13話 後押し
「ここで注意しなければいけないのは、否定文になったときの意味が変わってしまうということです。肯定文で同じ意味だからといって、雑な暗記をしないように。助動詞は奥が深いですよ」
英語の授業に耳を傾けながら、集中して板書を取る僕。
陽嶺高校に入って、ここまで真面目に授業を聞いているのは初めてかもしれない。中間で頑張ってる物理化学も、教科書と参考書で今まで攻略することができた。保健体育は試験範囲のページをひたすら暗記するだけ、気合いを入れて励んだ記憶はない。
だからこそ、初めての経験に少しずつ気力を奪われていく。朝から数えて4つ目の授業、さすがに頭が知恵熱で噴火してしまいそうだ。
これだけ知識を詰め込んだのは、1年前の夏休み以来だ。
ノートパソコンが欲しいと父さんにお願いしたところ、当然母さんの承認がいるという流れになり、夏休み明けの実力テストで490点以上取れたら購入するという無茶を言われたのだ。
常日頃から母さんに煮え湯を飲ませたいと思っている僕からすれば、ここで逃げ出すわけにはいかない。
僕は遊ぶ間も惜しんで、食事と風呂、睡眠以外の時間を全て勉強に当てた。1日12時間前後を勉強に費やし、ペンを持つ右手は何度もイカレかけた。睡魔に負けそうになった回数なんて数え切れない。文字列を目で追いすぎて、吐きそうになったことだってある。
それでも僕は負けなかった、数ある誘惑に耐えながらも、最後まで必死に取り組んだ。
全てはノートパソコンゲットのため。そして――――騒がしくて敵わない隣の席を黙らせるため(夏休み明けに席替えがあったから、これは意味がなかったが)
しかしながら、あれだけの頑張りでノートパソコン1台というのは全く釣り合っていないように思う。買ってもらったのは15万円相当のノートパソコンなのだが、これを確保するために1日12時間約30日僕は勉強している。時給に換算すると約420円、厚生労働省も真っ青な最低賃金である。これならば、バイトでもした方がよっぽど効率的だ。
まあ、ここで勉強をしていたからこそ、得られた出会いというものもある。お金には変換できない、1年弱の思い出がある。それを考えると、効率重視が良いとは一概に言えないのが難しいところだ。
今だって、効率度外視でひたすら板書を写している。自分勝手な解釈はしてしまわないよう、機械的に知識を蓄えている。
これが正しいとは限らないが、少なくとも間違ってはいないはず。言われたこと、書かれたこと、全てそのまま伝えてしまえば、後は学年2位の脳みそがうまく解釈してくれる。
だから御園出雲、今は体力回復に努めてくれよ。情報共有した後に、少しでも勉強できるように。お前がまだ、雨竜に勝つことを望んでいるのなら。
―*―
「雨竜、さっきの件の首尾はどうだ?」
4限が終わり昼休みに突入した。がやがやと教室が騒がしくなる中、僕は教科書を片付けながら雨竜に目を向ける。
「順調だ。おそらく昼休み中に任務完了するぞ」
さすがは有言実行男、急な納品リミットにも対応できる臨機応変さに脱帽する。氷雨さんはもう少し雨竜を評価してもいいと思うんだが。
「了解、悪いがこのまま続けてくれ」
「お前はどうするんだ?」
急いで身の回りの整理をしている僕を見て、不審がる雨竜。雨竜の反応は正しい、自分に仕事を押しつけてお前は何をするんだという話だろう。
「すまん、他にやらなくちゃいけないことがある」
「他に? 俺に任務を押しつけてか?」
「そうだ。御園出雲の件と同じくらい大切なことだ」
僕は真っ直ぐ雨竜の瞳を見つめた。
御園出雲の体調不良というアクシデントがあったからこそ彼女に比重は傾いているが、僕がやりたかったことはこれだけではない。時間はそんなにないが、後回しにするつもりは毛頭ない。
