一章 白銀の世界を携えて(2)
…*…
運命とは、たまにできすぎていると感じることがある。
エリヴィアは己の運命に感服しながら、ぼんやりと目の前で繰り広げられている授業を聞いていた。
なるほど。この運命のおかげで、どうしてセフィアが「あ」と声を上げたのかというのにも合点がついた。そうじゃなきゃ、こんな役割はそうそう回ってくるはずもない。
時を遡ること数時間前。よろめきながら机と椅子を運んできたセフィアは諸連絡を済ませるなり、アルベルトの席へとやってきたのだ。そこまでは解る。だがここからが運命のいたずらというもので、隣の席であり、専攻が同じであり、且つクラス委員という御縁で、エリヴィアが放課後に学園案内をする破目になったのだ。
「じゃ、よろしくね。クラス委員さま!」
そう言ってきた時には『可愛さ余って憎さが百倍』というのだろうか。さすがにあの少女のような担任の微笑みを見た瞬間、悲しさといおうか困惑といおうか、それとも怒りといおうか。ともかく形容し難い様々な感情が湧き上がってきたのである。
それをどうにか押さえ込んだエリヴィアは、取り残されたアルベルトの方へと向き直り、しかし何を言えばいいのか解らなくもなったのだが――。
「私、同じアヴェン・セイ=ラピリスを専攻しているエリヴィア・ローディスっていうの。よろしくね」
ふっと微笑んでから、気づいてしまったんだ。そう見えるだけじゃなくて、アルベルトの中には深い悲しみが宿っているんだっていうことに。
だから、なんてお気楽者なんだろうって。そんな中響いていた元気な自分の声を聞いて、ほんの少しだけ苛立ちを覚えてしまったのだった。
左の掌で顔を覆うと、エリヴィアはしばらくしてから右隣の席をふっと窺う。そこには今までと何ら変わらぬ表情のアルベルトがいて、他の生徒と同じように授業を聞いては、ノートにペンを走らせていた。
それは当たり前の光景なんだけど。そうだと解っているんだけど。
じゃあ、君がセイ=ラピリス科に来た理由って?
視線を戻し、顔面を覆っていた手を机の上に下ろしてゆく。
……私も授業に集中しなくちゃな。
エリヴィアは細く長く息を吐き出すと、黒板に書かれた文字列をノートに写し始めた。
このアンデルベリ国にオルヴィニア教が生まれてから、千を超える時が過ぎた。
唯一神オルヴィニアを祀っているこの宗教では、人類とは最も尊く、そして全ての生命の始点だと考えられている。それ故に人類とはいかなる生物よりも脆く儚く、この世で知りうる限りの負を気づかぬうちにかき集めてしまう存在――罪人であるともされていた。
罪人は自らに巣食った負の力を抑えることはできても、それ自体を取り除くことはできない。怒り、悲しみ、苛立ち、恐怖、孤独――。様々な負の力は『生きる』という行為を続けている限り不可避なものであり、だからこそ人々はその力に囚われることを恐れていた。そしてその恐れが、また別の負の力を生み出す。
その果てのない負の力を浄化し、悪魔などの異端者から人々を守ってくれる者。これこそがオルヴィニアだとされている。
しかしここ二百年ほど前のこと、突如としてオルヴィニアの元に使者が現れたのだ。使者の持つ力はオルヴィニアの持つ力と酷似しており、それを自らの意思で使うことができたのである。
勿論オルヴィニアの持つ力から比べてしまえば、それはあまりに小さなものではあったのだが、このことが人々に多大なる幸福と安心感をもたらしたことは言うまでもない。
人々はこのことをオルヴィニアが聖なる力を授けてくれたのだと歓喜し、以来この力を持つ者は『セイ=ラピリス』として、多くの人を支え続けているのである。
そして今エリヴィア達が通っているのが、大陸北部では最大規模を誇るハンフィーズ学園の高等部、セイ=ラピリス科であった。この学科では一年の後期に、罪人に憑いた負の力を取り除くアヴェン・セイ=ラピリス、異端者から人々を守るディズ・セイ=ラピリス、精霊やオルヴィニアの声を聞き人々に助言を与えるディネイ・セイ=ラピリスの三分野から専攻分けをし、各々(おのおの)に見合った能力を伸ばしていくのである。
