダナは何か言おうとしたが、ローランの言葉に眉を寄せた。
「……勝手に封じ込めた?」
「ドーロとやら、人間の間では英雄だろうが。ろくな奴じゃない。それだけは確かだ」
白い砂漠を眺めてローランはつぶやいた。それから男の方を向く。その緑の瞳に真剣な光が宿っているのに気づき、ダナはまばたいた。
「ダナ。俺はあんたが結構気に入ってる。追われるのを覚悟で馬鹿な事を仕出かす、自分の信念とやらを貫き通そうとする。そういう人間が俺は、嫌いじゃないんだ。だから忠告してやるよ。妖魔や精霊、そういうものに思いをかけるのはやめておけ。あいつらは人間の情を解さない。人間が思うような存在じゃないんだ」
その言葉にダナは若者を見つめた。困惑が胸にあった。何なのだ、この若者は。砂漠でたまたま出会っただけの相手に、なぜこんな事を言う。
「俺の事を、良く知っているかのように言う」
「わかるさ。あんたみたいなのは」
「妖魔の事もか」
「知っている……良く、な」
ローランは口の端を歪めると、自嘲するような笑みを浮かべた。
「だからあの子のことはすっぱり忘れて、どこかの街で再出発しろ」
「こんな所に放り出して行けと?」
怒ったように言うと、ローランは肩をすくめた。
「約束は果たしただろう。あんたはあの子をアイア・サファルに連れてきた。これ以上は身の破滅になるぞ」
「とうに破滅しているさ」
ダナは白い砂漠を見つめた。
「俺はドーロさまの兵士として十年以上を生きた。そのドーロさまを裏切った。裏切るつもりはなかったが、結果的にはそうだ。今までの己自身を裏切ったようなものだ。俺にはもう何もない。これを破滅と言わずして、何を言う」
しみの浮きでた手を持ち上げる。
「それに俺の寿命はもう長くはない」
「そうか?」
「薬師に言われた。腹に、でかいできものがあるそうだ。うまくすれば十年は生きられるらしいが、そうでなければ一、二年で終わりだとな」
「そうか」
「ずっと、あの子との約束を覚えていたわけじゃない」
ダナは言った。
「それなりに遊んだし、良い目も見た。地位もあったしな。ただ、寿命がじきに尽きると知らされた時、約束を思い出した。果たしていなかった事を。だから果たそうと思った。それだけだ。信念とやらがあったわけじゃない」
「そうか」
ローランは吐息まじりに言うと、ふふ、と笑った。
「人間だな、あんた。とても……人間だ」
「何を当たり前の事を……」
困惑してダナはつぶやくように言った。なぜこんな、個人的な事まで話してしまったのかわからなかった。
「俺があんたにかまう理由を教えようか?」
ローランはくすりと笑うと言った。
「あんた、俺の祖父さんに似てるのさ」
レーナが歩く。さくさくと。白い砂漠を。
ダナは後からついてゆく。水や食料を背負った使役獣の手綱を引きながら。
ローランに『祖父に似ている』と言われた時には、そこまで年老いて見えているのかと唖然としたが、彼に悪気がないらしいので、怒るに怒れなかった。それに彼は、水を分けてくれた。使役獣と食料も。
『持っていきな。必要だろう』
若者はあっさりと言って、彼にそれをくれた。
『まあ、好きにするが良いさ。水妖にも本能ぐらいはあるだろうし。そいつの好きに歩かせてみな』
意味がわからなかったが、意識を取り戻したレーナに、歩いてみるかと尋ねると、少女はうなずいた。そうして今、彼女は歩いている。太陽が沈み、月に照らされた白い砂漠を。
「ダナ」
立ち止まり、少女が振り向いた。何もない砂原を指し示す。
「ここに、私の家があった」
少女は微笑んだ。
「わかるのか」
「響いてくる。水はゆらゆらと揺れていた。光が反射して。私はその中で揺れていた。水と一緒に」
レーナはひざまずいた。彼女が手で触れると、そこには小さな泉が沸き出した。
