二章 細やかに流れる時(2)
…*…
願いはそう簡単に叶うものではないらしい。
やはり第一印象が相当根強かったのか。半日たった今でさえ、アルベルトがまともに話した人物はグレインのみとなっていた。転入生及び編入生というものは大抵二、三日は囲まれるものなのだが、思い起こせば昨日の時点でも彼に話しかけていた人物はそれほど多くなかったかもしれない。
尤もその原因がアルベルト自身にあるということは、エリヴィアも薄々感付いていた。何しろ聞こえてくる会話を聞いていても、まったくもって会話になっていないのだ。クラスメイトの質問に対しても、アルベルトは頷くか、否定するか、言葉に詰まるかの三択しかしていない。会話を続けようにも言葉が少なすぎるから、それ以上の発展ができないのである。
これは先が思いやられるわね。
何かとサポートをしていたエリヴィアは心中でため息をつくと、ノートを鞄の中へとしまった。代わりにお弁当箱を取り出すと、アルベルトの方へと向き直る。
「じゃあ、一緒にお昼でも行こうか」
移動教室後のためか、ぞろぞろと戻ってくるクラスメイトを横目に、席に着いてぼんやりとしているアルベルトにそう声をかけた。彼は何かおかしなことでも聞いたかのように目を見開いていたが、朝に交わした約束を思い出すと小さな声で頷き、急いで鞄の中からお弁当を取り出し始める。
長身で引き締まった身体をしていて、それでいて人を近寄らせないような美しさをまとっているというのに、こうしてみるとアルベルトも普通の少年となんら変わらなかった。むしろ同い年の男子よりも、どこか可愛らしい気質があるかもしれない。
「お待たせいたしました」
水色のハンカチに包まれたお弁当箱を嬉しそうに胸の前で持つと、アルベルトは輝いた瞳でエリヴィアを見た。だがそのお弁当は彼の体格からすれば、少ないようにも見える。
「自分で作ったの?」
何気ない風を装って尋ねると、アルベルトは肩をすくめた。
「はい。……とはいっても、朝の残り物ですけどね」
「それを言ったら私もよ。朝の残り物をパンに挟んで、サンドイッチにしただけ」
でも、残り物って楽だもんね。時間のない学生には持って来いだわ。
微笑みながらそう言うと、アルベルトは「そうですね」と頷いた。二人は喋りながら教室の前にある扉を目指して歩いてゆく。
「でも、その量じゃ少ないんじゃないの?」
「そうでもないですよ。わりとこのくらいでも足りるんです」
「へぇ。アルベルトは小食なんだね」
だがその途中で止まると、エリヴィアは「ちょっと待っててね」と言ってから、クラスメイトの鞄からもう一つお弁当箱を取り出した。アルベルトはそれを、少々不審そうな眼差しで見つめている。
「あ。これ、連れのお弁当。実は席を取っておいてもらってるの」
その視線からようやく、まだアルベルトがその子のことを知らないのだと気付き、エリヴィアは困ったような笑みを浮かべるとそう付け加えた。
そうか。まだ二日目だもん。クラスメイトの名前も顔も、全部は覚えていないよね。
「さ、行こうか」
昼時の心地良い喧騒が、校舎内を包み込んでいる。
エリヴィアはアルベルトを引き連れると、改めて食堂を目指していった。
「グレインから話は聞いてるよー。はじめましてならぬ何度目ましてだね」
さすがのフレンドリー精神だ。
クラスメイトの誰もが話しかけることさえ躊躇したというのに、連れもといティアナはいつもの笑顔を向けると、早速アルベルトに話しかけていた。
彼女なら、きっとアルベルトとも普通に接してくれるだろう。
エリヴィアはそう踏み、また自らの友達ということもあってティアナを呼んだのだが、あながち間違っていなかったようだ。アルベルトに距離を置くような様子もなく、嫌そうなそぶりも見せていない。
本当によかったと安堵するも、昨日の様子を見ていれば、ティアナがアルベルトを拒絶しないだろうというのはどことなく予想できていた。どうもクラスメイトとのやり取りを見ていたティアナは、アルベルトの口べたを『最強のクールキャラ』と捉えたらしく、話しかけるか否かで相当悶々としていたのである。
