三章 紡がれた詩の果て
グレインと別れると、エリヴィアは雪で覆い尽くされた丘の方へと足を向けた。そこの頂上には立派な教会と、それに隠れるようにして一軒の家が建っている。
とぽとぽと家路をたどっていたエリヴィアは教会を見据えると、疲れていた身体が急に軽くなっていくのを感じた。それから、ふと昼休みのことを思い出す。
「すみませんが、期末試験の範囲を教えていただけませんか?」
あの後アルベルトが言ってきたのは、そんな言葉だったのだ。
何しろ彼が編入してきたのは、運が悪くも学期末だ。この時期の学生は否が応でもテストや課題に追われる立場にあり、それは編入生だというアルベルトも例外ではないらしい。そのため大して勉強もせずにテストを受けなければならなくなったアルベルトは、そのことを大層気にしていたのだという。
「大丈夫でしょうか」
そう訊ねてくるアルベルトに、エリヴィアは快く了承した。
アルベルトに勉強を教えるということは、当たり前だがエリヴィアの勉強にもなる。そういう利点は確かにあったのだが、何よりも、困っている友達を見捨てるようなことはできなかったのだ。
とはいえエリヴィア自身、うまく教えられる自信は砂の粒ほどもなかった。アドバイスならまだしも、人に何かを教えるということ自体が初めての経験で、不安が尽きることはない。
それでも頼みを受け入れたのは、努力をすればきっと彼にも何かが伝わってくれるような気がしたからだ。
勿論、そこに確信といえるものはなかった。だからエリヴィアが勝手にそうだと思い込んだといっても、それは過言でも何でもなかったし、もしかしたらグレインやティアナも手伝ってくれるということで、心強いと思っていたのかもしれない。
だが約束を交わしてしまったという事実が変わることはなく、明日は皆で勉強をしようということになったのである。
エリヴィアはすっかり日の暮れた空を仰ぐと、空島の間からはらりと舞う雪を目で追った。
昼間とは違い、真っ白な雪は夜の闇を受けて淡い蒼色に染まっている。小降りなせいもあるのだろうが、雪はまるで瞬いている星が天上から降ってくるような、幻想的な印象を与えてくれた。細やかな結晶は、一つ、また一つと視界に生まれ落ちてゆく。
なんてきれいなんだろう。
すると、ひらりと落ちてきた雪の一片が、天を仰いでいたエリヴィアの鼻先にそっと降りてきた。それは肌に触れた途端幻のように消え去ってしまい、残ったのは冷たい感触と水滴が一粒だけ。エリヴィアはそれをそっと拭うと、視線を再び前へと戻した。
ゆっくりと丘を登っていくと、それに合わせて教会の方からにぎやかな声が聞こえてくるのが解った。
もう、礼拝は済んだのかしら。
礼拝の時には、司教の読む経典が歌のように軽やかに流れているほか、音という音はほとんどしない。もう礼拝の時間は過ぎているだろうし、こんな風ににぎやかな理由は、それ以外に考えられなかった。
エリヴィアはさくさくと雪を踏みしめながら丘を上がってゆく。すると眼前で扉が開き、閉じ込められていた光が雪野原に溢れだした。ほんのりと黄味がかった光がおうぎ状に伸びてゆき、また扉の向こうからは数人の子供たちが飛び出してくる。
「あー、エリヴィアだー!」
「エリヴィアお姉ちゃんが帰ってきたよ!」
彼らは寒さをものともせずに駆けてくると、大きな声を上げながらエリヴィアに向って飛びついてきた。幾つもの衝撃にエリヴィアはバランスを崩しかけるが、それをどうにか持ちこたえる。
「こらこら。危ないから飛びつくなって毎回言っているでしょう?」
彼らの視線に合わせて屈みこむと、エリヴィアはそう言いながら子供達の頭を撫でた。
「大丈夫だよ。エリヴィアなら絶対に転ばないもん」
「そうだよ。だってエリヴィアちゃんだもん」
だが幾ら注意をしても聞く耳を持たず、それどころか彼らは輝く瞳を向けてくるばかりで、エリヴィアは何にも言い返せなくなってしまった。胸の中がほっこりと温まっていくのが感じられる。
無論、彼らの言う『大丈夫』に根拠があるかと聞かれれば、そんなのはないということくらい、エリヴィアにも解っていた。しかし頼られているのかなと思ってしまうと、どうしても彼らを怒る気にはなれなかったのである。
本当、子供には甘いのかもしれないな。
「ほら。寒いから早く中に戻りなさい」
きゃっきゃと声を上げている子供たちの背中を押しながら、エリヴィアは教会へと向かっていった。