きらきらと、月光を反射して水が揺れる。
「水が……」
「ここは水の都だった。私たちの」
微笑んで、レーナは言った。
「湖はどこへ行ったんだ」
「わからない。私はここの娘だった。でも陸に上がった」
レーナは答えると、小さな泉に手を浸した。
「帰りたかった。ずっと」
「……すまない」
「なぜダナが謝る?」
「おまえを……閉じ込めたのは人間だから」
レーナはまばたいてダナを見た。
「そう。人間。でもダナは私を連れてきた」
「約束だったからな」
「約束」
レーナはささやいた。
「約束は……守るもの」
泉の水から手を戻す。
「だから私は、戻らなくては」
「どこへ」
「ドーロの所。あの屋敷に」
「なぜ!」
険しい顔になったダナに、レーナはきょとんとした顔になった。
「街に戻ればあんたは、また封じられる。閉じ込められるんだぞ。やっとここまで来たんだろう! なぜ戻るなんて」
「約束だから」
レーナは繰り返した。困惑気味に。
「レーナは、ドーロと約束した。彼を守り、彼の為に力を渡すと。彼の為に、水を産み出し続けると」
「旦那さまを……?」
ダナもまた困惑した顔になった。
「だがおまえは、帰りたかったのではないのか。ここに。アイア・サファルに。寂しかったのではないのか。一人であんな所にいて」
「帰りたかった。寂しかった」
レーナは言った。
「けれど約束は果たすもの」
「レーナ……」
「ダナは約束を守ってくれた」
レーナは微笑んだ。
「ずっと塔の中にいた。ダナが来てくれた。約束を守ってくれた。レーナはうれしい」
ダナはうなだれた。
「俺は、何もしてやれないのか」
「ダナ?」
「おまえを助けてやりたかった。だが……俺のした事はみんな、余計な事だったのか?」
「ダナ。レーナはうれしかった」
「だが、おまえは戻ると言う」
「約束だから」
レーナが言った。
「約束した。レーナはドーロに命を分けた。だから」
「命……?」
「謀叛人ダナ!」
そこで男の声がかけられる。ダナははっとなり、剣に手をやった。レーナをかばって立つ。
砂馬に乗った男たちが月光を浴びてそこにいた。そろいの制服。ドーロ・ヴィアデの兵士。追手だ。
「ドーロさまの親衛隊員でありながら、引き立ててもらった恩を忘れ。水妖を解放するとは、恥をしれ!」
「貴様の命、ここで終わりだ。あの世で後悔するがいい」
口々に言いながら、男たちは剣を抜いた。こちらに向かって突進してくる。
「レーナ。逃げろ!」
背後の少女に声をかけると、ダナは剣を抜いた。不利だ。相手は五人以上いて、砂馬に乗っている。自分は徒歩だ。しかも若い時ならともかく。老いて病み、くたびれた自分に、どこまで戦えると言うのだろう。
それでも引けなかった。レーナを守らねばならなかった。彼女をここに連れてきたのは自分なのだ。
月光に、剣が光った。
* * *
月光を王冠のようにその身に帯びて、ローランは血に染まって倒れている男を見下ろした。
「満足か?」
見開かれた目を閉じてやり、吐息まじりにささやく。
「人はなぜ、こうも生き急ぐ。たかが水妖の一人。刺されようが滅びようが、どうという事もない。あの娘はおまえが殺された時も、眉一つ動かさなんだぞ」
妖魔は、精霊は、人間とは違う。
なのになぜ。人は相手に自分の影を見ようとするのか。
「俺は祖父さんが好きだったんだ」
気配をごく普通の若者のものに変えると、ローランは立ち上がった。男の背後にある、ひっそりと沸き出で続ける泉を見やる。
「だから、あんたの為に何かしてやるよ」
きらびやかな天幕に座り、ドーロはそわそわと杯を傾けていた。宝石をちりばめた黄金の杯に、美姫が赤い酒を注ぐ。
「レーナはまだ見つからぬか」