ティアナは斜め向かいに座っているアルベルトの方へ身を乗り出すと、小さな笑い声を漏らしながらちょんと首を傾げた。結わった髪と赤いリボンが、それと同時にふわりと揺れる。
「わたしね、ティアナ・カルロっていうんだ。専攻はディネイ・セイ=ラピリスなんだよ。よろしくね」
「こちらこそ、よろ――」
「ところで、何でアヴェン・セイ=ラピリスを専攻したの?」
「それは」
「っていうか、好きなものとかって何?」
「えっと……」
「そういえばどこ出身なのかな? この辺? それとももっと別の場所?」
だが愛らしい雰囲気と相反してと言うか、それとも例の如くと言うべきか。ティアナは間髪入れずにアルベルトを質問攻めにしていた。
当のアルベルトはティアナの質問についていけず、先ほどからずっと「えっと」の繰り返し状態である。しかし質問者のティアナがそれを気にしていないのだから、当然彼女の質問が止まるはずがない。
人混みから戻ってきたグレインに肘で小突かれると、エリヴィアは大きなため息をついた。
あれ? 何かこれ、既視感っていうか……。
「ねぇ、ティアナ。アルベルトが困っているよ」
「えーっ。でもでも、やっぱり色々話したいし知りたいじゃん。コミュニケーションは大切なんだよ。ね、解る?」
「でもね、正直ティアナが一方的に話しているようにしか聞こえないんだけどな?」
「そんなことないもん。ねぇ、アルくん」
っていうか、もうあだ名つけたんだ。
半ば硬直状態になっていたアルベルトはティアナにそう言われると、反射的に頷いてしまっている。ティアナの溌剌ぶりとアルベルトのあたふたぶりを交互に見つめると、エリヴィアは「言わなければいいものを」と、どこか気が遠くなるのを感じた。
食堂で買ってきたパンとサラダを机に置くと、グレインはアルベルトの隣に腰を下ろす。
「あのなぁ、友達の好で忠告しておいてやるよ。こいつらを敵に回すとな、あとで恐ろしい目に遭うから」
「はぁ……」
「ちょっと、グレイン。あんた、何アルベルトに吹き込んでいるのよ? アルベルトも、それに一々頷かない」
しかし根気よくティアナを説得している真正面で、それを促してきた本人からは聞き捨てならない言葉が紡がれているではないか。エリヴィアはそちらに顔を向けると、食いつかんばかりの勢いで反論した。途端に二人分の視線がエリヴィアの方へと注がれるが、それを見てふと気づく。
いや、もしかしたらアルベルトは疑うということを知らないのかもしれない。それとも単なるイエスマンか……。
純粋な疑問の目を向けているアルベルトの隣で、こちらも気が遠くなりかけているグレインが、エリヴィアの悲鳴に眉根を寄せた。頬杖をつきならが、もう片方の手で乱暴に頭をかきむしっている。
「別に、吹き込むとかじゃねぇって言ってんだろ。ただの忠告」
「へぇ。あれで忠告なんだ。アンタにとってはあれが忠告なんだね」
「ホラ見てみ。敵に回すとこうなるだろ?」
怖ぇ女じゃね? こいつ。
アルベルトの方へと視線を向けると、グレインは親指で凄んだ表情のエリヴィアを差した。
何、この無性に腹の立つ言葉の数々は……。
「あははっ。エリィの顔、すっごいこわーい」
けらけらと笑うティアナの声が、穏やかな食堂の空気を揺らしていく。
「誰がさせていると思っているのよ!」
唇を尖らせると、エリヴィアはティアナの頭をうりうりと掻き撫でてやった。
窓の外では、雪が舞い踊っている。
皆が食事を取り終わったのを見計らうと、コップに残っていた水を一気にあおってからグレインは立ち上がった。
「食器返してくるけど、他に持ってくもんとかある」
周囲を見渡せば、食堂内からはぽつりぽつりと人が立ち去り始めている。
「あ。じゃあ、わたしのコップもついでに持っていってくれない?」