同じアヴェン・セイ=ラピリスの好からこの学園内を案内することになったエリヴィアは、未だに相容れない状態の編入生を引き連れて、セイ=ラピリス科の校舎を案内をしていた。
いつの間にか雪は止んでおり、一段と輝く夕日を横目に見ながら「ここが音楽室だ」「ここが演習室だ」と後を付いてくるアルベルトに説明してゆく。放課後の校舎内はどことなく閑散としており、またアルベルト自身があまりしゃべらないために、エリヴィアはいつもの調子が出せないで苦難していた。
朝はあれだけのフォローを入れてくれたというのに、頼みのグレインは「めんどくさい」と先に帰ってしまうし、ティアナはといえばセフィアに呼ばれてしまったため、早々に教室を立ち去っている。
本当は学園内の全てを案内しなければなのだろうが、生憎この広大な学園内を一人で案内できる自信もない。だから今日はセイ=ラピリス科の校舎だけでいいかと思ったのだが、これが思ったよりも困難だったことは言うまでもないだろう。
はぁ。私一人で何ができるっていうのかしら……。
カツンカツンと足音を響かせながら廊下を進んでいくと、重い気持ちを引きずりながら階段を下っていく。最後のフロア――一階に辿りつくとエリヴィアは玄関に背を向けて、先ほど下ってきた階段に向かい合った。
「ここが玄関になって、入ってから右の通路へ行くと六年生のクラスがあるの。――さっきまでの説明で大体解ったと思うけど、玄関側を背にして右側が教室、左側が特別教室ね。クラスは各階に四つずつ、学年が小さいほど上の階にあるわ。それと階段は、玄関前にあるこの大きなやつと校舎の両脇に一つずつあるから、移動教室の際は必要に応じて使い分けてね」
あとは、ここの階の特別教室くらいで大丈夫かな?
頭の隅でそう考えてから、エリヴィアはアルベルトへと視線を向けた。彼は相変わらず表情を一つも変えないまま、ただ頷いてくっついてきている。茜色に輝いている風景の中、彼の髪は一際きれいに輝いていて、それがまた哀愁を漂わせているかのようにも思わせた。胸の中で、何かが微かな痛みを上げる。
だがその痛みを振り払うと、エリヴィアは気を取り直して特別教室の方へと歩いていった。ふと窓の外を見やると、他学科の生徒が歩いていく。
ああ、これも言い忘れていたわね。
エリヴィアは再び歩みを止めると、アルベルトに窓の外を見るよう促した。夕暮れの中、白の上着に深緑色のスカートをはいた女子生徒が数人、楽しそうに話している。
「同じ学園内だけど、うちは学科によって制服の色が違うの。今あそこにいるのは理数科の子よ。上着のラインとスカートが深緑色でしょ? 同じように、文学科が紺色。私達セイ=ラピリス科が臙脂色ね。ただ、セイ=ラピリス科だけはケープを着ているし、短剣を帯びているから、見た目でもすぐに解ると思うけど」
そう言ってエリヴィアは自らのケープをつまむと、できる限りの笑顔をその顔に浮かばせた。彼女を見ていたアルベルトもまた自らの制服や腰に帯びていた短剣を眺めると、今まで引き結んでいた口の端をほんの少しだけ上げてくる。
「そうですか。でも……そうなると、男子のは解りにくそうですね」
それはひどく幼く、そして優しい笑顔だった。また、初めてまともに聞いた声は、心に囁きかけてくれるような、どこか落ち付くような音色をしている。
エリヴィアはハッとして、不躾にもアルベルトの表情に見入ってしまった。
ずっとずっと寂しそうだと思っていた彼が、心を開いてくれないと思っていた彼が、あまりに優しい笑顔を向けてくれていたから……。
視線が重なると、エリヴィアは頬が少し熱くなるのを感じる。でも、
「そうね。男子の制服は、ズボンも白いもん」
少しだけでもいい。アルベルトが心を開いてくれたようで、それがエリヴィアにとって一番嬉しかった。上辺だけだった笑顔が、本当のものへと変わっていく。
「さ、行きましょ。この教室はね――」
輝く夕の光は、徐々にその色を闇に染めていった。