中に入ると温かな空気が身体を包み、柔らかな光が視界を埋め尽くしてゆく。光の先には老若男女を問わず多くの人々がおり、そして良く見知った顔が彼らと机とを隔てた最奥――祭壇の前でにこやかに微笑んでいた。
細いフレームの眼鏡をかけた彼は、経典を腕に抱きながらゆっくりとした歩調で歩み寄ってくると、大きな掌でエリヴィアの頭を撫でてき、
「エリヴィア、おかえりなさい」
それと同時に絹のような繊細な声が、頭上から降ってきたのだった。
エリヴィアはただいまと言うと、青年へと目を向ける。
彼はアテヴィル・ローディスといい、このコーザル地区の教会で司教を務めている聖職者だ。歳のころは二十代半ばと若く、褐色の髪に穏やかな黒色の双眸が印象的な好青年であり、また司教という役職が似合うほどにその性格は穏やかで、セイ=ラピリスとしての腕も秀逸。誰からも信頼されている、そんな人物だ。
また歳こそ十しか離れていないが、このアテヴィルはエリヴィアの叔父であり、彼女に下宿先を提供している保護者のような存在でもある。
エリヴィアは長机の上に鞄を置くと、くるりと振り返った。
「もう礼拝は終わったの?」
「ごめんね。ちょうど今、終わったところなんだ」
眉を下げてそう言っているアテヴィルを見て、やっぱりそうかと納得する。だが彼の読む教えや詩が聞けなかったのは、少しばかりもったいないような気がしてならない。
エリヴィアは明日こそは礼拝に出ようと心に決めると、段々と教会内があわただしくなっているのを感じた。どうやら雑談にひと段落し、帰り支度をはじめた人が多いらしい。
ぽっかりと口を開けている扉のもとまで歩いていくと、アテヴィルはそこで人々を見送りはじめた。帰っていく人々に挨拶をしては、手を振ってくる子供に「ばいばい」と手を振りかえしている姿は、まさに優しい司教という言葉がしっくりくる。
それを幾度か繰り返していると、やがてにぎやかだった教会内はしんと静まり返り、最後の人を見送っていたアテヴィルが白い礼服をはためかせながら帰ってきた。手持ち無沙汰だったため乱れていた椅子を直していたエリヴィアは、彼に視線を向けると小さな吐息を漏らす。
「今日もお疲れ様でした」
「ありがとう。でも、まだやることはたくさんあるけどね」
ケープに覆われた肩をすくめながら、アテヴィルはふわりとした微笑みを浮かべてきた。それからふっと首を傾げ、
「ところで、今日の学校はどうだった?」
「相変わらず楽しかったよー。昨日来た編入生の子とも結構仲良くなれたし、それに授業もなかなかおもしろかったし。友達ともたくさん話せたしね」
最後の列を整頓させたエリヴィアはようやく腰を伸ばすと、うんと伸びをした。屈んでばかりいた腰は何ともいえない倦怠感がまとわりついているが、反面、気分は達成感で踊っている。
「そっか、それは良かった。やっぱり楽しいって思えることこそ、私たちに必要なものだからね」
良かった良かったと連呼すると、アテヴィルは満足そうな面持ちで聖堂を奥へと歩んでいった。静まり返った教会の中に、ひたひたという足音が響き渡っていく。
エリヴィアは彼の動きに合わせて視線を動かすと、ぐるりと聖堂内を見渡した。
そこは一面白い壁に覆われており、装飾を施された幾つもの円柱がまっさらな壁を単調でないよう見せている。それは扉のある最前から祭壇のある最奥まで立ち並んでおり、その一つひとつに物語が刻まれているかのようだった。
また祭壇に当たる部分は外から見ると尖塔になっているため、その天井は高く、天まで伸びているような感覚さえ抱かせている。そしてその尖塔の壁四方にはステンドグラスがはめ込まれているため、晴れた日にはそこから輝かしいばかりの光が降り注いでくるのだ。真っ白な建物だからこそ、その様々な色彩が美しく映え、まるでオルヴィニアが舞い降りてくるかのような錯覚さえ与えてくれる。
その祭壇の所までアテヴィルが行くのを眺めると、エリヴィアは先程整頓した椅子の一つを引き出し、ゆっくりと腰をかけた。手にしていた経典を置き、あれやこれやと手を動かしている彼の姿を見て、ぼんやりとこれからのことを考える。
明日のために、今日は勉強をしておかなきゃな。
まだ帰りそうにないアテヴィルの姿をもう一度眺めると、エリヴィアは鞄の中からノートを取り出したのだった。
夜はまだ、始まったばかりだ。