ぴょこんと立ち上がったティアナはにこやかにそう言うと、「エリィとアルも、もういいでしょ?」と二人のコップも手に取り、それも合わせてグレインに向かって押しつけてきた。既に自分のコップと皿を持ていたグレインはおいおいと呟くと、ティアナに引き攣った顔を近づけてくる。
「ティアナ。お前、俺が幾つ手を持っているか知っているか?」
「そんなの、二つに決まってるじゃん」
「そうだ。俺の手は二つしかない。だから――」
「で? それがどうしたの?」
だがグレインが何かを言おうとした刹那、氷のような言葉をティアナはさらりと吐き出したのだった。今まで温かかった室内の空気が、瞬時に霧散していくかのような感覚にさえ囚われる。
だがその中でさえにこにこと天使の笑みを浮かべているティアナの方が、何より異質と言おうか。誰もが、今この場の主導権を握っているのが彼女であると瞬時に悟った。
背筋には暑さのためではない汗が伝ってゆく。
浮かんでいる笑みを一層深くすると、ティアナはグレインの顔を覗き込んだ。
「ね。できるよね?」
「………」
「だってグレイン、男の子だもん。女の子の前では根性見せてくれるでしょ?」
えへへと素敵に不敵な笑い声を上げながら、ティアナはグレインの肩を叩いた。
背筋を大げさに跳ねさせたグレインの表情がじわじわと凍りついてゆくのが目に見えるかのよう。エリヴィアも思わずひきつった笑みを浮かべると、ほんの少しだけ後ずさった。と同時、先刻グレインがアルベルトに吹き込んでいた忠告が頭の隅をよぎっていく。
こいつらを敵に回しちゃいけない? いや、むしろ敵に回しちゃいけないのはこの子じゃないの?
「ねえ、グレイン。私――」
「……なーんてね。冗談だよ、冗談。グレインったらそんなに固まらないでってば。エリィもアルも、そんなに見ちゃいけないものを見たような顔をしないの。ね?」
これはいよいよ、グレインを助けた方がいいのだろうか。
そうエリヴィアが思い始めると、今まで残酷な微笑みを浮かべていたティアナが、いつもの様子で三人を見ては笑い出しているではないか。今まで遠く感じていた音や感覚が、すうっと蘇ってくる。
「え?」
さっきまでとのギャップの激しさもさることながら、いまいち状況が飲み込めずに、三人はポカンと口を開けてしまった。
じゃあ、何? 今までのは全部お芝居だったわけ?
文学科の子が、何事かとこちらを気にしながら通り過ぎていった。
だが、当のティアナはグレインに渡したコップを手に取ると、一人無邪気な笑い声を上げている。
「ほら、もうお昼休みも終わっちゃうでしょ。だから皆で片づけに行った方が早いかなって思ってね」
それから妙案だとばかりに腰に手を当ると、えへんと胸を張った。
しかしそうは言うものの、周囲の反応は思った以上によろしくない。ティアナは無邪気な笑顔を苦笑に変えると、ふっと肩をすくませた。
どうやら薬が効きすぎたようだ。
「ごめんね。さっきのは確かにからかいすぎたわよ。……でもグレインが、『こいつらを敵に回しちゃいけない』っていうんだもん。ちょっとくらいは仕返しがしてみたかっただけなんだって」
パシンと掌を顔の前で合わせると、ティアナはちょろっと舌を出しながらグレインの、そしてエリヴィアとアルベルトの表情を伺う。謝っているのかが甚だ疑問だが、その仕草や表情があまりに愛らしくて、許してしまおうという気分にさえさせられる。
グレインは両手に食器類を持ちながら、「あー」と気の抜けた声を吐き出した。
「しょうがねぇな。今回はお互いさまっていうことで、許してやろう」
「さっすが、グレイン! 話が解るねぇ」
「でも、今回だけだぞ」
「解ったってば。私の耳も、ちゃんと二つ付いているんだから」
呆れ口調のグレインに、ティアナは嬉しそうに纏わりついてくる。
「それより、早くしなきゃなんだろ。歩くのに邪魔だから、ちょっとは離れろ」
「らじゃっ!」
そう言って歩いていく二人を見ると、エリヴィアとアルベルトは慌てて自分とティアナの分のお弁当箱を持ち、足早に歩み寄っていく。