精悍な面持ちの男は、街を拓いた時から少しも歳を取っていない。何十年が過ぎても若い顔をしている。神に愛された人間だと、みなはドーロを噂する。
「ダナめ。あれだけ目をかけてやったに、恩を仇で返しおって」
「ドーロさま。旅の楽師とやらが、歌を献上したいと参っておりますが」
機嫌の悪い主人を何とか喜ばせようと、下男の一人が奏上する。
「見目麗しい若者にございます」
「女ならばともかく、男では」
杯を煽った所で、望みの報告がもたらされる。
「水妖を捕らえました! 謀反人ダナは討ち取ったとの事にございます!」
「よくやった!」
喜色を露にしてドーロは立ち上がった。
「レーナは?」
「こちらに連れてくる途中にございます。大人しいものだとか」
「そうだろう。あれは俺に逆らえぬ」
笑うとドーロは、厚く重ねた敷物の上にどっかと座った。
「酒を持て! そうだ、楽師がいたな。連れて来い。何か歌わせてみるが良い」
呼ばれてやって来た楽師は、褐色の肌に黒髪、緑の瞳の美しい若者だった。ドーロの周囲に侍る美姫が、ほうと息をつく。
「おまえが楽師か」
「お目にかかれて光栄にございます、偉大なる英雄ドーロどの。楽師ローランにございます」
腰を折ると、彼は首の細い琵琶を取り出した。白い胴に青と銀で装飾を施された琵琶は、淡く輝いている。その美しさに人々はまたもやため息をついた。
「なんとも美しい琵琶だ。このようなものは初めて見る」
「ありがたきお言葉にございます。この琵琶の銘は『泉』。その名の通り、大地を潤す音色を奏でます」
「ほう。水とな。砂漠では黄金にも勝るものよな」
ドーロは手を振り、歌えと命じた。若者が琵琶を掻き鳴らす。
その音は、清やかでありながら柔らかく、乙女の腕に抱かれるかのような艶やかさと温かさを持っていた。あるいは月光に照らされる、せせらぎの音。人々が聞き入る内に、若者が歌いだす。その声もまた、魔法を編み出すかのようだった。彼は歌った。
月の光に輝く水晶を。
静かな夜の鳥の声を。
魔法あふれる湖の声を。そうかと思えば、
真昼の太陽の強さを。
男たちの武勲を。
大地に流れた血と女たちの涙を歌った。
ドーロはもちろんの事、周囲に侍る美姫たちも、下働きの男たちも、彼の歌に涙し、胸を高鳴らせた。
ひとしきり歌うと、若者は言った。
「次の歌は、未完成のものにございます。わたくしが旅の途中に聞きしったもので、その歌はいまだ結末を迎えてはおりませぬ。それでもよろしければ献じさせていただきますが……いかが」
「歌うが良い」
ドーロの言葉に若者は竪琴を掻き鳴らし、歌い始めた。
それは魔法に満ちた湖の歌だった。
金に、銀に、波は輝き、朝にはばら色に、夜には蒼く、水はたゆたう。珊瑚と真珠がちりばめられた宮殿が、水底にそびえ立つ。そこには美しい女王が住み、水の中のあらゆる命を統べている。
女王には娘がいた。娘は人間の男と恋に落ちた。
男は娘からあらゆる水の魔法を受け取った。どのような場所であろうと、男には、水を呼び出す力が与えられた。娘は己が命を分けて、男に与えた。それにより、男は不老の身となった。
「百年が過ぎ、千年が過ぎても汝は若くあるなり」
若者は歌った。
「我が命、我が力、背の君に捧げんがゆえ。この命尽きる時まで、汝の願いをかなえ、汝の身を守らん。されど忘るるな。我は水の女王の娘、誇り高き水の姫。流るる水のありし所では、決して我をののしる事なかれ」
竪琴が響く。
「忘るるな。その時汝は、我の与えしもの全て、ことごとく失う」
歌は続いた。男は水の王女を湖から連れ出し、街で暮らすようになる。けれど男はやがて、変心した。王女をうとましく思うようになり、つらく当たるようになった。
