七章 雪降る月夜の詩詠い
盗み聞きをするつもりはなかった。
ただ、来たらそうなっていたんだ。
だけど、思い出した。
忘れていた過去を、全部全部思い出してしまった。
アルベルトは何も言わず、ただぽろぽろと涙をこぼしながら、自らの記憶に心を痛めた。
俺は色んな人を殺したんだ。
愛する人をも殺そうとしたんだ。
そして悪魔に操られて、異端者同然の存在になっていたんだ。
それなのにセイ=ラピリス科で勉強をしている? 誰かのためになりたいからって? この人殺しが……?
あまりに場違いじゃないか、そんなの。
静々とした空気が漂う中、アルベルトは困惑していた。
このまま俺はセイ=ラピリス科にいてもいい存在なのだろうか。そもそもにして、こんなことをした人間を野放しにしておいてもいいのだろうか。
尽きない疑問に押しつぶされそうになり、アルベルトはぎゅっと目を瞑った。冷たい雫がまた一粒落ちてゆき、床の上で破片をまき散らしながら儚く散ってゆく。それと同時に、あることに気づいた。
詠唱学の実習や練習中に、どうして気分が悪くなったのか。
それはきっと……アルベルト自身が罪人であり異端者でもあるからだろう。罪人の心を癒すアヴェン・セイ=ラピリス、そして異端者に対抗するディズ・セイ=ラピリス。二つの詩が流れれば、これだけ負い目を持った者は苦しんだとしても不思議ではない。
ああ、そういうことか。
俺、もう人間ですらなかったんだ。
扉の外では相変わらず、分厚い雲が足早に流れている。そこからはひっきりなしに白い結晶が舞い降り続けていた。その一片が、アルベルトのすぐ横を過ぎ去ってゆく。
「アル。だから言ったでしょう。あの子たちといると苦しむって」
するとうずくまっているエリヴィアになど目も向けず、ひたひたとビアンカは歩み寄ってきたのだ。アルベルトはその言葉に、びくっと肩を跳ね上がらせる。
「特にエリヴィア。あの子はあなたに苦しみ以外、何も与えないわ。だって、あの子はリリアスの生まれ変わり。リリアス自身と変わらないもの」
あなたが最後に殺そうとし、そして封印された相手なのよ?
視線で、雰囲気でそう言ってくるビアンカから、しかしアルベルトは視線が離せないでいた。
違う。そんなことない。
エリヴィアさんは確かにリリアスの生まれ変わりかもしれないけど、でも、苦しみ以外与えないだなんて、そんなことは絶対にない。
だってエリヴィアさんは、俺にいろいろなことを教えてくれたんだ。学校のこと、クラスのこと、勉強のこと、それから楽しいっていうこと。一日ごとに世界が広がっていくようで、それがいつも楽しくて嬉しくてしょうがなかったんだ。
それに、ずっとずっと一緒にいたいって。そう思うのって苦しいからじゃないでしょう?
だが外さぬ視線を同意と取ったのだろう。
ビアンカはアルベルトとの距離をさらに詰めると、艶やかな仕草で彼の腕を掴んできた。銀色の前髪の間からは、不安に震えた瞳がのぞいている。
「大丈夫、心配しないで。今、あの子を消してあげるから」
すると、まるで幼い子にでも言い聞かせるかのような優しい声音でそう言うと、ビアンカはアルベルトの頭をそっと撫でたのだ。結われた髪は、銀色の残像を残しながら揺れている。
しかしアルベルトは咄嗟にその手を振りほどくと、身体を反転、エリヴィアに背を向け庇うような体勢を取った。
消す? 心配しないで?