「さっきのティアナ、本気じゃなかったんだね」
本人には聞こえないように小さな声でエリヴィアが呟くと、これまた小さな声で「そうですね」とアルベルトは頷いた。雑踏の中をじゃれながら突き進んでいく二人を見つめ、それから苦笑し合う。
片やめんどくさがりでしっかり者。片や甘えんぼで努力っ子。
一見でこぼこな組み合わせだというのに、この二人は案外息が合っているのかもしれない。
「エリヴィアさん」
「なあに?」
眼前のでこぼこコンビを見てすっかり和んでいたエリヴィアは、妙に間延びな声をあげた。アルベルトは一度俯くと、ちらりとエリヴィアの方を伺ってくる。
「あの……一つ、お願いがあるんですけれど、いいですか?」
昼休みの終わりが近いためか、他の学生たちも徐々にあわただしく動き始めていた。
「いいよ。遠慮せずに、何でも言いつけてね。勿論、私のできる範囲でしかやってあげられないんだけど」
「ありがとうございます。実は暇な時でいいんですが――」
だが突然、エリヴィアは自らの肩に衝撃を感じ、小さな声を漏らしてしまう。
きっと、誰かとぶつかってしまったんだ。
そう思うと反射的に振り返り、一言でも謝らなければならないとならないという思いに駆られる。しかしそこは多くの生徒でごった返しており、刻一刻と変化を遂げている。どの人にぶつかったのかさえ最早解らない状況だった。
「エリヴィアさん? どうかしましたか?」
立ち止まっていたエリヴィアを心配に思い、アルベルトが声をかけてくる。
「ううん。何でもないの」
今回はごめんなさい。
そう胸の内で謝ると、エリヴィアは待っていてくれたアルベルトの方へと駆け寄っていった。人混みのずっと奥の方に、グレインの頭だけが見て取れる。
「で、話って何だったっけ?」
再び話を続けながら、二人は歩いていった。
…*…
あぁ、なんてうるさい場所なんだろう。
幾つもの音が生まれ合う食堂の中を、少女は足早に立ち去ろうとした。
友達が何? 関係が何? こんなことに一々付き合わなきゃいけないなら、そんな関係なんて必要ないわ。
うるさい場所は、人の温もりが溢れている場所は、昔から嫌いだった。ひっそりとたたずむ漆黒の闇。何もない無の世界。それが私の好む場所だというのに――。
苛立ちが、不快感が、時を経るごとに少女の胸の中を蝕んでいく。ただ『どうしてこの場にいるのか』と自らに問いただせば、その理由はあまりにどうしようもないもので、悲しさと共に苛立ちが増していった。本当、何もかも嫌になる。
すると不意に、肩に重たい衝撃が訪れた。
人混みにいれば、誰かと接触することもあるだろう。そんなことはずっと前から知っていたし、だからこそ余計に人混みが嫌いだった。
けれど今回感じたものは、どこか異質な感覚といえようか。あまりに嫌な記憶を思い起こさせるようで、少女は思わず振り返った。と、
「……アル?」
視線の先にいるのは、銀色の髪を一つに結わった長身の少年。彼は不思議そうな表情をしてこちらの方をずっと見つめていた。胸が嫌な高鳴り方をしてきて、少女はえも言わぬ恐怖をその胸に抱いてしまう。
アル。もしかしてあなたは、また同じ過ちを起こそうとしているの?
彼はにこりと微笑むと踵を返し、再び歩みを再開させていった。
それを見ていた少女は茫然とその場に立ち尽くしていると、冷汗で湿った掌を握りしめる。
……させない。あなたにそんな思いは、二度とさせないわ。だから――。
「ビアンカ、どうしたの? 授業に遅れちゃうよ」
すると肩に、ポンと手を置かれた。ハッとして振り返ると、そこには心配そうな視線を向けてくる少女たちの姿がある。
「うん……ごめんね。ぼんやりしてたの」
少女は――ビアンカはそう言うと、友達の方に向き直った。それから二言三言と記憶にも残らない言葉を交わしながら、歩を進めていく。
最後にもう一度振り返っても、そこには見知った顔は一つもなかった。