ついには王女は、塔の一室に押し込められ、幽閉されてしまう。人々から魔物とののしられて。男は魔物を倒した英雄と謳われた。狡猾な男は決して流れる水の側に王女を置く事をせず、大地からも泉からも切り離された場所に彼女を閉じ込めたのだ。
「背の君よ。背の君よ」
それでも王女は、自身の命を、魔法を、力を、男から取り上げたりはしなかった。小さな部屋で、ひっそりと暮らし続けた。水から切り離され、苦痛に苛まれながら。
「背の君よ、忘るるな。流るる水のありし所では、決して我をののしる事なかれ……」
若者が歌い終わると、しん、と静寂が落ちた。ドーロは途中から顔を青ざめさせていたが、今では怒りに満ちた顔になっていた。
「我を愚弄するか」
震えながら立ち上がり、ドーロは若者をののしった。
「これは我を愚弄する歌か。このドーロを!」
「なぜそのように思われるのでしょう。これはただの歌。それだけのものに過ぎませぬ」
涼しい顔で若者は言った。
「よくもそのような事を! この我を……魔物を倒した英雄ドーロを卑怯者と呼ぶか!」
剣を鞘走らせると、女たちが悲鳴を上げた。若者を切り捨てようと、ドーロが剣を振り下ろす。
しかし剣は根元から砕け、彼にかすり傷一つ負わせなかった。
「そのほう、魔性かっ?」
青ざめたドーロの前で、ローランは薄く笑んだ。
「さて。魔物と呼ぶ者もおりますが、わたくしはただの旅人。人の世をふらふらとさまよう、浮かれ者に過ぎませぬ。英雄ドーロ。魔物を封じた水と黄金の英雄どのは、何を恐れておいでか?」
「このドーロが、恐れるはずがなかろう!」
英雄はそう言ったが、はや腰が引けている。超自然の者を相手にしているという、恐れが足を震わせていた。
「水の魔をすら封じた我が。そのほうごとき!」
「奥方であられるでしょう」
ローランは妙に官能的に見える赤い唇で言った。
「魔物と言われるか。汝に命を分け与え、力を与えた水の乙女を」
「あのようなもの、欲しくもなかったわ!」
ドーロは叫んだ。
「魔物の類と婚姻を結ぶなど、見返りなくば、するはずもなかろう! 我はドーロ、英雄ドーロなるぞ! 水を与えると言ったから、夫婦のまねごとをしてやったまで。薄汚い魔物など、本気になった事もなかったわ、汚らわしい!」
叫んだ男の前で、ローランの姿が崩れる。驚くドーロの前でその姿は、白い髪の少女へと変化した。水をたたえた青い瞳。その目はひた、とドーロに向けられている。
「背の君。それが本心か?」
「レーナ? なぜ。あの楽師は!」
「わたくしならば、ここに」
ひそり、という声がして、天幕の入り口に秀麗な影がたたずむ。
「おのれ、妖術で我をたぶらかすか!」
叫ぶドーロにローランは笑い声を上げた。
「それよりは、おまえが選んだ破滅を見るが良い。契約は破れた」
「な、なに……馬鹿な! 流れる水の側でののしらぬ限り、契約は」
「だからさ」
不意にそれまでの物腰を消し、にやりとしてローランは、床に転がる琵琶を示した。
「ちょいと細工をさせてもらった」
ドーロの目が琵琶に向く。その目が見開かれる。
先程まで確かに琵琶であったはずのそれは、小さな泉と化していた。こんこんと清らかな水を沸き上がらせる、湧き水に。
「あんたに与えられていた、全ての恩恵は消える。地上でのあんたの命もな。契約は終わりだ。王女はアイア・サファルに帰還する」
ローランの言葉と共に、泉から水が噴き上がった。溢れる水は天幕を押し流し、逃げまどう人々を飲み込んでゆく。喜びの声を上げて、水妖たちが泉から飛び出す。そうしてその場にあるものを次々と水底へと引きずり込んでゆく。
青ざめて立つドーロに、白い腕が差し伸べられた。
「背の君。そなたの時は終わりだ。水底に来てもらおう」
「いやだ、俺は地上で……っ」
悲鳴は水に飲まれ、男は引きずってゆかれた。水底へ。