「そうか」
僕の思いが伝わったのか、それ以上雨竜は追及してこなかった。
「そっちは俺が手伝わなくていいのか?」
それどころか、一緒に荷物を背負ってくれようとした。さらっとこういう切り返しができるのが青八木雨竜であり、女子生徒の憧れの的である。改めて、雨竜がモテる理由を認識する。容姿がステータスカンストしてるのに、性格までカンストさせようとしているのだから恐ろしい。
「大丈夫だ、そっちは自分で解決する」
雨竜の申し出は助かるが、こればっかりは自分で解決しなくてはいけない問題だ。
「……くく」
「ん? 何だよ」
話の途中で、唐突に雨竜が笑うものだから僕は困惑する。何だ急に、今の会話に面白い要素あったか。
「いや、期末終わったら楽しくなりそうだと思ってな」
「はっ?」
「こっちの話だ。さっ、用があるならさっさと行けよ。昼休みで人散っちまうぞ」
「やばっ」
そうだった。今は昼休み、大人しく教室で休憩している保証はない。食堂に行っててくれればいいが、それ以外だと捜すのが大変過ぎる。
僕は急いで教室を飛び出した。
「ちっ……」
廊下は学食に向かう生徒で混雑している。朝の満員電車に比べれば天地の差だが、歩行の邪魔であることに違いはない。
くそ、雨竜との最後の会話がいらなかったな。というかあいつ、いつも含んだ会話が多いんだよ。言う気ないなら口にするなって何度も言ってるのに。
歩く人を避けながら目的のクラス――――2-Dへ向かう。理由は勿論、桐田朱里に会うためだ。
今日謝罪したいのは御園出雲だけじゃない、桐田朱里にも同じように頭を下げなければいけない。
昼休みを逃せば今日はもうチャンスがなくなってしまう、それだけはまずい。
「……」
数十秒後、2-Dに到着。前回の反省を活かして無言で教室内を見渡すが、桐田朱里の姿は見当たらなかった。席を外しているだけなのか、既に食堂へ向かっているのか、いずれにせよ一足遅かったか。
「雪矢君、どうしたの?」
顔をしかめて歯ぎしりしていると、友人と昼食を摂っていたらしい月影美晴が声を掛けてきた。
助かった、桐田朱里と仲の良い彼女なら桐田朱里がどこに行ったか分かるかもしれない。
「食事中すまん、桐田朱里がどこに行ったか知ってるか?」
「朱里ちゃん? 学食か茶道室かな、お弁当持ってたし茶道室かも」
「茶道室か!」
盲点だった。確かに茶道部員の彼女なら昼食を茶道室で摂るなんてこともあるかもしれない。
「確証があるわけじゃないんだけど」
「いや、選択肢をくれただけでも助かった」
月影美晴にお礼を言って教室を去ろうとしたのだが、
「雪矢君」
いつもと変わらない声のトーンで彼女に引き留められてしまう。急いでいるため手短に済ませて欲しかったが、彼女の表情はいつもの笑顔ではなかった。
「朱里ちゃん、今日はずっと調子が悪そうだったの。だから、雪矢君が励ましてくれると嬉しい」
……まったく、なんで僕の周りは良い奴しかいないんだ。
僕が桐田朱里を捜している理由も聞かず、ただ今の状況だけを伝えてくれる。
ここで僕のせいだと伝えたら彼女は怒るだろうか、そんな意味のないことを考えてしまった。
「ああ、了解した。僕にできることは全部やるよ」
「うん、お願いします」
彼女の柔らかい声と笑顔を背に受けて、僕は教室を出る。
ここに来て良かった、桐田朱里に会う前に月影美晴と話ができて良かった。
桐田朱里が元気になることを望んでいるのは僕だけじゃない、それがよく分かったから。
この後押しを絶対、力に変えてみせる。
僕は、月影美晴の思いも胸に刻み、桐田朱里がいると思われる茶道室へ向かった。