何を言っているのだとアルベルトは思った。
ビアンカはアルベルトにとって、姉のような存在だった。むしろ記憶のなかったアルベルトにとって、ビアンカとはアルベルトの世界そのものだったのかもしれない。
けれど学校に行くようになって、アルベルトの世界は変わった。今は間違っていると思ったことなら間違っていると主張するくらいできる。今までのような、何でも鵜呑みにするような自分じゃない。
「そんなことは、させない」
耳が痛くなるような静寂に包まれる中、震える声音だけがやけに大きく聞こえてきた。
「どうして?」
だが目を瞠っていたビアンカは裏切られたと思ったのだろう。アルベルトにまで子供のように敵意をむき出しにすると詰め寄り、狂気と恐ろしさに満ちちた形相で睨んできたのだ。よく見ればビアンカの持つ長剣は、彼女の手と共に闇色の光を発している。黒煙とも、ましてや影とも取れない。まさに異様な光景がそこには広がっていたのだ。
これが……死神?
半歩足を引き、だがすつにアルベルトは心中で首を振った。
ダメだ。引いたら負けを認めたようなものじゃないか。
だからといって、この長剣に勝つような手立てなど思い浮かばないし、ましてやあれで自らの両親を殺められているのだと考えれば、身体が竦んで仕方がなかった。けれど……。
アルベルトは右の腰に差してある短剣に手を触れると、大きく一つ息を吐いた。
大丈夫。できる。
目を瞑り、精神を落ち着かせ――そして負けん気溢れる瞳でビアンカを見据えると、今までの迷いの一切を切り離した。心が幾分か、軽くなる。
「もう二度と、大切な人を泣かせたくないんです」
そしてそうきっぱりと言うと、短剣を引き抜き、守護石であるアイオライトに口づけをした。
オルヴィニアとの盟約が、今交わされる。
…*…
朦朧とする意識の中、それでも不穏な空気は感じられた。
一切否定的な意見を受け付けず、どのような手段を使ってでもリリアスの生まれ変わりを殺めようとしている少女の声。
そしてその行動を真っ向から否定しながらも私を守ってくれている少年。
しかし本来ならばこの二人が対面で衝突をするとは思ってもみなかった。何しろこの二人は実の姉弟のように仲が良く、そして助け合ってきた仲なのだ。それなのに、今はその面影すら残っていない。
止めなきゃ。手遅れになる前に……。
だがそう思ったところで、激痛に苛まれた身体は動いてくれやしない。頭を持ち上げようにも、先ほど引っ掻かれた傷からは呼吸をも止めるほどの痛みや苦しみがにじみ出てきてかなわないのだ。
『頭を上げれば死ぬ』。暗にそう言われているような気さえする。
冷たい風が、冷や汗のにじんだ肌を掠めていった。薄らと目を開ければ、霞んだ視界の奥には二人の姿が見えてくる。
暑さ、痛さ、苦しさ、気持ち悪さ――おおよそこの世にある不快感を掻き集めたかのような感覚にくっと声を上げると、エリヴィアは指の先で床をひっ掻いた。
もっと、ちゃんと二人の姿が見えないと、何をしているのか解らない。
苦痛で細くなった目をさらに凝らし、エリヴィアはまた床をひっ掻いた。爪の削れる、嫌な感触がする。だがその行為こそがエリヴィアの意識をつなげ、調整していた。意識が遠のきそうになると爪を立て、集中しようとすればするほど、その力は籠っていく。
するとビアンカの手から浮き上がる、影とも黒煙とも形容しがたいものが、先刻よりもさらに大きくなっていたのだ。ましてやそこからは途方もない負のオーラを感じ、エリヴィアは身を凍らせる。
こんなのにやられたら、気どころか身体も滅入ってしまう。
早くアルベルトを助けなきゃ。
そう思い、だがすぐに今は自分がアルベルトに守られている立場だということを思い出した。
今の私には、何にもできない。ただ足手まといにしかなってないじゃない。
自分の無力さに、また涙が出そうになった。
エリヴィアはすっかり皮の剥けてしまった指で、なおもきゅっと床をひっ掻く。
けれどそんな彼女の心に、たった一つの言葉が響き渡っていったのだった。
「もう二度と、大切な人を泣かせたくないんです」