陽が昇る。
満々と水をたたえたアイア・サファルの湖を見下ろし、ローランは目を細めた。砂漠であったとは思えぬほど様変わりしたそこには、命をたたえた青が広がっている。周辺には緑が萌えいで、花々が鮮やかに咲き乱れていた。
「王子」
声をかけるものがいて、ローランはそちらを向いた。白と銀に輝く衣装をまとう美しい女性が湖から現れて、水面に立ち上がり、拝跪の姿勢を取る。
「我が娘を解放してくださった事、心より感謝いたします」
「娘かわいさのあまり湖の命を際限なく、人間の欲望に晒すとは。酔狂にもほどがあろう?」
ローランの言葉に湖の女王は微笑んだ。
「それこそがわれらの暇のつぶし方。ではありませぬか。あの男が欲望にまみれ、水の命を使い潰すのであれば、それもまた良し。退屈しのぎにはなりまする」
「そなたは良くとも、世の均衡を崩す事、我が祖母が許さぬ。こたびはそなた、湖を一つ干上がらせ、その命と力を人間の群れに投げ与えるような真似をした。おかげで多少、世界の天秤が傾いた。戻すには時間がかかる。われらが人の世に関わり、あれらの営みを歪めること、許されぬこと知っていよう」
「したが、求めたは人の子にございますれば。われらはただ、好意を与えたまでのこと」
女王は物柔らかな笑みを浮かべた。ローランは笑った。
「そのように言い抜けるが良かろうよ。あの男はどうした?」
「魂を壺に押し込め、娘が愛でております。出してくれと泣き叫ぶ声が、可愛らしくもよう響いてまいります」
「他には?」
「共に水底に引かれた人間たちの魂でございましょうか? 美しいものは宮殿に飾り、そうでないものはそれなりに遇しておりますが」
「娘を守って命を落とした男がいただろう。あの男の魂も水底か?」
そこで初めて、女王はとまどいを見せた。
「いいえ。あれは……天使に迎えられ、地上を離れて行きました」
「そうか」
ローランは目を閉じ、ふふ、と笑った。
「それが良かろう。水底で時果てるまで際限なく、愛でられる運命に陥るよりは。いや、それとも。それをこそ望んでいたのか、あの男は……?」
そのままローランはつぶやくように言った。
「人間とは……何であろうな」
「さて。我等とは違うもの。それだけははっきりとしておりますが。王子には、わたくしよりも良くおわかりなのでは」
女王の言葉にローランがそちらを見た。女王は白と銀に輝き、水の上で腰をかがめた。
「貴き精霊の女王が孫にして、人の世を行く王子の噂は、わたくしも耳にしておりまする。我等と人をつなぐ架け橋の役割をなしておられると」
「要は、体のよい使い走りさ」
不意に口調が砕けたものに変わり、ローランは口の端を歪めて笑った。
「俺の祖父さんは人間だった。俺には四分の一だけとは言え、人間の血が混じってる。だがそれでも。人間の事は良くわからん」
その分魅かれるんだがな、と言葉にせず胸の内でつぶやいて、ローランは女王に手を振り、湖を離れた。
* * *
英雄ドーロが拓いた黄金の街、ドーロ・ヴィアデは突然に水が枯れ、ほどなくして滅んだ。集まっていた人々は散り散りになり、街は砂に埋もれた。
砂漠に現れた蜃気楼のような、この街の物語もまた。
アイア・サファルの湖は全てを包み、ただ静かに輝いている。
イメージ音楽:フォーレ「塔の中の王妃」「パヴァーヌ」
※「塔の中の王妃」は「塔の中の奥方」、「塔にこもる奥方」とも訳されています。
最初、「妖精」シリーズの「チェリーズ・ホット」を企画作品として出そうと思いましたが、シリーズ物だしまずいか? となりまして。この作品を作りました。四分の一が妖精で、人間であることを選んだ隆志(「妖精」シリーズ主人公)と、四分の一が人間で、精霊がわにいるローランは、お互いに裏表のような存在です。